第11話「雨と泥と笑顔」
朝から空が低い。
灰色の雲が山の稜線を飲み込んで、屋敷の窓から見える牧場も霞んでいる。鼻先をくすぐるのは湿った土の匂いと、暖炉にくべた薪の煙。こういう日はもふもふたちも大人しくて、コロが私の足元で丸くなっている。
「今日の巡回、中止でしょうか」
ハンスに尋ねると、使用人長は太い眉をぴくりと動かして首を横に振る。
「ノア様は雨程度では止まりませんよ。むしろ、雨の日ほど体調を崩す家畜が多いので」
——なるほど。獣医とは、天候を選べない仕事らしい。
前世でペットショップに勤めていたとき、台風の日にも出勤していたのを思い出す。あのときは「動物に休日はないんだよね」と店長が笑っていて、私も「ですよね」と笑い返していたっけ。
玄関に向かうと、ノアはもう外套を羽織って往診鞄を肩にかけていた。
「ヴィオレッタ様。今日は——」
「ご一緒します」
食い気味に返すと、ノアが一瞬だけ目を瞬かせる。眼鏡の奥の黒い瞳が、少しだけ柔らかくなったように見えるのは気のせいだろうか。
「……雨ですが」
「雨くらい平気ですわ。前世で——あ、いえ、昔からアウトドア派ですので」
危ない。前世の話をうっかり口にするところだった。
ノアは数秒ほど私を見つめたあと、小さく頷いてテレサに声をかける。
「替えの外套を一枚、お願いできますか」
テレサが「はいっ!」と元気よく駆けていき、盛大につまずいて壁に額をぶつけた。心配するべきなのに、もう慣れてしまった自分がちょっと怖い。
巡回先は丘の向こうの酪農家。雨脚は出発してから勢いを増し、馬車の幌を叩く音がリズミカルに響いている。
「マイヤー家の牛が蹄を痛めたと連絡がありました」
ノアの声は馬車の中だとよく聞こえる。普段はぼそぼそと話す人なのに、動物の話になると声に芯が通るのが不思議で、好きだ。
——好き?
いやいや、声が聞き取りやすいという意味であって、別にそういう「好き」ではなく。
「蹄の治療は時間がかかりますか?」
「状態次第です。化膿していなければ半刻ほどで」
到着したマイヤー家の庭は、もう泥の海だった。
馬車から降りた瞬間、ブーツがずぶりと沈む。泥の冷たさがつま先まで染みて、ぬるりとした感触に思わず声が漏れる。
「ひゃっ」
「足元に気をつけて——」
ノアがこちらを振り返ったその拍子に、私の足がずるりと滑った。
世界が傾く。
咄嗟に手を伸ばしたけれど、掴んだのは空気だけ。お尻から盛大に泥の中へ着地する。
べしゃっ、という音がした。とても令嬢が立てていい音ではない。
「ヴィオレッタ様!」
ノアが慌てて駆け寄ってくる——のだけれど、泥は公平だった。彼のブーツも容赦なく滑り、バランスを崩して片膝をつく。手をついた先が水たまりで、泥水が跳ね上がって眼鏡に模様を描いている。
しばらくの沈黙。
雨が二人の上にしとしとと降り続ける。
泥まみれの私と、泥まみれのノア。令嬢と子爵が、酪農家の庭先で揃って泥だらけ。
「……大丈夫ですか」
ノアが眼鏡を外し、袖で拭おうとして——袖も泥だらけだと気づき、動きを止めた。その顔が困っている。とても困っている。無口で無愛想な獣医の困り顔は、申し訳ないけれど、ちょっと面白かった。
ぷっ、と笑いが漏れた。
「ふふ」
「……何が、おかしいのですか」
「だって、ノア様の顔に泥が——ここ、ここについて」
自分の頬を指さすと、ノアが同じ場所を手で拭う。当然、泥の手で拭ったので余計にひどくなる。
「あっ、違います、そうじゃなくて——」
もう駄目だ。おかしくて声を上げて笑ってしまう。お腹を抱えて、泥の中で。
ノアは怪訝そうに私を見ていたけれど、やがてその口元がわずかに、ほんのわずかにゆるんだ。
「……ヴィオレッタ様は、変わっていますね」
「お互い様ですわ」
この台詞、何度目だろう。でも嫌じゃない。ノアの「変わっている」には、嘲りの色がない。この人は社交界で「変人子爵」と呼ばれてきた。だから「変わっている」ことを、悪いことだとは思っていないのかもしれない。
ノアが立ち上がり、泥のついた手をこちらに差し出す。
「立てますか」
その手を取った。大きくて、温かくて、泥だらけ。
引き上げられた勢いでよろめいて、ノアの胸元に額がぶつかりそうになる。外套越しに伝わるのは石鹸の残り香と、雨に濡れた草の匂い。
心臓がどくんと跳ねた。
「す、すみませんっ」
「いえ」
ノアの声は相変わらず平坦だったけれど、差し出した手をなかなか離さなかったのは——たぶん私の気のせい。きっと、気のせい。
蹄の治療は無事に終わった。
マイヤーさんの奥さんが気を利かせてくれて、温かいスープとタオルを用意してくれている。素朴な野菜のスープは舌に沁みるほど美味しくて、体の芯から冷えが溶けていくのを感じる。
「お二人とも、仲がよろしいんですねえ」
奥さんがにこにこと言う。
「あの、これは——」
「ノア様が女性と一緒に巡回なんて、初めてですよ」
ノアは黙ってスープを飲んでいる。否定しない。肯定もしない。ただ、耳の先がほんのり赤いのは——暖炉のせいだと思うことにする。
帰りの馬車で、二人とも黙っていた。
でも、さっきまでの沈黙とは種類が違う。気まずいのではなく、言葉がいらない沈黙。窓の外では雨が上がりかけていて、雲の隙間から夕陽が一筋だけ差し込んでいる。
「……ノア様」
「はい」
「また、巡回にご一緒してもよろしいですか」
ノアは少し間を置いてから答えた。
「雨でも、ですか」
「雨でも」
「……泥だらけになりますよ」
「構いません。泥くらい、洗えば落ちますわ」
ノアの唇がまた、ほんの少しだけ上がる。あの、ほとんど分からないような微笑み。
「では……お願いします」
心の中で、ガッツポーズをした。
泥だらけで笑い合ったこの日が、あとになって特別な意味を持つなんて——このときの私は、まだ知らなかった。




