第26話「泣いてもいい」
夜中に目が覚めた。
理由はわからない。物音がしたわけでもなく、悪い夢を見たわけでもない。なんとなく——胸騒ぎがして。
窓の外を見ると、月が出ていた。薄い雲がかかって、ぼんやりした光が庭に落ちている。
時計を見る。深夜二時過ぎ。
水でも飲もうと部屋を出て、廊下を歩く。屋敷は静まり返っていて、自分の足音だけが板張りの床に響く。
台所に向かう途中、ふと——裏口が開いているのに気づいた。
こんな時間に。
嫌な予感がして、上着を羽織り直して外に出る。月明かりの庭を抜け、裏手の牧場へ。
柵の向こうに、人影があった。
ノアだ。
牧場の隅、小さな丘のふもとに座り込んでいる。外套も羽織らず、薄着のまま。隣には犬のコロが寄り添うように伏せている。
「ノア様」
声をかけると、ノアがゆっくり振り返った。
月明かりに照らされた横顔を見て、息を呑む。
泣いていた。
眼鏡を外して膝の上に置き、目元を手の甲で拭っている。でも拭いた端から新しい涙が零れて、意味をなしていない。
「——すみません」
かすれた声だった。
「起こしてしまいましたか」
「いいえ。たまたま目が覚めて」
嘘ではない。でも「たまたま」の裏に何かがあった気がする。
近づいていいのか迷った。泣いている人のそばに行くのは、時に暴力になる。見られたくない涙を暴くことになりかねないから。
コロが私を見て、尻尾を一度だけ振った。「来て」と言っているような目。
——犬は嘘をつかない。
ゆっくり歩み寄り、ノアの隣に座った。草が冷たく湿っている。夜露が上着の裾を濡らすけれど、気にしない。
しばらく、何も言わなかった。
月が雲の間を移動していく。虫の声が遠くで鳴っている。コロの呼吸が規則正しく聞こえる。
「マーサの、場所です」
ノアが口を開いた。
見ると、丘のふもとに小さな石が五つ並んでいる。疫病で失った五頭の羊のために、ノアが置いたのだろう。名前は刻まれていないけれど、石の大きさがそれぞれ少し違う。
「毎晩、来ているんですか」
「……疫病が終わってから、ずっと」
一週間以上。毎晩ここに来ていたのか。
「夜になると考えてしまう」
ノアの声は低く、平坦だ。泣きながらなのに、声だけは抑えようとしている。
「もっと早く気づいていれば。薬の配合を変えていれば。俺が寝ずに診続けていれば——」
「ノア様」
「わかっています。全部は救えない。獣医を何年やっても、目の前で命が消えることはある。わかっている」
わかっていても。
「マーサは——走れるようになったばかりだった」
声が、ついに震えた。
「ロッテは去年子羊を産んだ。フリッツは群れのリーダーで。ベルタは人懐っこくて。カールは臆病で、俺の後ろにいつも隠れていた」
一頭一頭の名前。一頭一頭の顔。一頭一頭の性格。全部覚えている。
「助けられなかった」
その言葉が、月明かりの中に落ちる。
私は何も言わなかった。
言えなかった、のとは違う。言わなかった。
こういうとき、慰めの言葉は要らないと思ったから。「仕方なかった」「あなたのせいじゃない」——そういう正しい言葉が、今のノアに届くとは思えない。
だから、黙って隣にいた。
コロがノアの膝に頭を載せた。ノアの手がコロの背中に触れ、毛並みに指を沈める。コロの体温が、ノアの冷えた手をあたためている。
「……母が言っていたことがあります」
長い沈黙の後、ノアが口を開いた。
「動物を看取るのが辛いなら、獣医はやめたほうがいい——とは、言わなかった」
月を見上げるノアの目元に、涙の跡が光っている。
「母は言いました。『辛くなくなったら、獣医をやめなさい』と」
辛くなくなったら、やめる。
辛いうちは、続けていい。
「母は最後まで辛いと言いながら、動物を診ていた。泣きながら薬を調合していた。俺はそれを見て育った」
ノアの声が、少しだけあたたかくなった。お母様の記憶を語るときだけ、この人の声は柔らかくなる。
「だから俺も——辛いうちは、やめない」
「ノア様」
「はい」
「泣いてもいいと思います」
ノアが、こちらを向いた。眼鏡をかけていない裸眼の瞳に、月の光が映っている。
「全部救えなかったことが辛いのは、全部救いたかったからでしょう。それは弱さじゃありません」
言葉を選ぶ。慰めではなく。正論でもなく。目の前の、見たままを。
「ノア様が泣いているのを見て、私は安心しています」
「……安心?」
「泣けなくなったら怖いから。お母様が言った通り、辛くなくなったら——あなたはあなたでなくなる」
風が吹いた。夜の草原を渡る冷たい風。コロが鼻を鳴らし、体をノアに押しつける。
ノアが俯いた。
肩が震えていた。声は出ない。音のない慟哭が、月の下で揺れている。
私は手を伸ばさなかった。背中を撫でることも、肩に触れることもしない。
そっと、隣にいる。
それだけでいいと——コロが教えてくれている気がした。犬は余計なことを言わない。ただそばにいて、体温を分けるだけだ。
どれくらいの時間が経ったのか。
ノアの肩の震えが収まったとき、東の空がほんの少しだけ白くなり始めていた。
「……ヴィオレッタ様」
「はい」
「寒くないですか」
「少し寒いです」
正直に答えた。草の冷たさが上着を通り越して、太腿が冷えている。
ノアが立ち上がり、外套をかけてくれた——と思ったら自分が着ていないことに気づいたらしく、代わりに手を差し伸べてくれる。
「中に戻りましょう。風邪を引かせたら、領民に怒られる」
「領民に、ですか」
「『奥様を風邪にしたのか』と」
ノアが「奥様」と言ったのは初めてだった。
からかっているのかと思って顔を見たら、真顔だった。この人は冗談を言うときも真顔なので判断が難しい。
手を取って立ち上がる。冷えた指同士が触れて、互いの体温のなさに笑ってしまう。
「二人とも冷たいですね」
「コロに挟まれれば温まるんですが」
足元でコロが尻尾を振っている。
屋敷に戻る道すがら、ノアが小さく言った。
「ありがとうございます」
「何もしていませんよ」
「いてくれた」
短い言葉。でもそこに込められた重さを、夜の静けさが教えてくれる。
「——おやすみなさい、ノア様」
「おやすみなさい」
部屋に戻って、布団にもぐり込む。冷えた体が少しずつあたたまっていく。
指先にまだ残っているノアの手の感触。冷たかった。でも、握り返す力は確かだった。
目を閉じると、五つの石が浮かぶ。マーサ、ロッテ、フリッツ、ベルタ、カール。
——あなたたちの獣医は、ちゃんと泣いてくれる人ですよ。
だから大丈夫。きっと大丈夫。
窓の外が明るくなる前に、眠りに落ちた。




