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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第12話「猫と使用人長」

ハンスの秘密を知ってしまった。


きっかけは夜中のミルク泥棒事件である。


テレサが「厨房のミルクが毎晩減っているんです」と深刻な顔で報告してきたのが三日前。使用人たちの間では「屋敷に住みついたネズミではないか」と噂になっていたのだけれど、ネズミがミルクを鍋ごと持っていくわけがない。


「犯人を突き止めますわ」


名探偵ヴィオレッタ、出動。


深夜、足音を殺して厨房に向かう。廊下は月明かりだけが頼りで、板張りの床がひんやりと足裏に冷たい。コロが付いてこようとしたので「しーっ」と制して部屋に戻した。尻尾を振るコロの鼻先を撫でると、湿った感触と犬特有のあったかい息がくすぐったい。


厨房の手前で物音がする。


そっと覗くと——いた。犯人。


大柄な背中。使用人長の制服。間違いなくハンスだ。


ただし、その大きな背中は今、とても小さなものに向かってかがみこんでいる。


「ほーら、ミルクでちゅよー。おいちいでちゅねー」


私の脳が一瞬フリーズした。


あの、ハンス。強面のハンス。眉間のシワが刻まれたハンス。ヴィオレッタ様のお力添えで屋敷は安泰ですと威厳たっぷりに語るハンスが、今——赤ちゃん言葉を使っている。


小皿にミルクを注ぎ、床に置く。そこにすり寄ってきたのは三毛猫のミルク。屋敷に住み着いている猫で、昼間はツンとしている子だ。


「ミルクちゃん、いい子でちゅねー。今日もかわいいでちゅねー」


ハンスの太い指がミルクの顎の下を掻く。ミルクがごろごろと喉を鳴らし、ハンスの手に頬をこすりつけている。


ギャップ。


ギャップがすごい。


社交界にいた頃、「ギャップ萌え」という前世の概念を理解しきれなかった自分を殴りたい。今この瞬間、完全に理解した。一五〇パーセント理解した。


背を向けて逃げようとした瞬間、私の足が何かに——たぶんテレサが昼間に置き忘れたモップに——引っかかった。


がたんっ。


「誰だ!」


ハンスが振り返る。目が合った。


沈黙が流れる。


ハンスの顔が、見たことのない速度で赤くなっていく。耳から首まで、まるで夕焼けが人間に宿ったような色。


「お、お嬢様……今のは……」


「聞いてません!」


嘘だ。全部聞いた。


「何も見てません!」


嘘だ。全部見た。赤ちゃん言葉まで。


ハンスが生まれて初めて見せるであろう狼狽え方で、ぶんぶんと両手を振っている。あの巨体が慌てると、厨房の棚が揺れる。


「あ、あれは、その——ミルクが夜になると腹を空かせているようでして——使用人長として屋敷の住人の健康管理は職務の範囲内であり——」


「住人」


「猫も立派な屋敷の住人です」


理論武装が完璧すぎる。きっと万が一バレた場合のために、事前に言い訳を用意していたのだろう。


ミルクが小皿のミルクを飲み終え、私の足元に寄ってくる。柔らかい毛並みがふくらはぎに触れて、ざらりとした舌で足首を舐められた。くすぐったくて、思わずしゃがんでしまう。


「……ミルク、可愛いですわね」


「でしょう」


ハンスの返事が早い。即答。食い気味。威厳はどこへ行ったのか。


私がミルクの背中を撫でると、ハンスが隣にしゃがんで——さっきまでの強面が嘘のような穏やかな目で猫を見つめる。


「この子は二年前の冬、屋敷の裏で震えていたのを保護したんです。ノア様が診察して、栄養失調だが命に別状はないと」


「ノア様が」


「はい。あの方は、動物に対しては誰よりも迅速です。人間に対しては……まあ、不器用ですが」


ハンスがミルクの耳の後ろを掻きながら、遠い目をした。


「ノア様のお母上がご存命の頃は、お屋敷に猫が五匹おりました。お母上が猫好きでして。ノア様も幼い頃は、猫を膝に乗せてよく笑っておいででした」


お母上——。ノアが巡回の途中で語ってくれた、あの人だ。亡くなった日に捨て犬を拾ったという話。ノアにとって動物は、お母さんの温もりと繋がっているのかもしれない。


胸の奥がきゅっと締まる。


「ハンスは、ずっとノア様のおそばに?」


「ノア様が五歳の頃から。やんちゃで、よく木に登っては降りられなくなるお子でした」


想像して噴き出しそうになる。あの無口で無愛想なノアが、木の上で泣いている幼い姿。


「お嬢様」


ハンスが居住まいを正す。使用人長の顔に戻りかけて——でも目元だけは柔らかいまま。


「猫の件は、その……ご内密に」


「もちろんですわ。でも、条件があります」


「条件?」


「今度ミルクにごはんをあげるとき、私も混ぜてください」


ハンスが目を丸くし、それから深く頭を下げた。


「……お嬢様は、やはりこの家に必要な方です」


大げさな。猫を一緒に可愛がるだけなのに。


でも、嬉しかった。この家に「必要」だと言ってもらえることが。社交界では「不要」だと切り捨てられた私には、その一言が温かい。


厨房を出ると、廊下の角でコロが待っていた。尻尾を振りながら「にんげん、遅い」と言いたげな顔をしている。


「ごめんごめん、ちょっと秘密の集会があったの」


コロの頭を撫でながら自室に戻る。


布団に入ってから気づく。


——ハンスの赤ちゃん言葉、ノア様に報告したら面白いだろうなあ。


いや、駄目だ。秘密は守ると約束した。


でも面白い。すっごく面白い。この面白さを誰とも共有できないのが一番つらい。


枕に顔を押しつけて、声を殺して笑いながら眠りについた。


翌朝、ハンスと顔を合わせたとき、あの威厳たっぷりの使用人長は何事もなかったような顔で「おはようございます、お嬢様」と一礼してみせた。


完璧な使用人長の佇まい。昨夜の赤ちゃん言葉が幻だったかのような堂々とした態度。


ギャップ萌えの破壊力を、私は改めて思い知るのだった。

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