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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第25話「領民の声」

疫病が終息して一週間。


牧場には日常が戻っていた。羊たちがメエメエ鳴きながら餌場に殺到し、コロが尻尾を振って走り回り、猫のミルクが日向で丸くなっている。


私はウサギ小屋の掃除をしていた。藁を替えて、水を新しくして、ウサギのモコの背中を撫でる。ふわふわの毛並みに指を埋めると、小さな体温が伝わってくる。


「モコ、今日もかわいいですね」


モコが鼻をひくひくさせて、私の指を舐めた。


——平和だ。


こういう何もない日が、どれだけ幸せか。


「お嬢様」


ハンスの声に振り返ると、使用人長が珍しくそわそわしている。強面の顔が、困っているような嬉しいような微妙な表情。


「お客様です」


「お客様?」


「領民の方が、何人か」


何人か、という曖昧な言い方が気になったけれど、ハンスについて屋敷の玄関に向かう。


「何人か」は嘘だった。


玄関の前に、二十人以上の領民が集まっていた。


農夫も牧童も、顔見知りの人もそうでない人も。手には野菜の籠や、チーズの包みや、花束を持っている。


「え——」


「奥様!」


先頭に立っていた年配の女性が、駆け寄ってきた。東区画の農場を営むグレータおばさん。隔離のとき、手洗いの手順を一番熱心に覚えてくれた人だ。


「奥様のおかげです。うちの羊、一頭も死なずに済みました」


「グレータさん、私は何も——」


「何もじゃありません! あの隔離がなかったら、うちの羊は全滅してたかもしれない」


グレータおばさんの目に涙が光っている。その後ろから、次々に声が飛んでくる。


「奥様、これ。うちの畑のジャガイモです。お礼に」


「チーズ持ってきました! 搾りたてですよ!」


「うちの嫁が花を摘んでこいって。お礼だからって」


「奥様——」


奥様。奥様。奥様。


みんなが口を揃えてそう呼ぶ。


「あ、あの——」


私はまだ正式には婚約者であって、ルクセン家の「奥様」ではないのだけれど。


「わ、私はまだ奥様じゃ——」


「何言ってるんですか!」


グレータおばさんが力強く遮った。


「ノア様と一緒に夜通し羊を看病して、隔離の陣頭指揮を取って、領民に手洗いを教えて回って。それで奥様じゃなかったら何なんです!」


「いえ、その、制度的には——」


「制度なんか知りませんよ! あたしらにとっちゃ、もう奥様です!」


反論の余地がなかった。


領民たちが次々にお礼の品を差し出してくる。野菜。果物。手編みの手袋。蜂蜜の瓶。焼きたてのパン——まだほんのりあたたかい——の香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


「こんなにたくさん……受け取れません」


「受け取ってください!」


「お気持ちだけで——」


「気持ちだけじゃ伝わらないでしょう!」


領民、強い。圧がすごい。辺境の人は感情表現がストレートだと聞いていたけれど、これほどとは。


テレサが慌てて出てきて、品物の受け取りを手伝ってくれる。「わ、わわ、すみません、ちょっと待ってください——あっ卵落としちゃ——セーフ!」と相変わらずのドジっぷりを発揮しながら。


私は領民の一人ひとりに頭を下げた。


「ありがとうございます。でも、私だけの力じゃありません。ノア様が治療をしてくれて、ルカが走り回ってくれて、ハンスが人手をまとめてくれて、テレサが灰汁を煮出してくれて。みなさんが手洗いを守ってくれたから——」


「だから奥様なんですよ」


グレータおばさんが笑った。しわだらけの笑顔が、あたたかい。


「みんなをまとめて、一緒にやってくれる人。この領地に必要なのは、そういう方です」


胸の奥が、じんと熱くなる。


「ノア様にもお礼を」と領民の一人が言ったとき、ノアは牧場にいた。ルカが呼びに走り、しばらくして外套に藁をつけたまま現れたノアは、二十人超の領民を見て——固まった。


「ノア様! ありがとうございます!」


「旦那様のおかげです!」


「羊が元気になりました!」


口々に感謝を伝える領民を前に、ノアは明らかに困っていた。人間が苦手なこの人にとって、二十人の集団は敵の大軍に等しい。


私はそっとノアの隣に立った。


「受け取ってあげてください。みなさんの気持ちです」


小声で言うと、ノアが眼鏡の奥で瞬きを繰り返している。


「……ありがとうございます」


ぎこちないお辞儀。社交界なら失笑されるような、角度も深さも中途半端な礼。


でも領民たちは満面の笑みで拍手した。


「旦那様と奥様がいれば安心だ!」


「末永くお幸せに!」


——末永くって。


隣を見ると、ノアの耳が赤い。私もたぶん赤い。


「あの、まだ——」


「正式じゃないんでしょう? 知ってますよ」


グレータおばさんがにやりと笑う。


「でもまあ、時間の問題ですよねえ」


領民、本当に遠慮がない。


ノアが黙って牧場に戻ろうとするのを、私は袖を引いて止めた。


「逃げないでください」


「逃げてない。羊が呼んでいる」


「呼んでません」


そのやり取りを見ていた領民から笑いが起きて、ノアの耳がさらに赤くなった。


——奥様、か。


悪い響きじゃない。むしろ——ちょっとだけ、嬉しいと思ってしまった自分がいる。


いけない。まだそういう関係じゃない。たぶん。おそらく。きっと。


台所に積み上がったお礼の品を見ながら、テレサが「今日の夕食は豪華になりそうですね!」と目を輝かせている。


ハンスが「奥様」と呼びかけてきて、反射的に「はい」と返事をしてしまった。


「あ——」


ハンスの強面が、にやりと崩れた。初めて見た。この人、笑えるんだ。


「お嬢様——いえ、奥様。よくお似合いですよ」


「ハンスまで……!」


顔が熱い。耳まで熱い。


——もう、みんなして。


でも。


王都にいた頃は、誰にも必要とされていなかった。悪役令嬢として、ただ物語の駒として存在していただけ。


ここでは違う。


ここでは私が——私のままで、必要とされている。


「……奥様」


一人で呟いてみる。


悪くない。全然、悪くない。

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