表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/32

第10話「あの日の子犬」

夜更けだった。


 眠れなくて、台所に水を飲みに行った帰り。廊下を歩いていたら、書斎の扉が細く開いていて、灯りが漏れていた。


 覗くつもりはなかった。でもコロが書斎の前に座って、扉の隙間に鼻を押しつけている。くうん、と小さく鳴いたのが聞こえて。


 ノアが書斎にいた。


 机の前に座って、手にしているのは──古ぼけた首輪。小さな、子犬用の首輪。革がすり切れて、金具が錆びている。


「ノア様」


 声をかけるか迷って、でもコロが尻尾を振って振り返ったから、もう遅い。


「……起きていたのか」


「眠れなくて。お水を飲みに」


「そうか」


 ノアは首輪を机の上に置いた。隠す素振りはない。


「入れ」


 書斎に入ると、古い革と紙の匂いがした。本棚には獣医学の分厚い本が並び、壁には動物の骨格図が貼ってある。机の上の首輪だけが、この部屋に似つかわしくないほど古びて、小さい。


「誰の首輪ですか」


「……昔の」


 ノアが椅子に深く座り直す。眼鏡を外して、目頭を押さえた。


「俺が七つのとき、母が死んだ」


 唐突だった。


 ノアが自分の過去を語るのを聞いたのは初めてだ。動物の話は饒舌にするけれど、自分のことは何一つ話さなかった人が、月明かりの書斎で──。


「病だった。長い間伏せっていて、最後は静かに逝った」


 声は平坦。感情を排した、診断書を読み上げるような口調。


「葬儀の日、俺は屋敷を抜け出した。大人たちが泣いているのが嫌だったんだ。泣くくせに、母が生きていたときは見舞いにも来なかった連中が」


 ノアの灰色の瞳が、首輪を見つめている。


「裏庭の茂みに子犬がいた」


「子犬」


「捨てられていた。段ボール──いや、この世界では木箱か。布に包まれて、ぐったりしていて、鳴き声も出せないくらい弱っていた」


 コロが書斎に入ってきて、ノアの足元にそっと伏せる。


「拾い上げたら──手のひらに乗るくらい小さくて。でも心臓だけが動いていた。こんなに小さいのに、必死に生きようとしていた」


 ノアの手が、無意識にコロの頭に伸びる。コロの耳の裏を撫でながら、ノアは続けた。


「台所からミルクを盗んで、布に染み込ませて飲ませた。体を拭いて、乾いた布で包んで、自分の部屋に連れていった」


「ノア様が、七歳で」


「獣医の知識なんかなかった。ただ──この子を死なせたくなかった」


 ノアの声が、ほんのわずかに揺れる。


「母が死んだ日に命を拾ったんだ。あの子は──俺の最初の患者だった」


 首輪を見つめるノアの目に、月明かりが映り込んでいる。


「三日間は危なかった。ミルクを吐いて、震えて、何度も──もう駄目かと思った。でも四日目の朝に、尻尾を振った」


「助かったんですね」


「ああ。それから十二年生きた。大型犬にしては長い方だ」


 首輪の革がすり切れているのは、十二年間ずっとつけていたからか。


「あの子がいなかったら、俺は獣医にはならなかった」


 ノアが首輪を手に取る。親指で金具をなぞる。


「母の葬儀より、あの子の看病を選んだ俺を──父は叱らなかった」


「お父様が」


「一言だけ、『その子の名前を決めなさい』と言った」


 静寂の中で、コロがすうすうと寝息を立てている。


「何とつけたんですか」


「……リヒト」


「光、ですか」


「暗い日だった。母が死んで、葬式があって、誰もが泣いていた。あの日で一番明るかったのが──あの子犬の目だった」


 ノアが眼鏡をかけ直す。


「すまない。つまらない話だ」


「つまらなくなんかありません」


 語気が強くなってしまった。ノアがわずかに目を見開く。


「ノア様の原点なんでしょう。リヒトが、獣医になるきっかけ」


「……大げさだ」


「大げさじゃありません。命を拾って、十二年一緒に過ごして、それで獣医になった。素敵な話ですわ」


 ノアが黙る。


 月明かりが窓から差し込んで、書斎の床に白い四角を作っている。コロが寝返りを打って、ノアの足にぴったり体をくっつける。


「ヴィオレッタ」


「はい」


「お前は──なぜ動物が好きなんだ」


 不意の問いかけ。


 前世の記憶が蘇る。三浦はなとして過ごした二十三年間。小さい頃から犬を飼っていて、猫を拾っては親に怒られ、虫まで名前をつけて育てていた。ペットショップで働いたのは「毎日動物に会えるから」という動機が百パーセント。


 でもそれは言えない。この世界の設定では、実家の牧場で──。


「わたくしの家にも犬がいました」


 嘘ではない。前世の話だけど。


「小さい頃に亡くしたんです。そのとき──もっと一緒にいたかったって、毎日泣いて」


「……ああ」


「だからノア様のお気持ちはわかります。動物との時間は有限で、だからこそ一日も無駄にしたくない」


 ノアが長い沈黙の後に、ぽつりと言った。


「似ているな」


「え?」


「俺と──お前は」


 心臓が跳ねる。


 ノアが立ち上がる。首輪を机の引き出しにしまい、ランプの灯を落とす。


「もう寝ろ。明日は巡回がある」


「はい。おやすみなさい、ノア様」


「……ああ。おやすみ」


 書斎を出ると、コロが私の足元にすり寄ってきた。暗い廊下で、コロの体温だけがやわらかい。


 部屋に戻り、ベッドに入る。コロが例のごとく足元に丸くなる。


 目を閉じると、ノアの声が耳の奥で繰り返される。


 「あの子犬が、俺の最初の患者だった」


 あのとき、ノアの灰色の瞳に浮かんでいたのは──悲しみではなかった。愛おしさだ。十二年前に逝った子犬への、今も消えない愛おしさ。


 コロがくうん、と小さく鳴いて、私の足に鼻を押しつける。


「……ねえコロ」


 小声で呼びかける。


「リヒトって子、幸せだったと思う?」


 コロがばふっと尻尾で毛布を叩く。


 ──きっと幸せだったのだろう。あの手の温もりのそばで、十二年も。


 私は布団を顎まで引き上げて、目を閉じる。


 明日の巡回が楽しみだ。ノアの隣で、動物たちに会える。


 それだけで──まだ眠くない夜が、悪くなくなる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ