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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第30話「子犬が生まれる朝」

夜明け前に、コロが吠えた。


いつもの「おはよう」の吠え方ではない。短く、鋭く、何度も。窓の外はまだ暗い。時計を見ると午前四時。


ベッドから飛び起きた。


コロの声が尋常じゃないのは、もう聞き分けられる。嬉しい声、甘える声、警戒する声——そして今のは、助けを求める声だ。


廊下に出ると、ノアがすでに走っていた。


「コロが——」


「聞こえました。犬舎ですか」


「ええ。たぶん——」


ノアの目が光っている。焦りではない。期待と緊張が入り混じった獣医の目。


犬舎に駆け込む。


ランプを灯すと、藁の上にコロが横たわっていた。お腹が大きく膨らんでいる。呼吸が荒く、体が波打つように収縮している。


「陣痛が始まっている」


ノアが膝をつき、コロのお腹にそっと手を当てた。


「順調です。もうすぐ——」


コロが甲高い声で鳴いた。痛みと、本能と、不安が混ざった声。


私もコロの頭のそばにしゃがみ込む。耳の後ろを撫でると、コロが私の手に鼻先を押しつけてきた。


——大丈夫。そばにいるよ。


ふと、既視感が走る。


この光景。この緊張。この空気。


初めてこの屋敷に来た日——山羊のお産に立ち会ったときと同じだ。


あのときは何もわからなかった。ノアの邪魔にならないよう、遠くで見ているだけで。「はじめまして」の挨拶すらまともにできないまま、山羊の出産が始まって。


今は違う。


「ノア様、タオルとお湯を持ってきます」


「お願いします」


迷わず動ける。何が必要で、何をすべきか。この数ヶ月で、体が覚えている。


台所で湯を沸かし、清潔な布を何枚も抱えて戻る。ノアはコロのそばで穏やかに声をかけ続けていた。


「いい子だ、コロ。ゆっくりでいい」


その声を聞いて、コロの呼吸が少しだけ落ち着く。動物はこの人の声を信じている。


「一頭目が来ます」


ノアの手が、コロの後ろに回る。


生まれた。


小さな——本当に小さな、濡れた塊。コロが振り返り、鼻先で子犬を押して、膜を舐め取り始める。母親の本能。


「……っ」


声にならない声が漏れた。


子犬が、ぴくりと動いた。


「呼吸、始まりました」


ノアが静かに告げる。


タオルで子犬の体を拭く。掌に収まるほど小さい。濡れた毛はまだ色がわからないけれど、コロと同じ茶色になるだろうか。指先に伝わる体温が——生きている。


「二頭目」


立て続けだった。コロが踏ん張り、二頭目の子犬が生まれる。今度はコロが自分で膜を破り、舐めて——子犬がきゅうと鳴いた。


涙が出た。


前世でもペットショップで子犬の誕生に立ち会ったことはある。でもこんなに——胸の奥が震えたことはない。


三頭目。四頭目。


コロは四頭の子犬を産んだ。全員、元気に動いている。コロのお腹にもぐり込んで、乳を探して鼻を押しつけている。


「全頭、健康です」


ノアがタオルで手を拭きながら言った。その声に安堵が滲んでいる。


「四頭……」


「多いほうです。コロはがんばった」


コロが私を見上げた。疲れた目。でも尻尾だけは弱々しく振っている。


「コロ。よくがんばったね」


頭を撫でると、コロが鼻を鳴らした。


子犬たちが身を寄せ合って、きゅうきゅうと鳴いている。まだ目も開いていない。耳もぺたんと垂れている。でも——生きている。温かくて、柔らかくて、ちっぽけで、懸命に。


「ノア様」


「はい」


「覚えていますか。最初にお会いした日」


ノアの手が止まった。


「山羊の、お産」


「はい」


あの日。断罪されて辺境に送られて、絶望のどん底で馬車を降りたら——婚約者が山羊の出産の真っ最中だった。


「はじめまして。ヴィオレッタ様……の前に、すみません、この子のお産が」


そう言って、血と羊水で汚れた手で私を迎えた人。


「あのときは何もできませんでした。遠くで見ているだけで。でも——」


子犬の一頭を、そっと掌に乗せる。おそるおそるではなく、自信を持って。小さな命の重み。鼓動が指先に届く。


「今は、一緒にできます」


ノアがこちらを見ている。


ランプの灯りの中、眼鏡の奥の瞳が光っている。何を考えているのか——いや、わかる。この人の目は、言葉より雄弁だから。


「最初も」


ノアが口を開いた。


「最初も、これからも——一緒に」


短い言葉。でも、この人の「一緒に」は世界で一番重い。


窓の外が白んできた。朝だ。


犬舎に朝の光が差し込む。コロの茶色い毛並みが金色に輝いて、子犬たちの小さな体がぽかぽかと温まっていく。


「この子たちの名前、一緒に考えてもいいですか」


「もちろん」


「じゃあ——この、一番小さい子」


掌の上の子犬が、きゅうと鳴いた。


「この子は——」


名前を考えようとして、子犬が私の親指にちっちゃな口を寄せてきた。乳を探しているのだ。いとしくて、おかしくて、笑ってしまう。


「名前は——あとでゆっくり考えましょう」


「そうですね」


コロのそばに子犬を戻す。四頭が母犬のお腹に並んで、一心不乱にミルクを飲んでいる。コロが満足そうに目を閉じた。


「ノア様」


「はい」


「幸せです」


ノアが眼鏡を直した。レンズに朝日が反射して、一瞬だけ表情が隠れる。


でも、口元が笑っているのは見えた。


「俺もです」


犬舎の扉の向こうから、足音が聞こえてくる。ルカの「生まれたんですか!?」という叫び声。テレサの「わあ」という歓声。ハンスの「おめでとうございます」という低い声。


朝の光が広がっていく。


子犬が四頭。コロが一匹。ミルクが窓辺で伸びをしている。ゼフィルが鷹舎から一声鳴いた。馬のブリッツが厩舎で蹄を鳴らしている。羊たちがメエメエと朝のあいさつを始める。


もふもふだらけの朝。命だらけの朝。


——この場所に、来てよかった。


心の底からそう思えた朝だった。

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