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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第1話「山羊のお産から」

館の門をくぐった瞬間から、何かがおかしかった。


 出迎えがない。


 普通、嫁いできた令嬢を誰かしら迎えるものではないだろうか。使用人の一人くらい。それなのに、門の前には犬が一匹いるだけで、人間の気配がまるでない。


 犬──大型の猟犬だろうか、茶色い毛並みの──が、ばふんと尻尾を振って私の足元に突進してきた。


「わっ」


 裾を踏みそうになりながらよける。もふっとした顔が膝にすりつけられて、あたたかい体温と獣の匂いが一気に押し寄せる。


 か、可愛い。触りたい。もふりたい。


「まあ……元気なわんちゃんですこと」


 令嬢スマイルで耐える。御者がまだ見ている。ここで「もふもふ!」と叫んだら、断罪されたうえに頭がおかしくなった令嬢として二重の不名誉を背負うことになる。


 と、館の裏手から使用人らしい少年が走ってきた。赤毛で、そばかすだらけで、息を切らしている。


「す、すみません! ヴィオレッタ様ですよね!? ルカです、鷹匠見習いの! お迎えが遅れて──」


「構いませんわ。何かあったのかしら」


「山羊が産気づいちゃって! ノア様が今、裏の納屋で──来てください!」


 来てください、とは?


 嫁入り早々、納屋に案内される令嬢。前代未聞だと思う。


 でも、足が勝手に動いていた。


 納屋は干し草の匂いで満ちていた。甘くて、埃っぽくて、そのなかに混じる動物の体臭がやけに懐かしい。前世のペットショップのバックヤードを思い出す。


 そして──。


 藁の上に横たわる山羊と、その傍らにしゃがむ男がいた。


 長身。黒髪。銀縁の眼鏡。白いシャツの袖をまくって、血まみれの手で山羊の腹に触れている。


「ノア様ですか」


「……ああ」


 振り向きもしない。


 これが、私の婚約者。獣医子爵ノア・ラウシェンベルク。


 第一印象──無愛想。


「逆子だ。引っ張る。手伝え」


 敬語もない。


「はい」


 気づいたら返事をしていた。ドレスの袖をたくし上げて、藁の上に膝をつく。令嬢の所作も何もあったものではないけれど、目の前の山羊が苦しそうに鳴いている。


「メエエエ──」


 鳴き声が納屋に反響する。切羽詰まった、震える声。


「ここを押さえろ。腹が動かないように」


 ノアの指示は簡潔で、迷いがなかった。私は言われるまま山羊の腹に手を当てる。短い毛の下に硬い筋肉の張りと、その奥の微かな胎動が伝わってくる。


 ──生きてる。赤ちゃんが、動いてる。


「いい。そのまま」


 ノアの手が動く。慎重に、でも確実に。


 数分──いや、もっと長かったかもしれない。汗が額を伝って、藁の匂いと山羊の体温で納屋の空気がむわりとこもる。


 ぬるり、と。


 小さな命が出てきた。


「……っ」


 子山羊だ。濡れていて、ぐったりしていて、動かない。


 ノアがすばやく子山羊の鼻と口を拭う。布で体を擦る。


「メエ」


 小さな声。


 本当に小さな、かすれた声が──聞こえた。


「……よし」


 ノアの横顔が、ほんの少しだけ緩んでいる。笑顔とは呼べない。でも、眉間の皺が消えて、唇の端がわずかに上がっている。


 その表情が、ストンと胸に落ちてきた。


 ──この人、動物が好きなんだ。


「ヴィオレッタ」


「は、はい」


「手。出せ」


 言われるまま手を出すと、ノアが子山羊を私の腕に乗せた。


 あたたかい。


 濡れた毛がぬめっとして、へその緒がまだついていて、お世辞にも綺麗とは言えない。でも、掌にかかる重みと体温が、たまらなく愛おしい。


「メエエ」


 母山羊が首を伸ばして子山羊の匂いを嗅ぐ。私の腕の中で、子山羊がもぞもぞと動き始める。


「初乳を飲ませる。母親のそばに置いてやれ」


 ノアに言われて子山羊をそっと母親の傍に下ろすと、子山羊はよたよたと這って、母山羊の腹に頭を押しつけた。


 ずず、と乳を吸う音。


「……無事に生まれましたわね」


 声が震えた。涙が出そうになって、慌てて瞬きをする。


 ノアが眼鏡を外して、袖で汗を拭っている。背の高さが改めてわかる。私の頭ひとつ分は上。


「……すまなかった」


「え?」


「出迎えもできず、着いた早々こんな──」


「いいえ」


 思わず遮っていた。


「むしろ、最高の歓迎でした」


 ノアが眼鏡越しにこちらを見る。怪訝そうな顔。まあ、断罪されて嫁いできた令嬢が「最高」とか言ったら怪訝にもなる。


「あの、その……命が生まれる瞬間に立ち会えたのは光栄という意味で」


 フォローが下手すぎる、私。


 ノアは何も言わず、手を洗いに井戸の方へ歩いていった。


 納屋に残された私は、母山羊と子山羊をぼんやり眺めている。干し草の匂いが全身にしみついて、ドレスの膝は泥と藁だらけで、爪の間に山羊の体液が残っている。


 ──これが、私の新しい暮らしの初日。


 悪くない。全然、悪くない。


 裏口からルカが顔を出した。


「ヴィオレッタ様! お部屋、用意できました! あとノア様が『夕食は一緒に』って」


 夕食。婚約者と。


 一緒にお産を手伝ったのに、夕食で緊張するのはおかしいだろうか。


 でも確かに──手は繋いだけれど、まだ自己紹介すらまともにしていないのだ。

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