第22話「あなたも大事」
ノアが目を覚ましたのは、日が高く昇ってからだった。
「……何時ですか」
寝台から半身を起こしたノアの声は、まだかすれている。額に置いた手拭いが膝に落ちて、彼はそれを不思議そうに見つめた。
「お昼前です」
「——お昼!?」
跳ね起きようとして、立ちくらみで座り込む。私は黙ってスープの入った椀を差し出した。テレサが朝のうちに作っておいてくれたものだ。
「二時間と約束しました」
「はい。すみません。嘘をつきました」
正直に言う。怒られる覚悟はできている。
ノアが私を見る。眼鏡をかけていないから、少し目を細めている。怒りを探したけれど、見つからない。代わりにあったのは、困惑と——もうひとつ、名前のつけられない感情。
「……熱は」
「朝方に下がりました。でもまだ無理しないでください」
「俺の熱の話ではなく。羊です」
ああ、そっちか。
「ルカが報告をくれています。新規の発熱は一頭だけ。昨日より増えていません」
ノアの肩から、わずかに力が抜けた。
スープを受け取り、ひとくち啜る。人参と玉葱の甘い匂いが羊舎に漂う。三口、四口と飲み進めるのを見て、私はようやく息がつけた。
「ノア様」
「はい」
「昨夜、うなされていました」
スープを飲む手が止まる。
「……なんと言っていましたか」
「『間に合わない』と」
ノアが目を伏せた。椀の中のスープに視線を落とし、しばらく黙っている。
「南区画の、マーサ」
「マーサ?」
「……二日前に死んだ羊です」
知っている。ルカが「ノア兄が一番長く診てた子だ」と言っていた。
「マーサは去年の秋に生まれた子で。足が弱くて、群れについていけなかった」
ノアの声は淡々としている。でも、椀を持つ指の関節が白い。
「毎日包帯を替えて、薬を塗って。ようやく走れるようになったのが、先月で」
ようやく走れるようになった子が、疫病で——。
「間に合わなかった」
その一言に込められた感情の重さが、空気を変える。
「薬が効かなかった。熱が下がらなくて、呼吸が浅くなって。朝方に——」
ノアの声が途切れた。
「俺が診ていたのに」
椀がかすかに震えている。
「足の治療には半年かかった。毎日通った。走れるようになって、群れの中を駆け回るのを見て……」
言葉が続かない。唇を引き結んで、ノアは天井を仰いだ。
「動物が死んでいくのを、止められない」
その声には、怒りでも悲しみでもない——無力感が滲んでいた。獣医として、領主として。自分の領地の動物を守れない苦しみ。
「マーサだけじゃない。一昨日も東区画で一頭。昨日も——」
「ノア様」
遮った。遮らなければ、この人はどこまでも自分を追い詰める。
「動物は大事です」
真正面から言う。目を逸らさない。
「ノア様が動物を愛していること、動物のために全力を尽くしていること、私は知っています」
ノアがこちらを見る。裸眼の瞳が、揺れている。
「でも——あなたも大事です」
言葉が、想定より震えた。
ノアの目が見開かれる。
「動物も大事。領地も大事。でも、あなたが倒れたら誰が動物を診るんですか。あなたが壊れたら誰がこの領地を守るんですか」
声が大きくなっていることに気づいて、少しトーンを落とす。
「四日間寝ないで、自分まで熱を出して。マーサのことで自分を責めて。ノア様、あなたは——自分のことを数に入れないでしょう」
ノアが何か言おうとして、やめた。図星だったのだと思う。
「動物は嘘をつかないって、前に言ってましたよね」
あの月夜の厩舎で。馬のブリッツの鬣を撫でながら、ノアが静かに語った言葉。
「なら——動物たちに聞いてみてください。コロも、ミルクも、ゼフィルも、ブリッツも。あの子たちが一番求めているのは、完璧な獣医じゃない」
一歩、近づく。
「元気なあなたです」
沈黙が落ちた。
羊舎の外で、風が草を揺らす音。遠くでコロが吠える声。日常の音が、穏やかに流れている。
ノアがスープの椀を脇に置いた。両手で顔を覆う。
「……ヴィオレッタ様は」
くぐもった声。
「ずるい人ですね」
「ずるいのはお互い様ですわ」
顔を覆ったままのノアが、小さく笑った気がした。肩が震えていたのは——笑いなのか、それ以外なのか、確かめなかった。確かめなくていい。
しばらくして、ノアが顔を上げた。目元が少しだけ赤い。でも、朝よりずっとまともな目をしている。
「スープ、冷めました」
「……おかわりはありますか」
「テレサに言えば鍋ごと持ってきますよ」
「鍋は要りません。もう一杯だけ」
私は椀を受け取り、羊舎の外に出た。
空が青い。雲ひとつない辺境の空。
——あなたも大事です、か。
自分で言っておいて、心臓がまだうるさい。
あれは看病する者として当然の言葉であって、それ以上の意味はなくて——。
「……嘘つき」
さっき嘘をついたと正直に告白したばかりなのに、また嘘をついている。今度は自分に。
スープのおかわりを持って戻ると、ノアが眼鏡をかけ直して立ち上がっていた。
「午後から羊舎を回ります」
「無理は——」
「無理はしません。約束します」
ノアの目が、まっすぐにこちらを向いている。朝のぼんやりした焦点とは違う。意志の宿った瞳。
「ヴィオレッタ様に心配をかけたくないので」
——ずるい。
ずるいのは、そっちでしょう。
顔が熱くなるのをごまかすために、スープの椀を押しつけた。
「先にこれを飲んでからにしてください」
「……はい」
素直に椀を受け取るノアの指が、一瞬だけ私の指に触れた。
まだ少し、熱い。
——でも今度は、心配じゃない熱さだった。




