第15話「前世の知恵」
鶏舎の臭いがひどい。
巡回の途中で立ち寄った養鶏農家のシュルツ家。鶏舎に入った瞬間、アンモニアの鋭い匂いが鼻を突いて、目がじわっと潤む。
「うっ」
「大丈夫ですか」
ノアは平然としている。慣れているのだろうけれど、この人の鼻はどうなっているのか。
鶏たちは元気そうに見えた。赤い鶏冠を揺らしながらコッコッと歩き回り、餌をついばんでいる。ふわふわの羽根に触りたい衝動を抑えるのに全神経を使う。
「シュルツさん、最近鶏の調子はいかがですか」
ノアが農家の主人に尋ねると、日に焼けた顔が曇った。
「それが先生、ここ半月ほど卵の産みが悪くて。病気でしょうか」
ノアが鶏を一羽ずつ丁寧に診察する。羽根を広げ、目を確認し、脚を触り、嗉囊のあたりを軽く押す。
「病気ではありません。体調も良好です」
「じゃあ何で……」
ノアが首をかしげている。原因が分からないときの癖で、眼鏡の右のつるを人差し指で押し上げる仕草。もう何度も見たから分かる。
私は鶏舎の中をもう一度見回した。
敷き藁の状態。水飲み場の位置。換気の具合。餌箱の配置。
——あ。
前世の記憶が頭の中でカチリと噛み合う。
ペットショップ時代、鳥コーナーの担当になったことがある。インコやオウム、文鳥。種類は違うけれど、鳥の健康管理の基本は同じだ。
「あの、少しよろしいですか」
ノアとシュルツさんがこちらを向いた。
「この鶏舎、換気口が南側にしかありませんよね。北側にも開けた方がいいと思います。空気の流れが一方向だと、アンモニアが底に溜まって鶏のストレスになるんです」
二人が目を丸くしている。
「あと、敷き藁の交換頻度はどのくらいですか」
「月に一度くらいかな」
「週に一度にしていただけますか。湿った藁は雑菌の温床になります。それと——水飲み場が餌箱のすぐ隣にありますけれど、少し離した方がいいです。餌が水に混ざると腐敗しやすくなるので」
シュルツさんが腕を組んで唸る。「そんなこと、考えたこともなかった」
ノアが私をじっと見つめていた。
その視線に気づいて、はっとする。言いすぎた。公爵令嬢がなぜ鶏舎の衛生管理に詳しいのか、不自然すぎる。
「えっと、その、本で読みまして。動物の健康は環境からと申しますし」
苦しい言い訳。でもノアは追及してこなかった。代わりに、小さく頷く。
「理に適っています。換気と衛生管理で産卵率が改善した事例は、王都の獣医学書にも記載があります」
え。肯定してくれるの。
「ヴィオレッタ様の提案を試してみましょう。シュルツさん、換気口の増設は私が手伝います。敷き藁の交換頻度も上げてください」
シュルツさんが「分かりました、先生がそう言うなら」と頷き、さっそく北壁に穴を開ける相談を始めた。
帰りの馬車で、ノアが珍しく自分から口を開いた。
「ヴィオレッタ様」
「はい」
「先ほどの衛生管理の知識——本で読んだと仰いましたが」
「……ええ」
「どの本ですか」
来た。やっぱり来た。
「えーと、タイトルは忘れてしまったのですが、実家の書庫にあった古い——」
「シュトラウス公爵家の書庫に獣医学書はなかったと記憶しています。以前、公爵家に治療に伺った際に書庫を拝見しましたので」
この人、記憶力が良すぎる。
「……あの」
「いえ、追及するつもりはありません」
ノアが窓の外に目を向けた。馬車の揺れに合わせて黒髪がゆらゆらと揺れている。
「誰にでも、話せないことはある。私にも、あります」
「ノア様にも?」
「ええ」
それだけ言って、また黙った。
沈黙が流れる。でも、居心地は悪くない。「話せないことがある」と認めてくれたことが、むしろ心を軽くしている。
この人は、詮索しない。踏み込まない。でも、拒絶もしない。
動物と同じだ。動物は相手の秘密を暴こうとしない。そこにいて、そのまま受け入れる。ノアは動物と暮らすうちに、そういう距離の取り方を身につけたのかもしれない。
「——ありがとうございます」
「何がですか」
「聞かないでいてくださって」
ノアが一瞬だけこちらを向いた。目が合って、すぐに逸らされる。
「ヴィオレッタ様の知識が、領地の動物を助けている。それだけで十分です」
胸の奥がじんと熱くなる。
この人に認められるのは、王子に認められるよりもずっと嬉しい。社交界のドレスや宝石やダンスではなく、動物の世話と衛生管理で。泥臭くて、汗臭くて、アンモニア臭い現場で。
「……もっと、お役に立ちたいです」
「十分、役に立っていますよ」
さらりと言われた。ノア本人は何気なく口にしたのだろう。でも私の心臓は全然何気なくない。
馬車が屋敷の前に停まり、降りたところでコロが駆けてくる。ノアの脚にじゃれつき、次に私の手を舐めてくる。ざらりとした舌の感触。
「今日の巡回、楽しかったですわ」
「楽しかった、ですか。巡回を楽しいと言う方は初めてです」
「お互い様ですわ。巡回に人を連れていく獣医も珍しいでしょう?」
ノアが黙った。否定も肯定もしない、あの間。
それから、ほんの少し口角を上げる。
「……そうかもしれません」
夕暮れの屋敷に入っていくノアの背中を見送りながら、私はある確信を深めていた。
この人のそばで、もっとできることがある。前世の知識も、この世界で学んだことも、全部使って。
動物の健康は環境から——そして、ノア様の笑顔も環境から。
後者はまだ道半ばだけれど。




