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悪役令嬢の婚約者は獣医でした。毎日もふもふしています  作者: 夜凪 蒼


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第0話「辺境行きの令嬢」

「ヴィオレッタ・クランツ公爵令嬢。貴女の婚約を破棄する」


 王太子殿下の声が、大広間に響きわたる。


 周囲のご令嬢方がひそひそと囁き合い、貴族たちが同情とも軽蔑ともつかない視線を向けてくる。まあ、そうでしょうとも。悪役令嬢がヒロインをいじめた罰として婚約破棄。王道展開すぎて逆に清々しい。


 ──だって私、知ってるもの。この世界が乙女ゲームだって。


 前世の名前は三浦はな。二十三歳。ペットショップ店員。推しはゴールデンレトリバーとスコティッシュフォールド。趣味は保護猫カフェ巡り。ある日、仕事帰りに信号無視のトラックに轢かれて──気づいたら公爵令嬢になっていた。


 王太子殿下がまだ何か仰っている。


「──よって、辺境のラウシェンベルク子爵家への降嫁を命ずる」


 辺境。


 ラウシェンベルク。


 記憶をひっくり返す。ゲームでは名前すら出てこなかった辺鄙な領地。攻略対象は一人もいないし、イベントもない。つまりゲーム的には完全なハズレ。


 ──でも。


 辺鄙な領地ということは、自然が豊か。自然が豊かということは。


「なお、ラウシェンベルク子爵は獣医である」


 獣医。


 じゅ、う、い。


 心臓が跳ねあがる。脳内で花火が上がる。いけない、顔に出そう。ここは悲劇のヒロイン──いや悪役令嬢として、もっとこう、打ちひしがれた表情をしなければ。


「……かしこまりました、殿下」


 深々と頭を下げながら、私は必死に口角を抑えていた。


 獣医の元に嫁ぐ。それはつまり──動物がいる。たくさん。きっとたくさん。


 大広間を退出する足取りが軽い。自分でもわかるくらい軽い。横を通り過ぎた侍女が不思議そうに見ていたけれど、気にしている場合ではない。


 控えの間で父上が待っていた。


「ヴィオレッタ、すまない。辺境など……」


「お父様、お気になさらず。わたくし、前向きに参ります」


「前向き……?」


 父上が目を丸くしている。そりゃそうだ。断罪されたばかりの娘が前向きなわけがない。


「あの、辺境には……どのような動物が」


「……なぜそこを聞く」


「いえ、その。領地の産業を把握しておくのは嫁として当然かと」


 我ながら完璧な言い訳である。父上の目が泳いでいるのは気にしない。


「……お前、泣かないのか」


「泣きませんわ。むしろ──」


 むしろ、内心では踊り出したい。辺境。獣医。この二つの単語だけで、私の人生は大勝利ではないか。


「……強い子に育ったな」


 お父様、方向性が違います。強いんじゃなくて、もふもふへの執念が人一倍なだけです。


 父上は困惑しながらも教えてくれた。牧羊が盛んで、馬と牛がいて、子爵は鷹を飼っているらしい。


 羊。馬。牛。鷹。


 もふもふ、もふもふ、もふもふ、かっこいい。


 控えの間の窓から風が吹き込んで、庭園のラベンダーの甘い香りが鼻をくすぐる。いい風だ。出発は三日後と聞いている。三日。たった三日で、私は動物パラダイスに行ける。


 婚約破棄が、こんなにもありがたいなんて。


 出発までの三日間は準備に充てた。荷物は最小限。ドレスより動きやすい服を多めに詰める。侍女が「お嬢様、舞踏会用のドレスは……」と聞いてきたけれど、辺境に舞踏会はなかろう。代わりに──こっそり忍ばせたのは、前世の記憶にある犬用ブラシに似た馬毛のブラシ。動物の毛並みを整えるのに使えるはず。


 令嬢の嫁入り道具に動物用ブラシ。誰にも言えない秘密がまた一つ増えた。


 三日後、馬車に乗り込んだ。


 御者台から馬の嘶きが聞こえる。革張りの座席は堅くて腰に来るけれど、窓の外の景色がどんどん緑に変わっていくのを見ていたら、そんなことはどうでもよくなる。


 街を抜け、平原を越え、山道に差しかかると空気が変わった。土と草の匂い。湿った風。鳥の声が近い。


 王都では嗅いだことのない、生きている匂いだ。


 馬車が揺れるたびに、革座席がきしむ。膝に載せた鞄の中で、こっそり忍ばせた馬毛のブラシがことこと音を立てる。持ってきてよかった。


「ヴィオレッタ様、間もなくラウシェンベルク領でございます」


 御者の声に、窓から身を乗り出す。


 丘の向こうに広がる緑の牧草地。白い点々は──羊だ。あれ、全部、羊。


「まあ」


 と、令嬢らしく呟いてみせる。


 心の中では「うわあああ羊! 羊がいっぱい! もっふもふ!」と絶叫している。


 馬車が丘を越えると、小さな館が見えてきた。王都の屋敷に比べれば質素で、石壁は苔むしていて、屋根の上にカラスが一羽とまっている。


 でも、館の前庭で──大きな犬が尻尾を振っていた。


 茶色い毛。垂れた耳。ぶんぶん回る尻尾。全身で「来た! 誰か来た! 嬉しい!」と叫んでいる。


 ああ、もう。


 無理。令嬢の顔を保つのが無理。頬の筋肉が勝手に緩んでいく。


 ここでの暮らしが、とんでもなく楽しくなる予感しかしない。


 馬車が門をくぐった瞬間、犬が全速力で駆け寄ってくる。


 ──さあ、新しい生活の始まりだ。

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