第7話「牧場の朝」
朝霧の中に羊がいた。白くて、丸くて、もこもこで、数えきれないほど。
「ノア様、あれ全部ラウシェンベルク領の羊ですか」
「ああ。三百頭ほどいる」
三百頭。
三百頭のもこもこ。
令嬢として冷静でいなければ。ここは公爵令嬢として、領地経営への関心を見せる場面──
「すごいっ、いっぱいいるっ!」
冷静さ、二秒で崩壊。
ノアが横目でこちらを見ているけれど、もう止められない。目の前に広がる牧草地は朝露に光っていて、その上を羊の群れがのんびり移動している。朝の空気は冷たくて、草と土と羊毛の匂いが混ざり合って鼻をくすぐる。
今日は領地の牧場を見学する日だ。ノアの巡回診療に同行するための予習、という名目をもらった。
「触ってもよろしいですか」
「好きにしろ」
近づくと、羊たちはもそもそと移動して距離を取る。群れの習性だ。でも一頭だけ、逃げずにこちらを見ている子がいた。
──あの子だ。
鼻先に黒い模様がある。子羊。生後二ヶ月くらいだろうか。好奇心旺盛な目でこちらを見つめている。
しゃがむ。手を差し出す。
子羊がとことこ近づいてきて、私の手を──べろり。
「あっ」
舌があたたかい。ざらっとしていて、でも力は弱くて、ちゅぱちゅぱと指を吸い始める。
「乳と間違えてる」
ノアが後ろで呟く。
「この子、母親が乳腺炎で授乳できなくなった。人工哺乳で育てた子だ。人慣れしている」
「そうなんですか、かわいそうに……」
「かわいそうではない。元気に育っている」
獣医の視点は合理的だ。同情より現状の評価。
子羊の頭を撫でる。毛が──想像以上にもふもふ。犬やとも違う。弾力があって、指が沈み込んで、底なしにやわらかい。脂っぽさが手に残るのは羊毛のラノリン。前世の知識が蘇る。
「あっ、もこもこ……もっこもこ……」
「何を言っている」
「いえ、羊毛の品質が素晴らしいと申しておりますの」
全然違うことを言った。
子羊が私の膝によじ登ってきた。前足を膝にかけて、メエと鳴く。高い、甘い声。
「めっ、メエ……」
私まで鳴いてしまった。
「返事をするな」
「だって鳴くから……」
ノアが呆れたような顔をしている。でも怒ってはいない。
牧場主のおじさんが近づいてきて、ノアに挨拶する。日焼けした顔に深い皺、大きな手。
「ノア先生、お嫁さんですかい」
「……まあ、そうだ」
「おお、羊を気に入ってもらえてよかった。この辺りの羊は大人しいですよ」
「とても良い羊たちですわ。毛並みが見事で」
令嬢モードを起動する。
「お嬢さん、よかったら搾乳してみますか?」
「えっ、いいんですか?」
即答。食い気味。ノアがまた横目で見ている。
牧場主に教わりながら、母羊のそばに座る。乳房に手を当てて、やさしく絞る。コツは強く握りすぎないこと。前世で保護猫への哺乳は経験があるけれど、羊は初めて。
しゅっ、と白い乳がバケツに落ちる。
「おお、筋がいいですな」
「前に動物の──その、牧場で少し経験がありまして」
嘘の上塗り。設定がもう取り返しのつかないところまで来ている。
搾りたての乳はあたたかくて、かすかに甘い匂いがした。
群れの中を歩く。羊たちが私の周りをもそもそと動いて、気づいたら囲まれていた。白い毛の壁。どこを見ても羊。前も後ろも右も左も、もこもこもこもこ。
「ここ……天国では?」
つい声に出る。
メエ。メエエ。メエエエ。
羊たちが一斉に鳴いた。朝の牧場に羊の合唱が響きわたる。
「ヴィオレッタ」
ノアの声が、羊の向こうから聞こえた。
「埋もれているが、大丈夫か」
「大丈夫ですわ! むしろ最高です!」
白い毛の海の中で両腕を広げる。もふっ、もふっ、と四方八方から体温が押し寄せてくる。鼻先をすり寄せてくる子、背中を押しつけてくる子、足元でじっとしている子。
ああ、幸せだ。
羊たちを掻き分けてノアが近づいてきた。手を差し出される。
「立てるか」
「は、はい」
ノアの手を掴んで立ち上がる。大きくて、骨ばっていて、指先にタコがある手。獣医の手だ。
「……服が毛だらけだ」
「勲章ですわ」
「また言うのか、それ」
ノアの唇がわずかに曲がる。笑ってはいない。でも笑う一歩手前の、そういう表情。
帰り道、牧草地を並んで歩いた。朝霧が晴れて、丘の向こうに朝日が昇り始めている。足元の草が朝露でぬれて、靴がじっとり湿る。
「ノア様、この領地の羊はどなたが品種改良を?」
「先代──父だ。寒冷地に強い品種を掛け合わせた」
「お父様も獣医でしたの?」
「いや。ただの変わり者だった」
ノアがほんの少しだけ遠い目をする。
「父は人付き合いが苦手で、羊と話すほうが好きだった。俺は、まあ──似たんだろう」
「素敵なお父様ですわね」
「変人と変人の血筋だ」
「でしたら、わたくしはこの領地にぴったりですわ」
ノアが足を止めた。
「……変な嫁だな」
「お褒めの言葉として受け取りますわ」
丘の上で足を止めて、振り返る。牧草地に白い点が散らばっている。羊たち。風に乗って、遠くからメエという声が聞こえる。
辺境は確かに不便で、王都とは比べものにならないほど田舎で、社交界の華やかさとは無縁。
でも──ここには、もふもふがある。
それで十分だ。
館に戻ると、コロが全速力で走ってきた。私のスカートに鼻を押しつけて、くんくん嗅ぎまわる。
「羊の匂いがするでしょ?」
コロがぶるぶると全身を振って、ぶふっと鼻を鳴らす。嫉妬だろうか。
「大丈夫、コロが一番よ」
──と言いつつ、明日はミルクにも同じセリフを言う予定だけど。




