第10話「あの日の子犬」
夜更けだった。
眠れなくて、台所に水を飲みに行った帰り。廊下を歩いていたら、書斎の扉が細く開いていて、灯りが漏れていた。
覗くつもりはなかった。でもコロが書斎の前に座って、扉の隙間に鼻を押しつけている。くうん、と小さく鳴いたのが聞こえて。
ノアが書斎にいた。
机の前に座って、手にしているのは──古ぼけた首輪。小さな、子犬用の首輪。革がすり切れて、金具が錆びている。
「ノア様」
声をかけるか迷って、でもコロが尻尾を振って振り返ったから、もう遅い。
「……起きていたのか」
「眠れなくて。お水を飲みに」
「そうか」
ノアは首輪を机の上に置いた。隠す素振りはない。
「入れ」
書斎に入ると、古い革と紙の匂いがした。本棚には獣医学の分厚い本が並び、壁には動物の骨格図が貼ってある。机の上の首輪だけが、この部屋に似つかわしくないほど古びて、小さい。
「誰の首輪ですか」
「……昔の」
ノアが椅子に深く座り直す。眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「俺が七つのとき、母が死んだ」
唐突だった。
ノアが自分の過去を語るのを聞いたのは初めてだ。動物の話は饒舌にするけれど、自分のことは何一つ話さなかった人が、月明かりの書斎で──。
「病だった。長い間伏せっていて、最後は静かに逝った」
声は平坦。感情を排した、診断書を読み上げるような口調。
「葬儀の日、俺は屋敷を抜け出した。大人たちが泣いているのが嫌だったんだ。泣くくせに、母が生きていたときは見舞いにも来なかった連中が」
ノアの灰色の瞳が、首輪を見つめている。
「裏庭の茂みに子犬がいた」
「子犬」
「捨てられていた。段ボール──いや、この世界では木箱か。布に包まれて、ぐったりしていて、鳴き声も出せないくらい弱っていた」
コロが書斎に入ってきて、ノアの足元にそっと伏せる。
「拾い上げたら──手のひらに乗るくらい小さくて。でも心臓だけが動いていた。こんなに小さいのに、必死に生きようとしていた」
ノアの手が、無意識にコロの頭に伸びる。コロの耳の裏を撫でながら、ノアは続けた。
「台所からミルクを盗んで、布に染み込ませて飲ませた。体を拭いて、乾いた布で包んで、自分の部屋に連れていった」
「ノア様が、七歳で」
「獣医の知識なんかなかった。ただ──この子を死なせたくなかった」
ノアの声が、ほんのわずかに揺れる。
「母が死んだ日に命を拾ったんだ。あの子は──俺の最初の患者だった」
首輪を見つめるノアの目に、月明かりが映り込んでいる。
「三日間は危なかった。ミルクを吐いて、震えて、何度も──もう駄目かと思った。でも四日目の朝に、尻尾を振った」
「助かったんですね」
「ああ。それから十二年生きた。大型犬にしては長い方だ」
首輪の革がすり切れているのは、十二年間ずっとつけていたからか。
「あの子がいなかったら、俺は獣医にはならなかった」
ノアが首輪を手に取る。親指で金具をなぞる。
「母の葬儀より、あの子の看病を選んだ俺を──父は叱らなかった」
「お父様が」
「一言だけ、『その子の名前を決めなさい』と言った」
静寂の中で、コロがすうすうと寝息を立てている。
「何とつけたんですか」
「……リヒト」
「光、ですか」
「暗い日だった。母が死んで、葬式があって、誰もが泣いていた。あの日で一番明るかったのが──あの子犬の目だった」
ノアが眼鏡をかけ直す。
「すまない。つまらない話だ」
「つまらなくなんかありません」
語気が強くなってしまった。ノアがわずかに目を見開く。
「ノア様の原点なんでしょう。リヒトが、獣医になるきっかけ」
「……大げさだ」
「大げさじゃありません。命を拾って、十二年一緒に過ごして、それで獣医になった。素敵な話ですわ」
ノアが黙る。
月明かりが窓から差し込んで、書斎の床に白い四角を作っている。コロが寝返りを打って、ノアの足にぴったり体をくっつける。
「ヴィオレッタ」
「はい」
「お前は──なぜ動物が好きなんだ」
不意の問いかけ。
前世の記憶が蘇る。三浦はなとして過ごした二十三年間。小さい頃から犬を飼っていて、猫を拾っては親に怒られ、虫まで名前をつけて育てていた。ペットショップで働いたのは「毎日動物に会えるから」という動機が百パーセント。
でもそれは言えない。この世界の設定では、実家の牧場で──。
「わたくしの家にも犬がいました」
嘘ではない。前世の話だけど。
「小さい頃に亡くしたんです。そのとき──もっと一緒にいたかったって、毎日泣いて」
「……ああ」
「だからノア様のお気持ちはわかります。動物との時間は有限で、だからこそ一日も無駄にしたくない」
ノアが長い沈黙の後に、ぽつりと言った。
「似ているな」
「え?」
「俺と──お前は」
心臓が跳ねる。
ノアが立ち上がる。首輪を机の引き出しにしまい、ランプの灯を落とす。
「もう寝ろ。明日は巡回がある」
「はい。おやすみなさい、ノア様」
「……ああ。おやすみ」
書斎を出ると、コロが私の足元にすり寄ってきた。暗い廊下で、コロの体温だけがやわらかい。
部屋に戻り、ベッドに入る。コロが例のごとく足元に丸くなる。
目を閉じると、ノアの声が耳の奥で繰り返される。
「あの子犬が、俺の最初の患者だった」
あのとき、ノアの灰色の瞳に浮かんでいたのは──悲しみではなかった。愛おしさだ。十二年前に逝った子犬への、今も消えない愛おしさ。
コロがくうん、と小さく鳴いて、私の足に鼻を押しつける。
「……ねえコロ」
小声で呼びかける。
「リヒトって子、幸せだったと思う?」
コロがばふっと尻尾で毛布を叩く。
──きっと幸せだったのだろう。あの手の温もりのそばで、十二年も。
私は布団を顎まで引き上げて、目を閉じる。
明日の巡回が楽しみだ。ノアの隣で、動物たちに会える。
それだけで──まだ眠くない夜が、悪くなくなる。




