第3話「無口な獣医」
嫁いで三日目。ノアとの生活が始まっている──はずなのだけれど。
「おはようございます、ノア様」
「……ああ」
「今日のご予定は?」
「診察」
「どちらの?」
「牛」
会話が終わった。
朝食の食堂で向かい合って座っているのに、私とノアの間に流れる空気は冬の湖みたいに冷たい。いや、冷たいというより──無。虚無。ノアはパンをちぎっては口に運び、紅茶を飲み、新聞に目を落とす。以上。
私の存在、認識されているのだろうか。
テレサが気まずそうに紅茶のおかわりを注いでくれる。今日はこぼさなかった。成長。
「あの、ノア様」
「なんだ」
「昨日のお山羊さんの赤ちゃんは元気ですか」
ノアの手が止まる。
パンを持ったまま、ほんの少しだけ顔を上げた。
「……立てるようになった。乳の飲みもいい」
「まあ、よかった」
「母親の回復も順調だ。出血は止まって、食欲も戻っている。逆子だったから産道に負担がかかったが、裂傷は浅かった」
急に饒舌になった。
「あと、へその緒は自然に取れるのを待つ。無理に切ると感染のリスクが──」
「ええ、ええ。それで?」
「初乳の成分は通常の乳とは異なるんだが、免疫グロブリンが──」
止まらない。
さっきまで「牛」の一言で会話を終わらせた人と同一人物とは思えないほど、ノアは動物の話になると言葉が溢れ出す。目の色まで変わる。灰色の瞳が、ぱっと明るくなっている。
「──すまない」
はっとしたようにノアが口を閉じた。
「長く話しすぎた」
「いいえ、もっと聞きたいです。免疫グロブリンがどうかしたの?」
「……興味があるのか」
「ありますとも」
嘘じゃない。前世でペットショップ店員をしていた身としては、動物の健康管理は実務の範囲だ。免疫グロブリンは知識としてかすかに覚えている。
ノアが少し間を置いて、また話し始めた。今度はさっきより落ち着いた声で、でも言葉は途切れない。
山羊の初乳の話から、新生子の体温管理、辺境の冬を越す方法、牧草の質と乳量の関係。聞いているうちに紅茶が冷めて、テレサが淹れ直してくれて、それもまた冷めた。
「──で、去年の冬は子羊が三頭」
「寒さで?」
「いや、母羊の栄養が足りなかった。牧草の刈り入れ時期を変えてから改善した」
「なるほど……」
メモを取りたい。本気で。
ノアが急にこちらを見た。
「なぜ聞く」
「え?」
「普通、興味を持たない。山羊の初乳だの牧草だの」
「普通って、どういう意味ですか」
「……前の──」
ノアが言いかけて、口をつぐんだ。紅茶のカップを手に取り、飲み干し、立ち上がる。
「診察に行く」
食堂を出ていくノアの背中を見送りながら、私は考える。
「前の」──なんだろう。前の客? 前の来客? 前の婚約者候補?
なんにせよ、ノアには「動物の話を聞いてくれる人」がいなかったのだと思う。
食器を片づけに来たハンスに聞いてみた。
「ノア様は、いつもあんなに無口なんですか」
「……人間相手は、な」
ハンスの足元でミルクがゴロゴロ喉を鳴らしている。私に対する態度とまるで違う。
「ノア様は人が苦手なのですか」
「苦手というか──興味がないんでしょう」
興味がない。人間に。
「動物は?」
「見ればわかるでしょう」
ハンスが食器を重ねる手を止めて、窓の外を顎で示す。
中庭で、ノアがコロの耳の裏を掻いている。しゃがみ込んで、穏やかな顔で。あの横顔には確かに、食堂での無表情とは全く違う温度がある。コロが嬉しそうに鼻をくんくん鳴らして、ノアのポケットに顔を突っ込んでいる。
「昨日、おやつを隠し持ってるのを嗅ぎつけたんです」
ルカがいつの間にか隣にいた。この屋敷の人間は気配を消すのが上手すぎる。
「ノア様、いつもジャーキーをポケットに入れてるんですよ。コロ用と、ゼフィル用と、ミルク用。三種類」
「三種類も?」
「猫用は鯖の干物です。ハンスさんに頼んで特注してるんですよ」
ルカがくすくす笑う。
獣医子爵、ポケットに三種のおやつ常備。その事実だけで胸がきゅっとなるのはどうしたものか。
昼食はノアと二人きりだった。ハンスが黙って配膳して去り、テレサは洗濯で忙しいらしい。
また無言の食卓になるかと思ったので、作戦を変えてみる。
「ノア様、コロちゃんは何歳ですか」
反応。ぴくり。
「……七歳。大型犬だから、人間で言えば五十四くらいだ」
「そうなんですか。前──その、本で読んだのですが、大型犬は小型犬より寿命が短いと」
「ああ。体が大きい分、心臓や関節への負担も大きい。コロは股関節に持病があって──」
始まった。
ノアの瞳に光が灯る。診察するときみたいな、真剣で、でもどこかやわらかい目。
そのまま昼食が終わるまで、コロの関節ケアについて二十分は聞かされた。
──コツがわかってきた。
この人と話すには、動物の話をすればいい。それだけでノアは饒舌になり、表情が緩み、声のトーンがあたたかくなる。
逆に言えば──それ以外の話題では、心の扉がぴたりと閉じてしまうのだ。
夕食の席で、もう一つ試してみた。
「ノア様、ゼフィルはどうやってこの屋敷に?」
ノアがフォークを止める。
「……怪我をして飛べなくなっていた。ルカが見つけて、俺が治療した」
「それで懐いて?」
「懐いてはいない。あいつは野生だ。ここにいるのは、ここが居心地いいからだ」
「居心地がいい。ノア様のおかげですわね」
「……どうだか」
ノアがそっぽを向く。でも耳の先が少し赤い。
──ハンスもノアも、この屋敷の男は耳に感情が出るらしい。
食堂を出るとき、廊下の突き当たりにミルクがいた。相変わらずこちらを見て、ふんと顔をそらす。
三ヶ月。
でも、今日の距離は昨日より一歩ぶん近かった──ような気がする。
部屋に戻ると、コロが先にベッドを占領していた。もう定位置らしい。
「ねえコロ、ノア様ってさ」
コロの背中を撫でながら話しかける。ふわっとした毛の感触が指の間をすり抜けて、あたたかい。
「動物の話になると全然違う人みたいになるよね」
ばふ、とコロが尻尾を振る。
「なんでだろうね」
答えはまだわからないけれど──知りたいと思っている自分がいる。
ノアの「前の」の続き。動物以外に心を閉ざしている理由。
それは、もう少し一緒に暮らしてみればわかるだろうか。




