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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第14話「夜鳴きの仔馬」

仔馬が生まれた。


夕方、厩舎から使用人が駆け込んできて「メリー号のお産が始まりました」と告げた瞬間、ノアは晩餐のスープを三口で飲み干して立ち上がった。あの無表情のまま、でも足だけは速い。


私も追いかけた。スカートの裾を掴んで走ると、藁と馬の汗が混じった濃い匂いが近づいてくる。


お産は二時間かかった。


ノアの手際は鮮やかで、声かけも的確で、メリー号が苦しそうに首を振るたびに額を撫でて「大丈夫、大丈夫だ」と囁いていた。動物に向ける声だけは、低くて優しい。


生まれたのは栗毛の牡馬。濡れた体を藁の上で震わせながら、細い脚で必死に立とうとしている。膝が折れて、また立ち上がって、また崩れる。


「がんばれ」


思わず声が出た。ノアがちらりとこちらを見る。


仔馬がようやく四本の脚で立ったとき、厩舎にいた全員がほっと息をつく。メリー号が仔馬の体を舐め始め、仔馬がふるふると尾を振る。


生命の始まり。何度見ても心が震える。


「名前、つけますか?」


ノアが聞いた。


「私がですか?」


「第一発見者の権利です」


第一発見者ではない。どう考えてもノアが取り上げたのだけれど、その不器用な優しさがくすぐったくて。


仔馬の栗毛を見つめる。夕焼け色のたてがみ。


「……アカネ、はどうでしょう」


「アカネ」


「夕焼けの色みたいだから」


ノアが仔馬をじっと見て、小さく頷く。「いい名前です」——短い言葉なのに、胸がぽかぽかする。


問題が起きたのは、その夜だった。


アカネが鳴きやまない。


甲高い鳴き声が屋敷まで響いてきて、最初は「お腹が空いたのかしら」と思ったのだけれど、テレサに聞くと「夜鳴きですね。生まれたばかりの仔馬にはよくあるそうです」とのこと。


厩舎に行くと、ノアがもうアカネのそばにいた。


仔馬は母馬のそばにいるのに鳴き続けている。メリー号が困ったように首を伸ばして仔馬を舐めるけれど、効果がない。


「不安なんでしょう」


ノアが言った。ランプの灯りに照らされたその横顔は、少し疲れている。巡回から帰ってきてすぐお産に立ち会って、もう半日以上休んでいないはずだ。


「交代しましょう」


「……え?」


「私が見ていますから、ノア様は少し休んでください」


「しかし——」


「大丈夫です。前世で——昔、夜通し動物の世話をした経験がありますので」


嘘ではない。ペットショップで子犬の体調が悪くなったとき、店に泊まり込んだことが何度もあった。


ノアはしばらく迷うような顔をしていたけれど、私がアカネの首筋をそっと撫でると——仔馬が少しだけ鳴き声のトーンを落とした。


「……では、二時間だけ。二時間後に交代します」


「約束ですわよ」


ノアが厩舎を出ていく。足音が遠ざかるのを聞きながら、藁の上に腰を下ろした。


アカネがまた鳴く。ひひん、ひひん、と切ない声。メリー号が寄り添っているけれど、初めての夜が怖いのだろう。世界に出てきて数時間。何もかもが新しくて、暗くて、広い。


「大丈夫よ」


仔馬の背中に手を置くと、産毛の柔らかさに驚く。絹よりも細い毛が指の間をすり抜けていって、下から伝わるのは小さな体の鼓動。とくとくと、速い。生きている証拠のリズム。


「怖いよね。知らないところに急に出てきたら、そりゃ怖い」


私だってそうだった。


乙女ゲームの悪役令嬢として目覚めたあの日。知らない部屋、知らない顔、知らない体。何もかもが分からなくて、夜中にこっそり泣いた。


「でもね、朝が来たら分かるわ。ここは怖い場所じゃないって」


アカネの鳴き声が少しずつ間隔を空けていく。私の手の温度に慣れてきたのか、鼻先を私の膝に押しつけてきた。湿った鼻息がスカートを温める。


どのくらい経っただろう。


うとうとしかけたとき、厩舎の扉が軋んだ。


「交代です」


ノアが毛布を二枚持って戻ってきた。一枚を私の肩にかけ、もう一枚を自分の膝に広げてアカネのそばに座る。


「二時間、もう経ちましたの?」


「一時間半です。眠れなかったので」


正直だ。


夜中の厩舎は静かで、聞こえるのは馬の呼吸と藁が擦れる音だけ。ランプの炎が揺れるたびに二人の影が壁に伸びたり縮んだりしている。


「ノア様は、いつもこうして夜通し?」


「必要なときは。動物は時間を選びませんから」


「大変ですね」


「大変です」


否定しないんだ、と思った。普通なら「慣れていますから」とか言いそうなものなのに。


「でも、嫌ではないです」


ノアがアカネの額をそっと撫でる。仔馬はもう鳴いていない。二人の間で安心したように目を閉じかけている。


「生まれたばかりの命のそばにいられるのは——特別なことですから」


ランプの灯りがノアの横顔を照らす。眼鏡を外しているので、表情がよく見えた。穏やかで、少しだけ寂しくて、でも温かい目をしている。


この人は、動物の命を守ることで自分の命も繋いできたのだろう。お母さんを亡くしたあの日から、ずっと。


「……私も」


「はい?」


「私も、特別だと思います。今夜ここにいられることが」


ノアが少し目を見開いて、それからゆっくりと視線を落とした。


「……ヴィオレッタ様は」


「はい」


「不思議な方ですね」


変わっている、ではなく、不思議。少しだけ言葉が変わった。それだけのことが、やけに嬉しい。


アカネが小さく鼻を鳴らして、完全に眠りに落ちた。メリー号も首を下げて目を閉じる。


親子の寝息が重なる厩舎で、私たちはもうしばらく並んで座っていた。


毛布越しに伝わるノアの体温が——あったかくて、困った。


気づいたら朝だった。私はノアの肩に頭を預けて眠っていて、ノアは壁に背をもたれて眠っている。アカネは二人の膝の上で脚を投げ出して熟睡していた。


テレサが朝ごはんを持ってきて「きゃあ」と黄色い声を上げたのは、また別の話。

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