第24話「朝焼けの牧場」
翌朝——新規の発症はゼロだった。
その翌日も、ゼロ。
三日目も。
隔離策が効いている。水路の濾過と区画隔離で感染の拡大が止まり、すでに発症していた羊たちもノアの投薬で少しずつ回復に向かっていた。
「北区画、全頭の熱が平熱に戻りました!」
ルカの報告を聞いたとき、羊舎に小さな歓声が上がった。テレサが「よかった」と目頭を押さえ、ハンスは強面のまま天井を仰いで深く息を吐いている。
でも、ノアはまだ気を緩めなかった。
「再発の可能性がある。隔離はもう一週間続ける」
一週間後。
再発は、なかった。
疫病の発生から数えて十八日目の朝。ノアが最後の検診を終えて、静かに告げた。
「終息です」
失った羊は五頭。十年前の三割に比べれば、奇跡のような数字だとハンスは言った。でもノアは五頭の名前を全部覚えていて、帳簿に一頭ずつ記録していた。マーサ、ロッテ、フリッツ、ベルタ、カール。
記録するノアの横顔を、私はただ見ていた。
それから三日間は後片付けに追われた。隔離用の柵を撤去し、水路の濾過層を整備し、使った道具を全部灰汁で洗浄する。領民総出の作業で、牧場はようやく元の姿を取り戻していく。
そして——全てが終わった朝。
目が覚めたのは、夜明け前だった。
窓の外がうっすら白んでいる。鳥の声はまだない。静寂の中に、かすかに草の匂いが混じる朝の空気。
なんとなく、外に出たくなった。
上着を羽織って屋敷の裏手に回ると、牧場の柵が朝露に濡れて光っている。空の端が薄い桃色に染まり始めていた。
柵に寄りかかっている人影に、足が止まる。
「——ノア様?」
ノアが振り返った。外套を羽織っただけの格好で、髪が少し乱れている。眼鏡に朝の光が反射して、表情がよく見えない。
「眠れなかったんですか?」
「いえ。よく寝ました。寝すぎて目が覚めた」
珍しく冗談めいたことを言う。
私は彼の隣に並んで、柵に肘を置いた。牧場の向こう、丘の稜線が空と接する一線がゆっくりと明るくなっていく。
「終わりましたね」
自然と口をついて出た言葉。
「ええ」
ノアの返事も、短い。
でもその短い一言に、十八日間の全てが詰まっている気がした。不眠不休の治療。マーサの死。隔離の壁。手洗いの灰汁。領民の奔走。眠れない夜と、祈るような朝。
全部、終わったのだ。
空が燃え始める。
薄い桃色がオレンジに変わり、雲の端が金色に光る。丘の稜線から光の筋が一本、二本と伸びて、牧場の草を照らしていく。朝露が宝石みたいに輝いて、羊たちの白い毛並みがオレンジ色に染まる。
きれいだった。
こんなにきれいな朝焼けを見たのは、前世を含めても初めてかもしれない。
「ヴィオレッタ様」
「はい」
「礼を言わせてください」
ノアが柵から手を離し、体ごとこちらを向いた。朝焼けの光が眼鏡を透かして、真剣な瞳が見える。
「あなたの知識がなければ、もっと多くの命が失われていた」
「私は——本で読んだことを言っただけで」
「それでも。行動したのはあなたです。知識を持っているだけの人は多い。それを現場で形にできる人は少ない」
ノアにしては長い台詞だった。
照れくさくて、視線を牧場に逃がす。起き出した羊が一頭、のそのそと草を食み始めている。健康な羊の、のんびりした朝の光景。
「ノア様こそ。四日間寝ないで治療を続けたのは、あなたです」
「それは獣医として当然の——」
「当然じゃありません」
振り返って、ノアの目を見る。
「当然のことを当然にできる人は、少ないんです」
ノアが、少し驚いた顔をした。
そして——笑った。
口角がほんの少し上がるだけの、控えめな笑み。でも疫病が始まって以来、見ていなかった笑顔だ。目尻の皺が柔らかくて、朝焼けの光に照らされて、ちょっと反則だと思う。
「ヴィオレッタ様」
「はい」
「この景色を、覚えておきたいと思いました」
朝焼けの牧場。羊たちの白。空のオレンジ。草の露。
「ええ。私も」
二人で黙って、朝焼けを見る。
肩が触れそうで触れない距離。風が吹くたびに、ノアの外套の裾が私の上着にかすかに当たる。草と土と朝露の匂いが混ざった風。
——ああ。
この瞬間のために辺境に来たんだと、そう思えた。
断罪されて、王子に捨てられて、辺境に送られて。あのときは絶望しかなかったのに。
今、隣にいるのは——動物と同じくらい不器用で、動物と同じくらい正直な人。
太陽が丘の上に顔を出す。
まぶしくて目を細めた瞬間、遠くで鶏が鳴いた。一羽が鳴くと連鎖するように二羽、三羽。牧場が目を覚ましていく。
犬のコロが屋敷の裏口から飛び出してきて、私たちの足元をぐるぐる回り始める。尻尾をちぎれそうなほど振って、ノアの手を舐め、私のスカートに鼻を押しつける。
「コロ、おはよう」
しゃがんでコロの頭を撫でると、全身でぶつかってくる。あたたかくて、柔らかくて、朝日の匂いがする。
「……平和ですね」
ノアが呟いた。
「平和ですね」
繰り返す。
当たり前の朝。当たり前の牧場。当たり前の——もふもふ。
それがどんなに尊いか、十八日間の嵐を越えたからこそわかる。
コロが嬉しそうに吠えて、牧場を駆けていく。
——さあ、今日も動物の世話をしなきゃ。
立ち上がると、ノアがこちらに手を差し伸べていた。
「行きましょう」
「はい」
その手を取って——指先が触れた瞬間の体温を、朝焼けのせいにした。




