エピローグ「もふもふの日々」
春が来た。
窓を開けると、牧場を渡る風がラベンダーと若草の匂いを運んでくる。空は抜けるような青。丘の稜線には菜の花が咲き乱れ、羊たちが新しい草を食んでいる。
「ヴィオレッタ」
名前を呼ばれて振り返る。
「様」がなくなったのは、結婚式の翌日からだ。照れくさそうに「様をつけるのは他人行儀なので」と言ったノアの耳が真っ赤だったのを、たぶん一生忘れない。
「どうしました?」
「子犬たちが脱走した」
「また!?」
庭に出ると、四頭の子犬が牧場中を駆け回っていた。
茶色のハナ。白のユキ。ぶちのマル。そして一番小さい黒のチビ。生後三ヶ月になった四兄弟は、日に日に元気を増して手に負えなくなりつつある。
「ハナ! 花壇に突っ込まないで——あっ」
遅かった。ハナがテレサの丹精した花壇にダイブし、チューリップの花びらを盛大に散らした。
「きゃあっ! ハナちゃん! 私の花壇がっ!」
テレサの悲鳴が庭に響く。
ユキは洗濯物のシーツの間をくぐり抜けて泥だらけの足跡をつけ、マルは厨房から盗んだソーセージをくわえて逃走中。チビだけはコロのお腹の下に隠れて震えている——この子は母親似の臆病さんだ。
「ルカ! マルを捕まえて!」
「追ってます! 速い! この子めちゃくちゃ速い——うわっ転んだ!」
転んだのはルカのほうだった。
ハンスが無表情でハナを回収し、脇に抱えて戻ってくる。強面の使用人長の腕の中で、ハナが尻尾を振って顔を舐めている。ハンスの口元が微かに緩んでいるのを、私は見逃さない。
「奥様。花壇のほうは——」
「テレサに謝ります……」
毎朝がこんな調子だ。
犬四頭。親犬一匹。猫一匹。鷹一羽。馬一頭。ウサギ一羽。羊は数えるのをやめた。この屋敷の住人は、人間より動物のほうが多い。
もふもふに囲まれた暮らし。前世の三浦はなが夢見たそのままの生活が、ここにある。
「ノア」
「はい」
「今日の巡回、一緒に行っていいですか」
「もちろん」
馬のブリッツに二人で乗る。以前は私が後ろだったのに、いつの間にか前になっていた。ノアの腕が背中越しに手綱を握り、ブリッツの鬣の匂いが鼻をくすぐる。
春の牧場を駆ける。
丘を越え、川を渡り、東区画の農場へ。グレータおばさんが「奥様! 朝ごはん食べてきなさい!」と焼きたてのパンを押しつけてくる。断れないまま頬張ると、バターの香りが口いっぱいに広がる。
南区画ではノアが子羊の健診をしている間、私は母羊のブラッシングを担当する。毛並みに指を通すと、春の毛が抜けてふわふわ舞い上がる。
「ヴィオレッタ、鼻に毛がついている」
「え、どこ——」
ノアの指が、私の鼻先にそっと触れた。
羊の毛を一本つまみ取って、風に放す。白い綿毛が春風に乗って飛んでいく。
「……取れましたけど」
「ええ」
「今の、わざとですか」
「何がですか」
しらばっくれる顔が上手くなった。結婚前は感情を隠すのが下手だったのに、最近は——いや、隠すのが上手くなったんじゃない。感情を出すのが上手くなったのだ。
「ノア様は変わりましたね」
「様はやめてください。あと——変わったのはあなたのおかげです」
さらっと言う。昔なら絶対に言えなかった言葉を、この人は平然と口にするようになった。
帰り道、丘の上で馬を止めた。
眼下にルクセン領が広がっている。牧場、農場、屋敷、川、水路。疫病のときに作った濾過層は今も稼働していて、水路の水がきれいになったと領民が喜んでいる。
「ノア」
「はい」
「あの日のこと、覚えていますか」
「どの日ですか」
「全部」
ノアが、少し笑った。
「覚えています。全部」
山羊のお産の日。コロが私の手を舐めた日。ゼフィルが肩に止まった日。眠れない夜。疫病の十八日間。朝焼けの牧場。泣いた月夜。犬と猫と鷹に邪魔された日。エミリアの訪問。丘の上のプロポーズ。子犬が生まれた朝。
「俺は——言葉が得意ではないので」
「知ってます」
「だから、毎日言い続けます。言葉にするのが下手なぶん、回数で補いたい」
何を。
「ありがとう」
春風が吹いた。ラベンダーと草の匂い。
「こちらこそ」
丘を下りると、屋敷の前で子犬たちが待っていた。四頭が尻尾をちぎれそうなほど振り、コロが一番前で吠えている。ミルクは窓辺から冷めた目でこちらを見ている。ゼフィルが鷹舎の屋根から一声鳴いた。
「ただいま」
言った瞬間、子犬が殺到してきた。膝に飛びつくハナ。靴紐を噛むマル。足の間をくぐるユキ。そしてコロの陰からおずおずと顔を出すチビ。
もふもふの海。幸福の洪水。
しゃがみこんで、ありったけの「よしよし」を配る。毛並みの感触が指先に、体温が掌に、犬の匂いが鼻に。五感の全部が、幸せで満たされていく。
「ヴィオレッタ」
ノアが隣にしゃがむ。チビを拾い上げ、掌に乗せた。チビがきゅうと鳴いて、ノアの指を舐める。
「明日も、一緒に動物の世話をしてくれますか」
「もちろん」
「明後日も」
「もちろん」
「来年も」
「当然です」
ノアが笑った。
ここに来た頃は、笑顔なんて見せてくれなかった人。動物にしか心を開かなかった人。
今は——笑ってくれる。私に。
断罪されて、辺境に送られて。あのとき私は人生の終わりだと思った。
でも終わりじゃなかった。
もふもふまみれの、幸せの始まりだった。
子犬たちが庭を駆け回る。コロが追いかける。テレサが「花壇に入らないで!」と叫ぶ。ルカがゲラゲラ笑う。ハンスが猫を抱いて微笑んでいる。
その真ん中で、ノアと二人、肩を並べて立っている。
春の風が吹く。
もふもふの日々は——今日も、明日も、ずっと続く。




