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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第16話「ドジなメイド」

事件はウサギ小屋で起きた。


テレサが掃除当番の日、私は庭でコロのブラッシングをしていた。冬毛が抜け始めていて、ブラシを通すたびにふわふわの毛が風に舞う。鼻先をくすぐる毛を吹き飛ばしながら「コロ、あんた毛量すごいわね」と話しかけていたときだった。


「きゃあああああ!」


テレサの悲鳴。


振り返ると、ウサギ小屋の扉が全開になっている。テレサが尻餅をついていて、その周囲を——白い塊が四方八方に散っている。


ウサギだ。


六羽のウサギが、全速力で庭を駆け回っていた。


「テレサ! 何が——」


「すみません! 掃除中に足が引っかかって扉のかんぬきを蹴ってしまって——」


テレサらしいにも程がある。


コロが興奮して吠え始めた。ウサギたちはその声に驚いて、さらに加速する。一羽が花壇に飛び込み、一羽が垣根の下を潜り抜け、残りは芝生を縦横無尽に跳ね回っている。


「コロ、待って、追いかけちゃ駄目——」


言った瞬間にはもう遅い。コロが嬉しそうに尻尾を振りながら芝生を爆走し、ウサギの逃走範囲がさらに広がった。


「何事ですか」


ノアが書斎から出てきた。眼鏡の奥の目が庭の惨状を捉え、一瞬だけ固まる。


「ウサギが」


「見れば分かります」


珍しく即答だった。


「全員で捕まえましょう。テレサ、東側を。ヴィオレッタ様は花壇の方を。私は垣根に回ります」


ノアの指示が飛ぶ。動物相手の判断は本当に速い。


私は花壇に突入した。バラの棘が袖を引っかけるのも構わず、茂みの奥を覗き込む。


いた。真っ白な毛玉が、パンジーの根元で丸くなっている。


「よしよし、怖くないわよ——」


そっと手を伸ばす。ウサギの長い耳がぴくりと動いて——逃げた。真横にぴょんと跳ねて花壇を突破し、私の手には花びらだけが残される。


「速い!」


ウサギの瞬発力を舐めていた。前世のペットショップにいたウサギはもっと大人しかったのに。ここの子たちは半ば放し飼いで鍛えられているのだろう。


「一羽確保しました!」


ノアの声。振り返ると、垣根の陰でノアがウサギを一羽、両手で優しく抱えている。ウサギは観念したように大人しくなっていて、ノアの胸元に顔を埋めている。


獣医の手は魔法だ。あっという間に動物を落ち着かせる。


「すごい」


「慣れです。次を」


ハンスが厨房から出てきた。「騒がしいと思えば」と呆れ顔だったのは最初だけ。庭にウサギが走り回っているのを見た瞬間、使用人長の目が変わる。


「全員、持ち場につけ! 東門を閉めろ! 菜園への通路を塞げ!」


ウサギの捕獲に軍隊式の指揮系統を導入するハンス。大げさだけれど、的確だった。使用人たちが動き出し、逃走経路が次々と封鎖されていく。


ルカも駆けつけた。


「ウサギ捕まえるの、得意ですよ! 鷹匠の動体視力を見せてやります!」


宣言した二秒後にウサギを踏みそうになって自分が転んだ。芝生に顔面から突っ込むルカ。ゼフィルが上空から「やれやれ」と言わんばかりに旋回している。


「ルカ、大丈夫?」


「……口の中が草の味します」


草を食べている場合じゃない。


私は二羽目のウサギを追って中庭に回り込んだ。噴水の裏に隠れているのが見える。白い毛が水しぶきで少し濡れて、小さな鼻がひくひくと動いている。可愛い。捕まえなきゃいけないけど、可愛い。


しゃがんで、ゆっくりと近づく。前世の経験を総動員。急な動きは禁物。視線を合わせすぎない。地面に近い姿勢で、横から回り込む。


「いい子ね。怖くないわ。お家に帰ろう?」


手のひらを上に向けて差し出す。ウサギの鼻が手のひらに触れた。冷たくて湿った感触。ひくひく、ひくひく。


——よし。


そっと両手で包み込むように抱え上げる。ウサギが一瞬暴れかけたけれど、胸に抱くと大人しくなった。心臓の鼓動がとくとくと指先に伝わってくる。小さくて、速い。


「二羽目、確保です!」


「さすがです、ヴィオレッタ様」


ノアの声に、ほんの少し感嘆の色が混じっていた気がするのは欲目だろうか。


残り四羽。テレサが涙目で一羽を追い回し、ハンスが威厳を投げ捨てて四つん這いで垣根の下に腕を突っ込んでいる。ルカは三度目の転倒を記録した。


最後の一羽が見つかったのは、なんとノアの書斎だった。


開いていた窓から入り込んだらしく、机の下で堂々と毛づくろいをしている。ノアの獣医学書の上に糞が三粒ほど転がっていた。


「……まあ、紙は消毒できますから」


ノアが諦めたように呟く。


全羽回収。所要時間、約一時間。


庭は荒れ、花壇は踏み荒らされ、使用人たちは息切れしている。ルカの服は草まみれで、テレサは泣いていた。


「申し訳ございません、申し訳ございません……」


テレサが何度も頭を下げる。ウサギ小屋のかんぬきを蹴り飛ばすという前代未聞のドジに、使用人長のハンスも「テレサ……」と額を押さえている。


「テレサ」


私はテレサの肩に手を置いた。


「怪我はありませんか?」


「え——はい、私は大丈夫ですけど、でも——」


「ウサギたちも全員無事。花壇はまた植えればいい。誰も怪我をしなかったのが一番大事ですわ」


テレサの目からぽろっと涙がこぼれる。「お嬢様ぁ……」


ノアが黙ってウサギ小屋のかんぬきを確認し、二重ロックを追加している。無口だけれど行動が速い。再発防止が先に来るのが、この人らしい。


「それにしても」


私はくたびれた体を伸ばしながら空を見上げた。青空がまぶしい。


「いい運動になりましたわね」


ルカが草だらけの服を払いながら笑い、ハンスが深いため息をつき、テレサが鼻をすすった。


ノアは——ほんの一瞬、笑った気がした。目を凝らす前に消えてしまった、幻みたいな微笑み。


でも確かに、この騒動の間、屋敷のみんなが一つになっていた。ウサギを追いかけるという、ただそれだけのことで。


夜、日記にこう書いた。


「ウサギ六羽と追いかけっこ。全敗(最終的には勝利)。テレサのドジは天災。でも嫌いじゃない。明日はかんぬきの確認を手伝おう」


ペンを置いたとき、ふと思い出す。ノアが書斎でウサギの糞を見たときの顔。


あの微妙な表情、もう一度見たいかもしれない——と思ったのは、さすがに意地悪だろうか。

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