第27話「犬に邪魔される」
何かがおかしい。
ノアの様子が、おかしい。
いや、疫病の後遺症とかそういうネガティブな話ではなく。この三日間、ノアが妙に——そわそわしている。
朝食のとき、パンにジャムを塗ろうとして手元が滑り、テーブルに赤い軌跡を残した。ノアがそんなドジを踏むのを見たのは初めてだ。ドジはテレサの専売特許なのに。
巡回中、薬草の名前を間違えた。間違えたことに自分で気づいて「今のは違う」と訂正する姿が、なんだか可愛い。いや可愛いとか思ってる場合じゃなくて。
そして今。
「ヴィオレッタ様」
夕暮れの牧場。仕事を終えて柵に寄りかかっていた私に、ノアが声をかけてきた。
振り返ると、ノアが立っている。いつもの外套、いつもの眼鏡。でも——いつもと違う。背筋がぴんと伸びていて、表情が妙に硬い。
「あの——」
ノアが口を開く。
「俺は——その」
言葉を探している。ノアの語彙力が高いのは知っている。獣医学の専門用語を淀みなく使いこなすこの人が、言葉に詰まっている。
もしかして。
もしかしなくても。
これは——。
「ヴィオレッタ様、俺は——」
「わんわんわんわんわんっ!!」
コロが全速力で突っ込んできた。
六キロの塊が私とノアの間に割り込み、ノアの膝に飛びかかり、勢いそのまま顔面を舐め回す。尻尾がプロペラのように回転している。
「コロ——待って——今——」
ノアがコロを引き剥がそうとするが、コロは全力の愛情表現モードに入っていて止まらない。顔、耳、首、手——舐められるところは全部舐める。
「わんわん!」
「コロ、やめ——眼鏡が——」
「ぶふっ」
笑ってしまった。
ノアが真剣な顔で何か言おうとしたタイミングに、犬が全力タックル。乙女ゲームなら即座にリセットボタンを押すレベルの興醒めだ。
ノアがコロをようやく落ち着かせ、地面に座らせる。「待て」の手信号に、コロがぴたりと止まった。さすが躾は完璧だ——三秒だけ。すぐに尻尾が再起動する。
「すみません。改めて——」
ノアが姿勢を正す。
「ヴィオレッタ様、俺は——」
にゃあん。
足元に猫のミルクが現れた。
白い毛並みの猫がするりと私のスカートの裾を通り抜け、ノアの足にすり寄り、そのまま彼の膝の上にぴょんと飛び乗る。丸くなって、喉を鳴らし始めた。
「ミルク」
「にゃあ」
「今は——」
「ごろごろごろ」
ミルクは完全にくつろぎモードだ。ノアの膝は猫にとって最高の座布団らしい。前足を折りたたみ、目を細め、世界で一番幸せそうな顔をしている。
ノアが途方に暮れた目でミルクを見下ろし、それから私を見る。
もう笑いをこらえるのが限界だった。
「ノア様、ミルクが——」
「わかっています。……少し待ってください」
ノアがミルクをそっと抱き上げ、近くの柵の上に降ろす。ミルクが不満そうに「にゃ」と鳴いたが、ノアは今度こそ真剣な顔で振り返った。
「三度目です。今度こそ——」
ぴいいいいいっ。
空から。
銀灰色の影がノアの腕に舞い降りた。ゼフィルだ。しかも——嘴に何かくわえている。
手紙だった。
「ゼフィル、今は——」
鷹はノアの腕で堂々と胸を張り、手紙を差し出す。「受け取れ」とでも言いたげな琥珀の瞳。無視することを許さない、王者の風格。
ノアが諦めたようにため息をつき、手紙を受け取った。
「……王都からだ。ガルシュタイン伯爵の馬が蹄の病気で、診てほしいと」
「今すぐの話ですか?」
「いいえ。来月の話です」
来月。
全然急ぎじゃない。
ノアがゼフィルを見つめ、ゼフィルがノアを見つめ返す。鷹と獣医の沈黙の攻防。
「……ゼフィル。お前は空気が読めない」
「ぴいっ」
空気を読むつもりは毛頭ないらしい。
私はもう、声を上げて笑っていた。お腹が痛い。涙が出てくる。
一回目は犬。二回目は猫。三回目は鷹。
「ノア様……動物に好かれすぎです」
「好かれて困ることがあるとは思わなかった」
真顔で言うノアの額に、汗が一筋。この人なりに必死だったのだ。
笑いが収まったとき、ノアが深く息を吐いた。
「今日は——やめておきます」
「え」
「邪魔が入らない場所と時間を、ちゃんと選びます。次こそ」
ノア様。それ、予告ですか?
言えなかった。だって私も、もう期待してしまっている。
ノアがゼフィルを腕から飛び立たせ、膝に戻ってきたミルクを片手で抱え、足元のコロを連れて歩き出す。動物を三匹引き連れた長身の獣医の背中は、なんだかファンタジーの勇者みたいで——いや、獣医のほうがいい。
「ノア様」
背中に声をかける。
「はい」
「楽しみにしています」
ノアの足が止まった。
振り返らない。でも、耳が——赤い。
「……善処します」
善処。
プロポーズの予告に「善処します」って返す人、この世界に何人いるんだろう。
足元でコロが嬉しそうに吠えた。ミルクが「にゃ」と鳴いた。空の上でゼフィルが一声、高く鳴いた。
——動物に囲まれた告白(未遂)。
前世のどの乙女ゲームにも、こんなルートはなかった。
でも——悪くない。
むしろ、この人らしくて最高だと思う。
次はいつだろう。楽しみすぎて眠れなかったらどうしよう。
部屋に戻る途中、テレサとすれ違った。
「ヴィオレッタ様、どうかされましたか? お顔が赤いですよ?」
「なんでもないです!」
「本当ですか? 風邪じゃ——」
「風邪じゃないです!!」
テレサが目を丸くしている。叫んでしまった。
——落ち着け、三浦はな。いや、ヴィオレッタ。
心臓がうるさい夜は、もふもふに限る。ウサギのモコを膝に乗せて、ふわふわの毛に顔を埋めた。
「モコ……私、どうしよう」
モコが鼻をひくひくさせた。答えは出ない。でも、もふもふは正義だ。




