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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第19話「熱のある羊」

朝の牧場は、いつもなら羊たちの鳴き声でにぎやかだ。


メエメエと合唱しながら餌場に殺到する羊たちを眺めるのが、ここに来てからの私の日課になっていた。もふもふの背中に手を埋めると、陽だまりの匂いがして——それだけで一日がんばれる気がする。


なのに今朝は、妙に静かだった。


「……ノア様」


牧場の柵に着いたとき、ノアはすでにしゃがみ込んで一頭の羊の喉元に手を当てていた。眼鏡の奥の目が、いつもより鋭い。


「熱がある」


短い一言。でもその声に含まれた緊張を、私はもう聞き分けられるようになっていた。


「この子だけですか?」


「いや」


ノアが顎で示した先に、もう三頭。草を食む気力もなく、地面に伏せている。呼吸が荒い。毛並みに触れると、指先が焼けるように熱かった。


前世の記憶が、嫌な可能性をささやく。


ペットショップで働いていたとき、感染症の研修を受けたことがある。一頭だけなら個体の問題。でも同時に複数の個体が同じ症状を出すのは——。


「感染症の可能性は」


私の問いに、ノアが一瞬だけこちらを見る。その目が「よく気づいた」と言っていた。


「否定できない。昨日の段階では一頭だけだったのが、今朝で四頭に増えている」


四頭。一晩で四倍。


胃の底がひやりとした。


ノアが立ち上がり、外套の埃を払う。その所作にいつもの穏やかさはない。


「ルカ」


振り返りもせずに呼ぶと、柵の向こうで待機していたルカが駆け寄ってきた。


「はい、ノア兄!」


「東の放牧地と南の農場を見てきてくれ。同じ症状の羊がいないか確認したい」


「了解!」


ルカが風のように走り去るのを見送りながら、ノアは腕まくりをした。薬箱を開け、解熱の薬草を取り出しながら呟く。


「最悪の場合、領地全体に広がる」


その言葉が、重い。


「私にできることはありますか」


ノアの手が止まる。


彼がこちらを見た。眼鏡越しの瞳に、一瞬だけ迷いが走って——すぐに消える。


「水を汲んできてほしい。井戸から新しいやつを。それと、厩舎の裏にある干し草を羊舎に運んでくれますか。熱がある子たちを柔らかい場所に寝かせたい」


「わかりました」


走り出そうとした私の背中に、ノアの声が追いかけてくる。


「ヴィオレッタ様」


振り返ると、彼はもう羊に向き直っていた。背中だけがこちらを向いている。


「ありがとうございます」


——その背中が、少しだけ小さく見えた。


井戸で水を汲みながら、手のひらに残った羊の体温を思い出す。あの熱は、尋常じゃない。


桶を抱えて戻ると、羊舎の前にハンスが立っていた。強面の使用人長が、珍しく眉間の皺を深くしている。


「お嬢様、状況は」


「まだ四頭です。でもノア様は感染症を疑っていて——」


「四頭」


ハンスが目を閉じた。この人がこんな顔をするのは初めてだ。


「十年前にも、似たようなことがありました」


「十年前?」


「先代のノア様のお父上の時代です。あのときは……羊を三割、失いました」


三割。


数字の重さが、喉に詰まる。


「ノア様は」


「ノア様は、まだ十五歳でした。それでも一番最後まで羊のそばにいた」


ハンスの声が、わずかに震えている。あの強面が。


「今回も、同じことになるかもしれません。ですがお嬢様——」


「はい」


「今回は、あの方はひとりではありません」


その言葉に頷いて、私は羊舎に急いだ。


夕方にはルカが戻ってきて、報告はさらに悪かった。東の放牧地で二頭、南の農場で三頭。合わせて九頭が発熱している。


ノアは夕食も取らず、羊舎にこもっていた。ランプの灯りの下で薬を調合し、一頭一頭に投薬していく。その横顔に疲労の色が滲んでいるのに、手だけは正確に動き続ける。


「ノア様、せめてパンだけでも」


差し入れたパンとスープを、ノアはちらりと見た。


「……あとで」


「あとで、はだめです」


私がきっぱり言うと、ノアが驚いた顔をした。


こんな強い口調で言ったのは、これが最初かもしれない。でも——あの背中を、これ以上小さくさせたくなかった。


「パンを食べる三分で、羊は死にません。でも獣医が倒れたら、羊を診る人がいなくなります」


論理的に攻めてみる。前世でバイト先の店長が徹夜しようとしたとき、同じことを言って食べさせた経験がある。


ノアが、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「……強引ですね」


「お互い様ですわ」


パンをひとくち齧る彼の横で、私は熱のある羊の額を撫でた。


毛並みの奥の熱が、手のひらに伝わってくる。


——大丈夫。この子たちも、この人も。守ってみせる。


夜が更けても、羊舎のランプは消えなかった。

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