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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第9話「巡回診療の日」

ノアの巡回診療に同行することになった。


「足手まといにはなりませんわ」


「……別にいい。鞄を持て」


 ノアの診療鞄は想像以上に重かった。革の鞄の中に消毒液、包帯、縫合針、薬瓶がぎっしり詰まっていて、肩にずしりとくる。


「これを毎日持って歩いているんですか」


「慣れた」


 朝の七時に出発して、最初の患者──患畜は農家の牛だった。


 広い牛舎に入ると、干し草と牛糞の匂いが鼻を突く。王都では絶対に嗅げない匂い。でも不思議と嫌ではない。前世のペットショップのバックヤードに比べれば、はるかにスケールが大きいだけだ。


「ノア先生、うちの牛がまた食欲がなくて」


 農夫のおじさんが困った顔で牛の横を指す。大きな乳牛が、じっと動かずに立っている。


 ノアが牛のそばに行き、腹に手を当てる。


「反芻が止まっている。胃の動きが弱い」


 聴診器を当てて、目を閉じる。ノアの表情が変わる。無口で無愛想なあの顔が、集中と真剣さで引き締まっている。


「第一胃にガスが溜まっている。穿刺する」


 太い針を牛の脇腹に刺す。ぷしゅう、とガスが抜ける音。牛がぶるっと体を震わせて、もおおと低く鳴いた。


「驚いたでしょうけど、もう大丈夫よ」


 私が牛の顔の横で首を撫でると、大きな目がゆっくり瞬きをする。牛の体温は羊より高くて、首の毛は短くてざらついている。


「飼料を変えろ。乾草の割合を増やして、穀物を減らせ」


 ノアが農夫に指示を出す。声は素っ気ないけれど、内容は的確だ。


「ありがとうございます、先生。いつも助かって──」


「次」


 農夫の感謝を遮って、もう歩き出している。


 ──愛想がない。本当に愛想がない。


 でも農夫のおじさんは苦笑いしながら「いつもあんなだよ」と私に耳打ちしてくれた。もう慣れているらしい。


 二軒目。猟師の家。


「先生、猟犬の足が腫れてるんだ」


 がっしりした体格の猟師が、痩せた猟犬を抱えて出てきた。右前足がぱんぱんに膨らんでいる。


 ノアがしゃがんで足を診る。


「蜂に刺された。アレルギー反応が出ている」


 薬を注射する。猟犬がきゃんと鳴いて、猟師の腕の中でもがく。


「押さえていてくれ」


 猟師に指示を出しながら、ノアが犬の足を冷やすための布を濡らす。


 そのとき──。


 ノアが犬の頭を撫でた。


 注射の痛みで興奮している犬の、額を、ゆっくりと。


「もう終わった。頑張ったな」


 低い声。穏やかな声。食堂のぶっきらぼうとは別人の声。


 犬がくうん、と鼻を鳴らして、ノアの手に顔を押しつける。


 ──笑った。


 ノアが、笑っている。


 口角がほんの少し上がって、眼鏡の奥の灰色の瞳がやわらかく細められて、頬の筋肉がわずかに緩んでいる。


 それは世間で言う「笑顔」とは程遠い、ごくごく微かな変化だけれど。


 ──胸が、どくん、と鳴る。


 またか。この前の手当てのときと同じ。心臓が勝手に騒ぎ出す。


 三軒目。村外れの一軒家。


 老婆が猫を抱いて待っていた。年老いた三毛猫。毛がぼさぼさで、目やにがこびりついている。


「先生、タマがまた目をしょぼしょぼさせてね」


「見せてくれ」


 ノアが老婆から猫を受け取る。猫の目を覗き込み、まぶたを開いて確認する。


「結膜炎だ。目薬を出す。朝晩、差してやってくれ」


「あいよ。……先生、この子もう十八だよ。長くないかねえ」


 老婆の声が少し震える。


 ノアが猫を抱いたまま、しばらく黙っていた。


「十八年生きた。それだけで、立派だ」


「そうかい……」


「目薬を続けろ。食欲があるうちは大丈夫だ。美味いものを食べさせてやれ」


 老婆がほっとした顔で猫を受け取る。猫が老婆の腕の中でゴロゴロと喉を鳴らす。


 その音を聞きながら、ノアが目薬の使い方を丁寧に──本当に丁寧に──説明している。いつもの「次」の一言で切り上げるノアとは違う。老婆に何度も繰り返して、理解できたか確認している。


 老婆の家を出たあと、ノアに聞いた。


「あの猫、大丈夫ですか」


「腎臓が弱っている。あと一年持つかどうか」


 淡々と。でも、さっき老婆に「大丈夫だ」と言った声には嘘がなかった。


「嘘をついたのですか」


「嘘じゃない。食欲があるうちは大丈夫だ。それは本当だ」


 ノアが歩きながら言った。


「獣医は治せないものも診る。治せなくても、穏やかに過ごす手伝いはできる」


 その横顔に、昼の光が当たっている。精悍で、無表情で、でも目の奥に静かな覚悟がある。


 ──この人は、すごい人だ。


 王都の社交界では「変人」と笑われた。でもこの領地では、ノアを頼りにしている人がたくさんいる。農夫も猟師も老婆も、みんなノアを信頼している。


 ノアが人間に見せる顔はぶっきらぼうで無愛想だけれど──動物を介して、ちゃんと人とつながっている。


「ノア様」


「なんだ」


「今日、同行させてくださってありがとうございます」


「礼は不要だ。鞄を持ってくれて助かった」


 そっけない返事。でも、言葉の奥にほんのわずかな温かみを感じ取る。


 帰り道、ノアが急に立ち止まった。


「ヴィオレッタ」


「はい」


「来週も来るか」


 え。


「巡回に。鞄持ちとして」


「……ぜひ」


 声が裏返った。恥ずかしい。


 ノアが前を向いて歩き出す。耳が──やっぱり少し赤い。


 館に戻ると、コロが跳びついてきた。ミルクが廊下の奥からちらりとこちらを見て、ゼフィルが中庭の止まり木から首を傾げている。


 いつもの光景。いつもの動物たち。


 でも今日は、隣を歩く人の横顔が──ちょっとだけ、違って見える。


 いけない。これは、もふもふ目当てで来たはずなのに。


 想定外の感情が芽生え始めている。

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