第21話「眠れない獣医」
ノアが眠っていない。
三日——いや、もう四日目に突入している。
朝から晩まで羊舎を回り、夜は薬の調合。仮眠を取ったのは二日目の夕方に椅子で十五分だけ。食事は私が無理やり食べさせたパンとスープだけで、目の下の隈は紫を通り越して黒に近い。
「ノア様、今日は少し休んでください」
「大丈夫です」
大丈夫じゃない。
薬草を乳鉢で擦り潰すノアの手を見ていればわかる。いつもは正確で無駄のない動きが、わずかにぶれている。乳棒を握る指先の力加減が安定しない。
「大丈夫じゃありません。手、震えてますよ」
ノアが手元を見下ろし、自分の指の震えに気づいたらしい。一瞬だけ眉をひそめて——すぐに作業を再開しようとする。
「まだ南区画の羊を診ていない。熱が下がった子の経過観察も——」
「ルカに頼みました」
「ルカは鷹舎の——」
「鷹舎はテレサが見てくれています」
「テレサは——」
「ハンスが段取りをつけてくれました。ノア様がいなくても回る体制を、みんなで作りました」
ノアの手が止まった。
私を見上げる瞳が、焦点をうまく結べていない。そのくらい疲弊しているのだ。
「でも」
「でも、じゃありません」
椅子から立ち上がり、ノアの前に回り込む。真正面から目を合わせる。ぼんやりした眼鏡の奥の瞳を、逃がさないように。
「四日間寝ていない人間の判断で、薬の配合を間違えたらどうするんですか」
我ながら容赦がないと思う。でも遠回しに言って聞く人じゃないのは、もう知っている。
ノアが息を呑んだ。
図星だったのだろう。彼は完璧主義だ。自分のミスで動物を傷つける可能性を示されたら——それだけは受け入れざるを得ない。
「……少しだけ」
「二時間。最低でも二時間です」
「一時間」
「二時間」
「……一時間半」
「二時間」
「…………」
ノアがため息をついた。長い、深いため息。降参の合図。
「わかりました。二時間だけ」
「約束ですよ」
私はノアを羊舎の隅の簡易寝台に連れていった。干し草を詰めた薄い敷布団と、古い毛布が一枚。ルカが「ノア兄はここで仮眠するんです」と教えてくれた場所だ。
ノアが横になる。長い脚が寝台からはみ出している。外套を着たまま、眼鏡もかけたまま。
「眼鏡、外してください」
「……なぜ」
「眼鏡をかけたまま寝たら歪みますよ。高いでしょう、それ」
ノアが無言で眼鏡を外した。裸眼の顔を見るのは初めてかもしれない。隈がなければ整った顔立ちなのに、今は——ただ疲れた青年の顔だ。
毛布をかける。羊の脂の匂いが染みついた、くたびれた毛布。でもちゃんとあたたかい。
「おやすみなさい、ノア様」
「……ヴィオレッタ様」
「はい?」
「起こしてください。二時間で」
「はい。約束します」
ノアが目を閉じた。
呼吸が深くなるまで、そう時間はかからなかった。四日分の疲労が一気に押し寄せたのだろう。規則正しい寝息が、羊舎の藁の匂いに溶けていく。
眠っているノアの顔は、起きているときよりずっと若く見える。
いつもの無愛想な仮面がなくなると、年相応の——いや、年齢より幼い顔だ。眉間の力が抜けて、口元がわずかに開いている。
ふと、額に汗が浮いているのが見えた。
——まさか。
手を伸ばす。指先がノアの額に触れた瞬間、息が止まる。
熱い。
人間の平熱じゃない。明らかに高い体温が、指先を通じて伝わってくる。
「ノア様……!」
揺り起こそうとして——やめた。
この人は、起きたら絶対に「大丈夫です」と言って羊舎に戻る。熱があっても自分より動物を優先する。そういう人なのだ。
だから今は、寝かせておくしかない。
水を汲みに走った。手拭いを濡らし、絞って戻る。ノアの額にそっと置く。熱い肌に冷たい布が触れて、ノアが小さくうめいた。
「大丈夫ですよ」
起きてもいない人に向かって、呟く。
毛布を首元まで引き上げ直す。首筋に触れた指先が、脈の速さを拾った。心拍が高い。やっぱり熱がある。
「……バカ」
言ってから、自分の口の悪さに驚く。前世の三浦はなが出てきてしまった。
でも、バカだ。四日も寝ないで、自分が倒れたら意味ないじゃない。
額の手拭いを取り替えながら、ノアの寝顔を見下ろす。
——この人を、倒れさせるわけにはいかない。
羊のためにも。領地のためにも。
それから——私のためにも。
その想いの重さに気づいて、胸がきゅっと痛む。
寝台の横に座り込み、膝を抱えた。羊舎の天井の梁に、ランプの灯りが揺れている。遠くで羊が一声鳴いて、静かになる。
手拭いが温まるたびに取り替え、水差しの水が減っていく。
二時間後。
ノアは目を覚まさなかった。体が限界を訴えて、意識を手放せないでいる。額の熱は少し引いたけれど、まだ高い。
——起こす約束をした。
でも。
「……あと二時間だけ」
誰にも聞こえない声で、約束を破った。
この人が目を覚ましたら、きっと怒るだろう。「約束したのに」と。
いいよ、怒ってくれて。元気に怒ってくれるなら、それでいい。
窓の外が白み始めている。もうすぐ夜明けだ。
——起きたら、スープを温めておかなきゃ。




