第18話「月夜の厩舎」
眠れない夜だった。
枕を抱えて何度も寝返りを打つ。目を閉じるとノアの横顔が浮かんで、目を開けると天井の染みが気になって、どちらにしても眠れない。
原因は分かっている。昨日の帰り道。肩が触れたあの瞬間。たったそれだけのことが、頭から離れない。
「……馬鹿みたい」
呟いて、布団から這い出した。
窓の外を見ると、満月に近い月が空の真ん中にある。銀色の光が庭を照らして、いつもの風景が別世界のように見えた。
こういう夜は、厩舎のアカネが心配になる。生まれて数日の仔馬は夜鳴きが続いていて、メリー号も寝不足気味だとノアが言っていた。
様子を見に行こう。眠れないなら、じっとしているより動いた方がいい。
上着を羽織って、足音を殺して廊下を進む。月明かりが窓から差し込んで、渡り廊下が白い帯のように浮き上がっている。
屋敷を出ると、夜気が頬を撫でた。冷たいけれど、不快じゃない。草の露の匂いと、かすかな花の残り香が混ざった夜の空気。
厩舎の扉に手をかける。
——明かりが漏れている。
誰かいる。こんな時間に。
そっと扉を開けると。
「あ」
「あ」
ノアだった。
ランプを手に、アカネのそばに座っている。仔馬は起きていて、ノアの膝に鼻先を乗せている。メリー号が隣でどっしりと横になり、穏やかな目で仔馬を見守っていた。
「ヴィオレッタ様。こんな時間に」
「ノア様こそ」
お互いに同じことを言って、同じように口を閉じる。
「……アカネが気になって」と私が言うと、「同じです」とノアが返した。
またか。この人とは、こういう偶然が多い。
「入っても?」
「どうぞ」
厩舎の中は、馬のあたたかな体温で外よりだいぶぬくい。藁の乾いた匂いと馬の体臭が混じって、不思議と落ち着く空間だった。
アカネのそばに腰を下ろす。仔馬が私に気づいて、ノアの膝から鼻先を持ち上げた。ふんふんと私の手の匂いを嗅いで、それからぺろりと指を舐める。湿ったザラザラの舌。
「この子、私を覚えてますか?」
「覚えていますよ。あの夜、一緒に過ごしましたから」
あの夜——仔馬の夜鳴きに付き添って、朝までノアと厩舎にいた夜。
思い出すだけで耳が熱くなる。肩に寄りかかって眠ってしまったことを、私はまだちゃんと謝れていない。
「あの時は、すみませんでした。肩に……その……」
「気にしていません。アカネが安心して眠れたのなら、それで十分です」
ノアの声は淡々としている。本当に気にしていないのか、気にしていないふりなのか。この人の感情は読みにくい。
月明かりが厩舎の窓から差し込んでいた。ランプの橙色の灯りと混ざって、厩舎の中がやわらかな二色に染まっている。
ノアが眼鏡を外してレンズを拭いた。
息が、止まりそうになる。
月明かりの中のノアの横顔が——綺麗だ。
眼鏡がない分、目元がはっきり見える。長いまつげが影を落として、黒い瞳が月の光を映している。普段は眼鏡の奥に隠れている表情が、無防備に晒されていた。
獣医として動物を診るときの真剣さとは違う。今は、ただ穏やかで、少しだけ寂しい顔をしている。夜中に一人でいるときの、素の表情。
見てはいけないものを見ている気がする。でも目が離せない。
「ノア様」
「はい」
「月が綺麗ですね」
言ってから気づいた。これ、前世で有名なあの台詞と同じだ。漱石の——いやいや、深い意味はない。ない。月が綺麗なのは事実だし。
ノアが窓の外を見上げた。
「ええ。今夜は月齢十四、ほぼ満月です」
ロマンのかけらもない回答だった。
いや、この人はそういう人だ。星空の下でも「空気が澄んでいるので」と言う人。月を見ても月齢を数える人。理系。圧倒的理系。
なのに、それが嫌じゃない。むしろ好ましいと思ってしまう。
「……ヴィオレッタ様」
「はい」
「この屋敷に来て、どのくらいになりましたか」
「ひと月と少しですわ」
「ひと月……そうですか」
ノアがアカネの頭をゆっくり撫でながら、少し間を置いて続ける。
「この屋敷に、女性の笑い声が響くようになったのは——あなたが来てからです」
心臓が跳ねた。
「母が亡くなってから、この家はずっと静かでした。使用人はいますが、笑い声は少なかった。私も、笑い方を忘れかけていた」
ノアの声は静かで、いつもと変わらないトーンのはずなのに、言葉の一つひとつが胸に刺さる。
「ヴィオレッタ様が来てから——コロが嬉しそうに吠えるようになり、テレサが毎日何かを倒し、ルカが余計なことを企み、ハンスが——まあ、ハンスは前からですが」
猫に赤ちゃん言葉の件だろう。知っている。知っているけど秘密だ。
「賑やかに、なりました」
「ご迷惑でしたか?」
「いいえ」
即答だった。ノアにしては珍しい速さで。
「いいえ。賑やかなのは——悪くないと、最近思います」
「悪くない」。また、この人の最上級。
アカネが小さくいなないて、私とノアの間にころんと寝転がった。甘えるように脚を折り畳んで、ふたりの膝に体を預けている。
その温もりが、壁を溶かす。
「ノア様」
「はい」
「私、この屋敷が好きです」
ノアの手が止まった。アカネの背中に置いた手が、動かなくなる。
「動物たちも、ハンスもテレサもルカも。全部好きです」
全部、の中に「あなた」が含まれていることを——言えなかった。
言ってしまったら、この心地よい距離が変わってしまう気がして。
ノアは長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「……私も、この屋敷が前より好きになりました」
月明かりが二人の間に落ちている。藁の匂いと馬の体温に包まれて、仔馬が安心したように目を閉じた。
手を伸ばせば届く距離に、ノアがいる。
伸ばさなかった。
でも——いつか、伸ばす日が来るかもしれない。
そう思えることが、今は嬉しい。
厩舎を出たのは月が西に傾きかけた頃。並んで屋敷に戻る廊下で、ノアが「おやすみなさい」と言った。
「おやすみなさい、ノア様」
自室に入って、扉にもたれかかる。
心臓が、まだうるさい。
月明かりの中のあの横顔が、まぶたの裏に焼きついて離れなかった。今夜はもっと眠れなくなりそうだと分かっていたけれど——不思議と、それが嫌じゃない。
明日もきっと、巡回の時間がくる。
隣を歩いて、肩が触れそうで触れない距離を、もう少しだけ楽しんでいたい。
——もう少しだけ。




