第17話「並んで歩く距離」
巡回が、日課になっていた。
いつの間にか「ご一緒してもよろしいですか」と聞かなくなり、ノアも「今日は南の牧場です」とだけ告げるようになっている。馬車に乗り込むとき、ノアが無言で手を差し出すのも当たり前になった。
当たり前。ぜんぶ当たり前。
なのに、その「当たり前」のひとつひとつが、胸の奥をくすぐるのはどういうことなんだろう。
今日の巡回先はグリューン牧場。丘の上にある小さな羊牧場で、片道は馬車で三十分ほど。行きは往診鞄の中身を確認しながらノアの説明を聞くのがいつもの流れだ。
「今日は毛刈り後の皮膚チェックです。毛刈りの傷から感染症を起こすことがあるので」
「羊の皮膚は弱いんですか?」
「見た目ほど丈夫ではありません。特にこの時期は虫が活発になるので」
ノアの声を聞きながら、羊のふわふわを想像する。もこもこ。もふもふ。たまらない。
「ヴィオレッタ様、聞いていますか」
「聞いてます! 感染症、虫、皮膚チェック!」
「……合っていますが、目が完全にもふもふの方を向いていました」
見抜かれている。
グリューン牧場の羊たちは、毛刈り後でさっぱりしていた。もこもこがスリムになって、脚が長く見える。前世で夏にサマーカットにされた犬を見たときと同じ気持ちだ。ちょっと寂しいけど涼しそう。
ノアが一頭ずつ丁寧に診察していく間、私は牧場主のおばあちゃんと話をした。
「ノア先生は昔から真面目でねえ。子どもの頃からここに来ては、羊と遊んでいたよ」
「お小さい頃から?」
「そうさ。お母上に連れられてね。あの方も動物好きで、よく一緒にうちの羊の世話を手伝ってくれたもんだよ」
お母上の話がまた出る。ノアの優しさのルーツは、やっぱりそこにあるらしい。
「最近はあんたも一緒に来てくれるから、先生も嬉しそうだ」
「嬉しそう、ですか? ノア様の表情、いつも変わらないような」
「変わっとるよ。あたしゃ六十年、人の顔を見てきたからね。目の奥が違う」
おばあちゃんが皺だらけの顔をくしゃっとさせて笑う。
目の奥。
ノアの方をちらりと見る。羊の脚を持ち上げて蹄の間を確認している。真剣な横顔。いつもと同じに見えるけれど——本当に変わっているのだろうか。
帰り道は、歩きにした。
馬車の車輪が石に乗り上げて軸がずれてしまい、牧場主のおばあちゃんが「修理は任せな、明日届けるよ」と請け負ってくれたからだ。
「歩いて帰ると一時間ほどかかりますが」
「構いません。天気もいいですし、いい散歩ですわ」
丘を下る小道は野花が咲き乱れていた。黄色い花、紫の花、名前も知らない白い小花。風が吹くと花の甘い匂いが鼻をくすぐり、草が波のようにうねる。
ノアの隣を歩く。
これまでは馬車の中で向かい合うか、巡回先で数歩離れているかだった。並んで歩くのは、実は初めてかもしれない。
ノアの歩幅は長い。背が高いのだから当然なのだけれど、意識しているのかしていないのか、少しだけ歩幅を縮めてくれている。
肩が、近い。
私の肩の高さはノアの二の腕あたり。外套の袖が風で揺れるたびに、布越しに触れそうで触れない距離。あと五センチ——いや、三センチ。
心臓がうるさい。
どくん、どくん、と。巡回で丘を登ったあとよりも速い。明らかにおかしい。運動不足のせいにするには無理がある。
「ヴィオレッタ様」
「はいっ」
声が裏返った。恥ずかしい。
「疲れましたか? 顔が赤いですが」
「き、気のせいです。夕日のせいですわ」
夕日はまだ出ていない。太陽は高い位置にある。ノアが不思議そうな顔をしたけれど、追及しなかった。この人の「追及しない」に何度助けられていることか。
並んで歩く。
ざくざくと草を踏む音が二人分。ときどき虫の羽音。遠くから牛の鳴き声。
沈黙なのに、寂しくない。むしろ心地いい。何か話さなきゃと焦る必要がない関係は、贅沢なのだと最近気づいた。
ノアの手が揺れている。歩くリズムに合わせて、右手が前後に振れる。大きな手。動物を治す手。泥まみれの私を引き起こしてくれた手。
あの手を、握りたい。
——は?
自分の思考に驚いて、足が止まりかける。
握りたい? 手を? なぜ? 別に転んでもいないし助けが必要なわけでもないのに、なぜノア様の手を握りたいなどと——
「ヴィオレッタ様?」
「な、なんでもありません!」
早歩きになる。心臓がうるさくて自分の足音が聞こえない。
ノアが歩調を合わせてくる。並ぶ。また同じ距離。肩が触れそうで触れない、あの三センチ。
もう少し近づいたら。
もう少しだけ、肩がずれたら。
触れる。
——触れてしまう。
「あ」
風が吹いた。強い風。私の帽子が飛びそうになって、咄嗟に頭を押さえる。体がよろけて、ノアの方に傾いて——
肩が、触れた。
ほんの一瞬。外套越しの、かすかな接触。
「す、すみません、風が——」
「いえ」
ノアの声は平坦。いつもと変わらない。
でも、歩く速度が少しだけ落ちた。ほんの少しだけ、ゆっくりになった。まるで——この道が、もう少し長ければいいと思っているみたいに。
それは私の願望の投影かもしれない。
でも、もしそうだとしたら。
屋敷の屋根が見えてきた。コロが庭の門で尻尾を振って待っている。いつもの風景。いつもの帰り道——のはずなのに、今日はどうして、屋敷が近づくのが少し残念なんだろう。
「……ノア様」
「はい」
「今日の帰り道、楽しかったです」
ノアが立ち止まった。私も立ち止まる。
夕方の光がノアの横顔を照らしている。風が黒髪を揺らして、眼鏡のレンズがきらりと光った。
「私も——悪くない散歩でした」
「悪くない」が、この人の最上級の褒め言葉だと知っている。
胸がきゅうっと締まって、でも痛くなくて、あったかい。この感情の名前を、私はたぶんもう知っている。知っているくせに、認めるのが怖い。
コロが待ちきれずに駆け寄ってきて、二人の間に割り込んだ。
「はいはい、ただいま、コロ」
しゃがんでコロを抱きしめる。ふわふわの毛に顔を埋めると、犬の匂いと草の匂いがする。
顔が赤いのを、隠したかった。
今日の日記に何を書けばいいのか、まだ分からない。




