第29話「動物の世話を」
その日は、妙に周囲がそわそわしていた。
朝食の席でハンスが「今日は天気がいいですね。牧場に出られてはいかがですか」とやけに丁寧に勧めてくる。テレサは「ヴィオレッタ様、今日は少しおしゃれしませんか」と新しいリボンを持ってきた。ルカに至っては、すれ違いざまにウインクしていった。
全員が何か知っている。
私だけが蚊帳の外。
いや——薄々勘づいてはいる。第27話の告白未遂以来、ノアが「次こそ」と言ったまま五日が過ぎていた。その間にエミリアの訪問があったから機会を逃していたけれど、もう障害はない。
あとは——動物の邪魔が入らない場所とタイミング。
夕方。
仕事を終えて屋敷に戻ろうとしたとき、ルカが駆けてきた。
「ヴィオレッタ様! ノア兄が丘の上で待ってます!」
「……待ってます」
「行ってあげてください! あ、コロは僕が預かりますんで! ミルクもゼフィルも鍵かけときました!」
鍵!?
動物を物理的に隔離したらしい。徹底している。ルカのおせっかいもここまでくると清々しい。
「ルカ」
「はい!」
「ありがとう」
「いってらっしゃい!」
牧場の裏手にある小さな丘を登る。夕日が沈みかけていて、空全体がオレンジと紫のグラデーションに染まっている。
丘の頂上に、ノアが立っていた。
いつもの外套——ではなく、きちんとした上着を着ている。髪も整えてある。眼鏡だけはいつも通り。
似合わない格好をしているわけではない。むしろ似合っている。でも、いつもと違うノアは——ちょっとだけ、緊張する。
「ヴィオレッタ様」
「はい」
近づく。五歩。三歩。一歩。
手が届く距離で止まった。
夕日を背にしたノアの表情は逆光で見えにくい。でも、声でわかる。この人も緊張している。
「あの——前回は、犬と猫と鷹に阻まれましたが」
「覚えていますよ。とても楽しかったです」
「楽しかったですか」
「ノア様は楽しくなかったですか?」
「……心臓が止まるかと思いました」
正直な人だ。
ノアが息を吸った。深く、ゆっくり。
「俺は——言葉が得意ではありません。動物相手なら伝わるのに、人間には……特にあなたには、うまく伝えられない」
夕日が沈んでいく。オレンジが赤に変わり、空の端に紺色が広がり始めている。
「だから、獣医の言い方しかできませんが——」
ノアの手が、ゆっくりと差し出された。
「俺と一緒に——動物の世話を、してくれませんか」
風が止まった。
いや、止まったのは私の時間だ。
動物の世話を。
動物の、世話を。
「それは」
声が震える。頬が熱い。目の奥が熱い。でも泣いてる場合じゃない。これは——大事な場面だ。
「それは——プロポーズですか?」
ノアの差し出した手が、かすかに震えている。
「……はい」
一言。
たった二文字。でもこの人がこの二文字を絞り出すまでに、犬に突撃され、猫に膝を占領され、鷹に手紙を運ばれ、五日間のタイミング調整を経て、ルカに動物を鍵つきで隔離してもらい——。
不器用すぎる。不器用すぎて胸が痛い。
「ノア様」
「はい」
「動物の世話だけで、いいんですか?」
ノアが目を瞬いた。質問の意味がわからなかったのだろう。この人は本当に——恋愛に疎い。
「朝ごはんも一緒に食べたいですし、巡回にも一緒に行きたいです。夜はお茶を飲みながら、今日診た動物の話を聞きたいです。雨の日は一緒に薬を調合して、晴れた日は牧場でお昼寝して——」
声が大きくなっていく。止まらない。
「ゼフィルの羽繕いも手伝いたいし、コロのお散歩も一緒がいいし、ミルクのブラッシングだって二人でやりたいし——」
「ヴィオレッタ様」
「はい」
「全部、一緒でいいですか」
——ずるい。
その言い方は、ずるい。
目から涙がこぼれた。笑いながら泣くなんて、前世でもなかった。嬉し泣きの感触を、このとき初めて知る。
「お受けします」
差し出された手を取った。ノアの指は冷たいけれど、握る力はあたたかい。
「一緒に——動物の世話を、させてください」
ノアの表情が変わった。
これまで見たどの顔とも違う。安堵と喜びと、どうしていいかわからない戸惑いが全部混ざった顔。
「……ありがとうございます」
「こちらこそ」
手を握ったまま、二人で夕日を見る。最後の光が丘の向こうに沈んでいく。空にはもう星が瞬き始めている。
「ノア様」
「はい」
「動物の世話、ですけど」
「はい」
「もふもふし放題ってことですよね」
ノアが——吹き出した。
声を上げて笑っている。こんなに笑うノアを見たのは、本当にこれが最初だ。
「もふもふし放題です」
「毎日?」
「毎日」
「朝も昼も夜も?」
「朝も昼も夜も」
最高のプロポーズだ。世界一のプロポーズだ。王子の百万回の甘い台詞より、この不器用な獣医の「動物の世話を」のほうが何億倍もいい。
遠くで——聞き覚えのある吠え声がした。
「わんわん!」
丘の下から、コロが全速力で駆け上がってくる。
「ルカが鍵かけたんじゃ——」
「コロは鍵を鼻で開けるんです」
「そんな特技が!?」
コロが二人の間に突っ込んできて、繋いだ手をぐるぐる回り始める。尻尾の回転が過去最高速度だ。
今度は——邪魔だとは思わなかった。
「コロ。おいで」
しゃがんでコロを抱きしめる。あたたかくて、柔らかくて、幸せの匂いがする。
「コロにも報告しないとね。これからずっと一緒だよ」
「わん!」
ノアがしゃがんで、コロの頭を撫でた。私と並んで、同じ犬を撫でる。
指が触れた。今度は——避けなかった。
「帰りましょう」
「はい」
丘を下りる道、コロが先導して走る。夜空に星が広がっていく。
——あなたも大事、と言ったあの日から。
ここに辿り着くまで、ずいぶん時間がかかった。犬と猫と鷹の妨害も含めて。
でも、この速度がちょうどいい。
動物と同じペースで。不器用に、まっすぐに。
屋敷の玄関でハンスが待っていた。私たちの顔を見て、強面がふにゃりと崩れた。
「おめでとうございます——奥様」
今度は、否定しなかった。




