表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/32

第26話「泣いてもいい」

夜中に目が覚めた。


理由はわからない。物音がしたわけでもなく、悪い夢を見たわけでもない。なんとなく——胸騒ぎがして。


窓の外を見ると、月が出ていた。薄い雲がかかって、ぼんやりした光が庭に落ちている。


時計を見る。深夜二時過ぎ。


水でも飲もうと部屋を出て、廊下を歩く。屋敷は静まり返っていて、自分の足音だけが板張りの床に響く。


台所に向かう途中、ふと——裏口が開いているのに気づいた。


こんな時間に。


嫌な予感がして、上着を羽織り直して外に出る。月明かりの庭を抜け、裏手の牧場へ。


柵の向こうに、人影があった。


ノアだ。


牧場の隅、小さな丘のふもとに座り込んでいる。外套も羽織らず、薄着のまま。隣には犬のコロが寄り添うように伏せている。


「ノア様」


声をかけると、ノアがゆっくり振り返った。


月明かりに照らされた横顔を見て、息を呑む。


泣いていた。


眼鏡を外して膝の上に置き、目元を手の甲で拭っている。でも拭いた端から新しい涙が零れて、意味をなしていない。


「——すみません」


かすれた声だった。


「起こしてしまいましたか」


「いいえ。たまたま目が覚めて」


嘘ではない。でも「たまたま」の裏に何かがあった気がする。


近づいていいのか迷った。泣いている人のそばに行くのは、時に暴力になる。見られたくない涙を暴くことになりかねないから。


コロが私を見て、尻尾を一度だけ振った。「来て」と言っているような目。


——犬は嘘をつかない。


ゆっくり歩み寄り、ノアの隣に座った。草が冷たく湿っている。夜露が上着の裾を濡らすけれど、気にしない。


しばらく、何も言わなかった。


月が雲の間を移動していく。虫の声が遠くで鳴っている。コロの呼吸が規則正しく聞こえる。


「マーサの、場所です」


ノアが口を開いた。


見ると、丘のふもとに小さな石が五つ並んでいる。疫病で失った五頭の羊のために、ノアが置いたのだろう。名前は刻まれていないけれど、石の大きさがそれぞれ少し違う。


「毎晩、来ているんですか」


「……疫病が終わってから、ずっと」


一週間以上。毎晩ここに来ていたのか。


「夜になると考えてしまう」


ノアの声は低く、平坦だ。泣きながらなのに、声だけは抑えようとしている。


「もっと早く気づいていれば。薬の配合を変えていれば。俺が寝ずに診続けていれば——」


「ノア様」


「わかっています。全部は救えない。獣医を何年やっても、目の前で命が消えることはある。わかっている」


わかっていても。


「マーサは——走れるようになったばかりだった」


声が、ついに震えた。


「ロッテは去年子羊を産んだ。フリッツは群れのリーダーで。ベルタは人懐っこくて。カールは臆病で、俺の後ろにいつも隠れていた」


一頭一頭の名前。一頭一頭の顔。一頭一頭の性格。全部覚えている。


「助けられなかった」


その言葉が、月明かりの中に落ちる。


私は何も言わなかった。


言えなかった、のとは違う。言わなかった。


こういうとき、慰めの言葉は要らないと思ったから。「仕方なかった」「あなたのせいじゃない」——そういう正しい言葉が、今のノアに届くとは思えない。


だから、黙って隣にいた。


コロがノアの膝に頭を載せた。ノアの手がコロの背中に触れ、毛並みに指を沈める。コロの体温が、ノアの冷えた手をあたためている。


「……母が言っていたことがあります」


長い沈黙の後、ノアが口を開いた。


「動物を看取るのが辛いなら、獣医はやめたほうがいい——とは、言わなかった」


月を見上げるノアの目元に、涙の跡が光っている。


「母は言いました。『辛くなくなったら、獣医をやめなさい』と」


辛くなくなったら、やめる。


辛いうちは、続けていい。


「母は最後まで辛いと言いながら、動物を診ていた。泣きながら薬を調合していた。俺はそれを見て育った」


ノアの声が、少しだけあたたかくなった。お母様の記憶を語るときだけ、この人の声は柔らかくなる。


「だから俺も——辛いうちは、やめない」


「ノア様」


「はい」


「泣いてもいいと思います」


ノアが、こちらを向いた。眼鏡をかけていない裸眼の瞳に、月の光が映っている。


「全部救えなかったことが辛いのは、全部救いたかったからでしょう。それは弱さじゃありません」


言葉を選ぶ。慰めではなく。正論でもなく。目の前の、見たままを。


「ノア様が泣いているのを見て、私は安心しています」


「……安心?」


「泣けなくなったら怖いから。お母様が言った通り、辛くなくなったら——あなたはあなたでなくなる」


風が吹いた。夜の草原を渡る冷たい風。コロが鼻を鳴らし、体をノアに押しつける。


ノアが俯いた。


肩が震えていた。声は出ない。音のない慟哭が、月の下で揺れている。


私は手を伸ばさなかった。背中を撫でることも、肩に触れることもしない。


そっと、隣にいる。


それだけでいいと——コロが教えてくれている気がした。犬は余計なことを言わない。ただそばにいて、体温を分けるだけだ。


どれくらいの時間が経ったのか。


ノアの肩の震えが収まったとき、東の空がほんの少しだけ白くなり始めていた。


「……ヴィオレッタ様」


「はい」


「寒くないですか」


「少し寒いです」


正直に答えた。草の冷たさが上着を通り越して、太腿が冷えている。


ノアが立ち上がり、外套をかけてくれた——と思ったら自分が着ていないことに気づいたらしく、代わりに手を差し伸べてくれる。


「中に戻りましょう。風邪を引かせたら、領民に怒られる」


「領民に、ですか」


「『奥様を風邪にしたのか』と」


ノアが「奥様」と言ったのは初めてだった。


からかっているのかと思って顔を見たら、真顔だった。この人は冗談を言うときも真顔なので判断が難しい。


手を取って立ち上がる。冷えた指同士が触れて、互いの体温のなさに笑ってしまう。


「二人とも冷たいですね」


「コロに挟まれれば温まるんですが」


足元でコロが尻尾を振っている。


屋敷に戻る道すがら、ノアが小さく言った。


「ありがとうございます」


「何もしていませんよ」


「いてくれた」


短い言葉。でもそこに込められた重さを、夜の静けさが教えてくれる。


「——おやすみなさい、ノア様」


「おやすみなさい」


部屋に戻って、布団にもぐり込む。冷えた体が少しずつあたたまっていく。


指先にまだ残っているノアの手の感触。冷たかった。でも、握り返す力は確かだった。


目を閉じると、五つの石が浮かぶ。マーサ、ロッテ、フリッツ、ベルタ、カール。


——あなたたちの獣医は、ちゃんと泣いてくれる人ですよ。


だから大丈夫。きっと大丈夫。


窓の外が明るくなる前に、眠りに落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ