第2話「もふもふの洗礼」
翌朝、目覚めたら犬が布団の上にいた。
「……え」
茶色い大型犬。昨日、門の前で尻尾を振っていたあの子だ。丸くなって私の足元で寝息を立てている。ふさふさの尻尾が毛布の上でゆらゆら揺れて、体温があったかくて──。
もふりたい。
もふりたいもふりたいもふりたい。
「まあ、おはようございます。よく眠れまして?」
誰もいない部屋で令嬢口調。癖って怖い。
そっと手を伸ばす。耳の後ろに触れた瞬間、犬がぱちっと目を開けて、ばふんと尻尾を振り始めた。ベッドが揺れるくらいの勢い。
「こら、ベッドが壊れますわ──きゃっ」
犬が突進してきた。胸に飛び込んでくる。舌がべろべろと顔を舐めまわす。犬の息は獣臭いのに不思議と嫌じゃない。毛並みは思ったよりごわっとしていて、でも耳の裏だけ絹みたいにやわらかい。
「あははっ、くすぐったっ──」
令嬢の仮面が三秒で吹っ飛んだ。
「コロ、朝からうるさいぞ」
扉の向こうからノアの声。
──コロ。この子、コロっていうのか。名前の由来が気になるけれど、今は顔を舐められるのを止めるほうが先だ。
なんとかコロを押しのけて身支度を整え、食堂に向かう。
廊下を歩いていると、柱の陰から白い影がこちらを見ていた。
猫だ。
白くて、目が青くて、ふわっふわの長毛種。
「まあ、なんて綺麗な……」
しゃがんで手を差し出す。前世の経験上、猫には急に近づかないのが鉄則。指先を鼻の高さに持っていって、匂いを嗅がせて──
白猫はふんと鼻を鳴らし、くるりと背を向けて去っていった。
完全に無視された。
「ミルクは人見知りだ。三ヶ月は懐かない」
いつの間にか後ろにノアがいた。心臓に悪い。
「三ヶ月……」
「俺にも一年かかった」
一年。この猫、相当な高飛車である。さすがのツンデレっぷり。だがそこがいい。ミルクという名前とあの女王然とした態度のギャップが最高ではないか。
「ミルクちゃん、気長にお友達になりましょうね」
廊下の向こうでミルクが振り返りもせず曲がり角に消える。尻尾がぴんと立って、その先だけくるんと曲がっている。
──あれは怒ってるのか、興味があるのか。前世の知識が試される。
食堂で朝食をとっていると、窓の外をなにかが横切った。
影。大きな影。
ばさっ、と翼を広げた鷹が窓枠にとまっている。金色の瞳がまっすぐ私を射抜く。
「ひっ」
思わず声が出た。近い。鷹の嘴が怖いくらい近い。羽毛の隙間から覗く鋭い爪。翼をたたんだ姿は精悍で、動物好きの私でもさすがに「可愛い」とは言えない迫力がある。
「ゼフィル。驚かせるな」
ノアが窓辺に歩み寄ると、鷹は不満そうにキィと鳴いて腕に移った。革手袋の上で爪がぎしりと食い込む音。
「この鷹がゼフィル。鷹匠見習いのルカが面倒を見ている」
「……お強いんですのね」
「気性は荒い。慣れるまで手は出すな」
ゼフィルが首を傾げて、じいっとこちらを見る。品定めされている。鷹に値踏みされる令嬢、人生で初めての経験だ。
風が窓から入り込んで、鷹の羽毛の匂いが鼻先をかすめる。野生の、乾いた匂い。犬とも猫とも違う、空の匂いだ。
ゼフィルはもう一度キィと鳴くと、ばさりと翼を広げて飛び去っていった。
「嫌われましたかしら」
「さあ。ゼフィルが自分で決める」
ノアの返事は相変わらず素っ気ない。
朝食を終えて館の中を歩くと、いたるところに動物がいることに気づく。廊下にコロが寝そべり、台所の裏にミルクが座り、中庭ではルカがゼフィルの餌やりをしている。窓の外には馬がのんびり草を食んでいて、遠くに羊の群れが見える。
「ヴィオレッタ様、お茶をどうぞ」
メイドが盆を持って現れた。二十代くらいの女の子で、にこにこ笑っている。
「テレサです。なんでもお申しつけくだ──あっ」
盆が傾いた。
カップが滑る。
私の膝に紅茶がばしゃっとかかる──かと思いきや、コロがどこからともなく走ってきてカップを咥えた。
中身は半分こぼれたけれど、残りはコロの口の中。
「ご、ごめんなさい! コロもだめ! カップ返して!」
テレサがコロを追いかけて廊下を走り回る。カップを咥えたコロはそれが遊びだと思ったのか、尻尾をぶんぶん振りながら全力で逃げる。
爪が床を引っ掻く音。テレサの悲鳴。コロの嬉しそうな鼻息。
私はもう、笑うのを我慢できなかった。
「あはっ──ふふ、ふふふっ」
お腹を抱えて笑っていたら、廊下の奥からハンスという使用人長が現れた。五十代くらいの強面の男で、身長はノアより高い。顔に傷がある。
「……騒がしいな」
低い声。怖い。元軍人とかそういう系だろうか。
テレサがびくりと固まる。コロもカップを咥えたまま止まる。
ハンスがコロに近づき、カップを取り上げ──
「コロ、食器は咥えるものじゃないだろう」
──と、優しくコロの頭を撫でた。
え、優しい。
そしてハンスの足元に、いつの間にかミルクがすり寄っている。ハンスはそれに気づくと、鉄面皮のまま片手でミルクの顎の下を掻き始めた。ミルクがゴロゴロと喉を鳴らす。
三ヶ月懐かないはずの猫が、この人にはべったりではないか。
「ハンス殿、ミルクちゃんとお仲良しなんですのね」
「……別に。勝手に寄ってくるだけだ」
目が合わない。耳が赤い。
猫溺愛を隠す強面の使用人長。最高のキャラクターがここにいた。
──犬に飛びつかれ、猫に無視され、鷹に睨まれ、メイドに紅茶をかけられかけた。
嫁入り二日目にしてこの洗礼。
令嬢としての格は地に落ちた気がするけれど、前世の私が全力で「最高じゃん」と叫んでいる。
部屋に戻ると、ベッドの上にコロがまた丸くなっていた。
今度は遠慮なく、その背中に顔をうずめる。あたたかくて、ふわっとしていて、ちょっとだけ獣臭い。
「……幸せ」
小声で呟いたら、コロが尻尾で私の腕をぱたぱた叩いた。
明日はミルクにもうちょっと近づけるだろうか。ゼフィルには……まだ早いかもしれない。




