第23話「隔離の壁」
疫病の発生から六日目。状況は膠着していた。
新たな発熱は一日一〜二頭ずつ。爆発的に広がってはいないが、止まってもいない。じわじわと領地を蝕む見えない敵に、全員の顔が日に日に強張っていく。
「このままでは、消耗戦になる」
朝の打ち合わせで、ノアが地図を広げた。領地の牧草地、放牧場、農場。発症した羊がいる場所に赤い印がついている。
東、南、中央——赤が散らばっている。規則性がない。
いや、待って。
「ノア様、この印を時系列で並べ替えられますか?」
「時系列?」
「最初に発症した順に番号を振ってみてください」
ノアが羽ペンを取り、記憶をたどりながら数字を書き込んでいく。1、2、3——。
浮かび上がったのは、線だった。
「水路だ」
ノアが呟いた。
そう。発症の順番は、領地を流れる水路の上流から下流に向かって広がっている。
「水を介して感染している可能性があります」
私の言葉に、ノアが顔を上げた。
前世の知識だ。ペットショップの衛生研修で「感染経路の特定」について学んだことがある。水系感染、空気感染、接触感染——経路がわかれば対策が立てられる。
「でも、確証は——」
「ないです。でも状況証拠は揃っています。最初の発症は上流の北牧場。そこから水路沿いに東、中央、南と広がっている。水路から離れた西の農場では一頭も出ていません」
ノアの眼鏡の奥で、思考が回転しているのが見える。
「……仮にそうだとして。対策は」
ここからが本番だ。
「隔離です」
「隔離は最初からやっている。発症した個体は別の柵に——」
「個体の隔離じゃなくて、区画の隔離です」
ノアが黙った。
「水路を区切ります。感染が確認された区画と、まだ出ていない区画の間に壁を作る。人も動物も、区画をまたいで移動しない。道具も共有しない。世話をする人の手洗いも徹底する」
一気に言い切って、息を吸う。
「前世の——私が昔読んだ本に、似たような事例がありました。家畜の疫病を区画隔離で封じ込めた記録が」
前世の記憶をそのまま語るわけにはいかないから、いつもの言い訳。「本で読んだ」。ノアがどこまで信じているかは分からないけれど、今はそれどころではない。
「手洗いの徹底——具体的には」
「煮沸した水と灰汁です。動物に触れる前と後に必ず手を洗う。使った道具も灰汁で拭く。これだけで接触経由の感染はかなり抑えられるはずです」
ペットショップの基本中の基本。前世では当たり前すぎて意識もしなかったことが、この世界ではまだ常識になっていない。
ルカが地図を覗き込む。
「水路を区切るって、堰を作るってことですか? 結構な工事になりますよ」
「堰じゃなくても、感染区画の下流に簡易的な濾過層を作れば——砂と炭を重ねて水を通すだけでも違うと思います」
これも研修で聞いた覚えがある。完璧な浄水にはならなくても、汚染された水をそのまま流すよりはずっといい。
ハンスが腕を組む。
「人手は出せます。農場の男手を集めれば、一日で水路の工事はできるでしょう」
「ただ、区画を隔離するということは——」
ノアの声が、少し低くなった。
「感染区画の羊は、回復するまでそこから出せない。万が一のとき、助けに行くのも制限される」
わかっている。隔離とは、見殺しにする可能性を受け入れることでもある。
「だからこそ、感染区画には重点的に薬と人員を配置します。隔離は見捨てることじゃありません。広げないために壁を作って、壁の中に全力を注ぐんです」
ノアが私を見つめている。長い沈黙。
「……やりましょう」
決断は早かった。
その日の午後から、領地は一変した。
ハンスが領民を集め、水路に砂と木炭を詰めた濾過層を設置する。ルカが馬で各区画を回り、隔離の境界線に杭と縄を張っていく。テレサは屋敷の灰を集めて灰汁を煮出し、手洗い用の桶を各区画に配った。
私は——走り回っていた。
手洗いの手順を領民に教える。区画ごとの道具に印をつけて混ざらないようにする。煮沸した水の作り置きを管理する。
「奥様、この桶は東区画のですか?」
「東です! 赤い紐がついてるのが東、青が南ですよ!」
「奥様、手洗いはこれで合ってます?」
「指の間もお願いします! 爪の先まで!」
奥様と呼ばれていることに気づいたのは、夕方になってからだった。
正式には婚約者であって妻ではない。でも領民にとっては「ルクセン家の奥様」なのだろう。訂正する暇もなく次の仕事に追われ、結局そのままにした。
日が暮れる頃、隔離体制が整った。
領地が四つの区画に分かれ、それぞれに担当者と道具と薬が配置されている。区画間の水路には濾過層。人の移動は最小限。
「完璧ではないですが」
地図の前で、私は正直に言った。
「前世の——本の知識を応用しただけですし、この世界の病気に通用する保証はありません」
「それでも」
ノアが地図に目を落としたまま言った。
「今まで打つ手がなかったのが、手が打てるようになった。それだけで十分です」
十分かどうかは、明日の朝にわかる。
新規の発症がゼロなら成功。増えていたら——別の手を考えなければ。
夜。羊舎の見回りから戻ったノアが、台所で手を洗っていた。灰汁と煮沸水で、指の間まで丁寧に。
私が教えた手順を、そのまま守っている。
「ノア様」
「はい」
「明日の朝が怖いです」
正直に言ってしまった。弱音なんか吐いている場合じゃないのに。
ノアが手を拭きながら、振り返る。
「俺もです」
——その正直さに、少し救われる。
「でも」
ノアが窓の外を見た。暗い辺境の夜空。星が見えないほど雲が厚い。
「あなたの策は筋が通っている。動物の勘でも、そう思います」
「動物の勘って」
「獣医の勘です。二十年、動物を診てきた勘が言っています」
——二十年? 二十五歳で?
「……五歳から動物を診てたんですか?」
「母の手伝いでしたが」
さらっととんでもないことを言う人だ。
でも、その二十年の勘が「いける」と言ってくれるなら。
「信じます。ノア様の勘を」
「俺は、ヴィオレッタ様の知識を信じます」
視線が交差して、ほんの一瞬——時間が止まった気がした。
台所のランプが揺れて、影が動いて、時間が戻る。
「おやすみなさい、ノア様。明日は——いい朝になりますように」
「ええ」
部屋に戻る廊下で、自分の心臓がうるさいことに気づく。
——明日の朝。
祈るような気持ちで、目を閉じた。




