追放令嬢、三年後に宰相の妻として帰ってくる
本作は、全五章で構成された異世界恋愛短編小説です。
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
一 「追放の夜」
シャンデリアの光が、眩しかった。
アンナ・ライデルは広間の中央に立ち、その光の下で静かに息を吐いた。
絹の靴が大理石の床を踏んでいる。硬い。冷たい。でも揺れない。今この瞬間、確かなのはその感触だけだった。
呼ばれたのだ。名前を呼ばれて、ここまで歩いてきた。
広間を埋め尽くした貴族たちの視線が、全部こちらに向いている。弦楽が止まっていた。誰も笑っていない。誰も話していない。まるで、これから起きることを知っているような静けさだった。
壇上にオリヴィエ第三王子が立っていた。
隣に、見知った顔があった。
ベルナ・クロッセル伯爵令嬢。蜂蜜色の髪に緑の瞳。柔らかく微笑んで、じっと前を向いている。
アンナはそれを見た。
胸の奥で、何かがひとつ、静かに落ちた。
「皆に伝えることがある」
オリヴィエの声が広間に響いた。
「アンナ・ライデルとの婚約を、本日をもって解消する」
静寂が、深くなった。
オリヴィエは続けた。壇上から見下ろしながら、整然と、まるで報告書を読み上げるように言葉を並べていく。令嬢には王家の品格にふさわしい振る舞いが見られなかった。社交の場における態度に問題があった。王妃としての資質を、三年間で示せなかった。国のためにやむを得ない判断だ。
言葉が降ってくる。
冷たく、淡々と。
アンナは聞いていた。
聞きながら、三年間の記憶が積み重なっていった。走馬灯ではなかった。走馬灯は流れるものだ。これは、石が積まれるようなものだった。一つ、また一つと。
殿下がベルナ令嬢と笑い合うのを遠くから見た夜。
「王妃にはもっと華やかさが必要だ」と言われた午後。
「お前はどこか足りない」と言われるたびに「精進いたします」と頭を下げた朝。
重なる。重なる。重なる。
(ああ)
とアンナは思った。
そういうことか。
怒りではなかった。爆発でもなかった。ただ、三年間をかけて積み上げてきた何かが、音もなく、静かに、形を失っていくような感覚があった。
アンナはゆっくりと息を吸った。
肺の奥まで、冷たい空気を入れた。
吐く。
吐き切ったとき、不思議なほど、身体が静かになった。
「以上だ」
オリヴィエが締めくくった。
広間が、一瞬、凍った。
アンナは動いた。
ゆっくりと、深く、腰を折った。
「承知いたしました」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。
頭を上げた。オリヴィエを見た。三年間、この人の隣に立とうとしていた。その三年間が、今終わった。
くるりと背を向けた。
走らなかった。歩くには速すぎたが、走るには遅かった。ただ、広間の出口に向かって、真っ直ぐ歩いた。
貴族たちのざわめきが、遠かった。
扉を開けた。
閉めた。
廊下に出た瞬間、アンナは壁に手をついた。
膝が、かすかに震えていた。
泣かなかった。泣いたら止まらなくなる気がした。だから泣かなかった。
手のひらが、冷たい石壁を押さえていた。それだけが、今の自分を支えていた。
人混みの端で、一人の男がアンナの背中を目で追っていた。
黒い軍服。静かな目。
アンナは、その視線に気づかなかった。
◇
三日後、アンナは実家を出た。
婚約破棄は、事実上の追放である。
ライデル伯爵家は慌ただしかった。「王子との婚約が破棄された」という事実が家に与えた打撃は大きく、父は書斎に閉じこもり、母は侍女たちに何かを矢継ぎ早に指示していた。誰もアンナに直接話しかけなかった。
荷物は少なかった。
着替えと、読みかけの本が数冊。薬草の小さな図鑑。それだけだった。
馬車が来た。辺境の修道院に向かう馬車だ。「しばらく静養を」と父が手紙に書いた。静養、という言葉の意味はわかっていた。遠ざけたいのだ。見えないところに置いておきたいのだ。
アンナは馬車に乗った。
誰も見送らなかった。
馬車の窓から、屋敷が遠ざかっていくのを見ていた。
泣かなかった。
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二 「修道院の三年間」
修道院は、山のふもとにあった。
石造りの古い建物で、周りを木々に囲まれている。春には野の花が咲き、冬には雪が積もる。王都の華やかさとは、何もかもが違う場所だった。
馬車を降りると、一人の老女が出迎えた。
白い修道服。小柄だが背筋が伸びている。皺の多い顔に、思ったより鋭い目をした人だった。
「アンナ・ライデルさんかい」
「はい」
「泣いてもいいよ。誰も見てないから」
アンナは面食らった。
そして、気づいたら泣いていた。
声は出なかった。ただ、涙が頬を伝った。三日間、一滴も出なかったものが、この一言でほどけた。
修道院長マグダは何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。それだけだった。
しばらくして、アンナは袖で目を拭った。
「……失礼しました」
「いいや」とマグダは言った。「ご飯、食べたかい」
「……あまり」
「じゃあ食べな。泣くにも体力がいる」
そうして修道院での暮らしが始まった。
朝は早かった。夜明け前に起きて、礼拝に出て、朝食の準備を手伝う。午前中は畑仕事か、薬草の手入れ。午後は縫い物か、薬の調合の見習い。夜は早く眠る。
最初の一週間は、何をしても手が震えた。
二週間目には、震えが止まった。
一ヶ月後には、薬草の名前を二十種類覚えた。
アンナは自分でも驚いた。こんなにも、体を動かすことに向いていたのか、と。王都で「令嬢」として生きていた三年間、自分は何をしていたのだろう。笑顔を作って、言葉を選んで、誰かの隣に正しく立つことだけを考えていた。
ここでは、そういうものが何もいらなかった。
花が咲けば摘んだ。土が乾けば水を撒いた。腹が減れば食べた。眠ければ眠った。それだけだった。
三ヶ月が過ぎる頃には、アンナは修道院の暮らしに馴染んでいた。
その男が来たのは、冬の初めだった。
修道院に「療養中の客人」が訪れることは、時折あった。王都の喧騒から離れたい貴族が、静かな場所を求めてやって来る。マグダ院長はそういう者たちを断らなかった。「困っている人間を追い返すのは修道院の仕事じゃない」が口癖だった。
その男は、馬で一人で来た。
黒い外套。荷物は少ない。従者もいない。年齢はアンナとそう変わらないように見えたが、顔に疲労が滲んでいた。目の下に薄い隈がある。頬が少し削げている。
アンナは庭で薬草を干していて、その男が到着するのを遠くから見た。
マグダ院長が出迎えて、客室に案内した。
特に何も思わなかった。客人が来ることは珍しくない。
翌朝、アンナは客室の扉の前を通った。
朝食の残りのパンと、温めたスープがあった。アンナは何も考えず、布巾に包んで扉の前に置いた。
特に理由はなかった。ただ、昨日の男が食事に来ていなかったのを思い出しただけだ。
昼に通ると、パンとスープはなくなっていた。
翌朝も置いた。
また、なくなっていた。
それが習慣になった。
三日目の朝、扉が開いた。
男が立っていた。
「なぜ持ってくる」
低い声だった。怒っているわけではない。ただ、事実を確認しているような、そういう声だった。
「あなたが食事に来ていないからです」
「余計なことだ」
「そうかもしれません」
アンナは言った。
「でも、食べていないのは見ていてよくないので」
男は少し間を置いた。
「……それだけか」
「それだけです」
男はまた黙った。何かを考えているような顔だった。
「礼は言わないぞ」
「構いません」
「お人好しだな」
「そうでもないと思いますが」
男は何も言わなかった。扉を閉めた。
次の朝から、男は食堂に来るようになった。
男の名前はフェリクスといった。
素性は話さなかった。「しばらく休んでいる」とだけ言った。アンナも聞かなかった。修道院に来る人間にはそれぞれ事情がある。聞かれたくないことは聞かない。それがここの暗黙のならわしだった。
会話は少なかった。
食堂で隣になっても、ほとんど話さなかった。ただ、食事をして、各自の仕事に戻る。それだけだった。
でも少しずつ、言葉が増えた。
ある朝、フェリクスがスープの椀を持ったまま言った。
「これ、何の薬草が入っている」
「ハーブと、山草を少し。疲れが取れやすくなります」
「……なるほど」
次の日。
「昨日より顔色がいいですよ」とアンナが言った。
「そうか」
「よく眠れましたか」
「……初めて眠れた気がした」
フェリクスはそれだけ言って、またスープを飲んだ。
アンナはそれ以上何も言わなかった。
冬が深くなるにつれ、フェリクスの顔から疲労が少しずつ薄れていった。
頬の肉が戻ってきた。目の隈が消えた。食事を残さなくなった。
ある夕方、薬草を仕分けしていたアンナの隣に、フェリクスが来て座った。
「手伝うことはあるか」
「……これは慣れた手でないと難しいので」
「では見ていてもいいか」
アンナは少し驚いたが、「どうぞ」と言った。
フェリクスは黙って、アンナの手元を見ていた。邪魔にならない距離で。何かを言うわけでもなく、ただ、いた。
不思議と、嫌ではなかった。
しばらくして、フェリクスが言った。
「お前は、なぜここにいる」
アンナは手を止めなかった。
「……いろいろあって、王都を離れることになりました」
「いろいろ」
「婚約が、なくなりまして」
少し間があった。
「……そうか」
「あなたこそ、なぜここに」とアンナは聞いた。
「しばらく、静かな場所が必要だった」
「王都は静かではないですか」
「今は、そうだ」
それ以上の説明はなかった。
アンナも追わなかった。
二人の間に、静かな時間が流れた。火が爆ぜる音。外の風の音。それだけが聞こえた。
季節が変わった。
冬が終わり、春になった。
野の花が咲いて、畑の土が柔らかくなった。アンナは畑仕事をしながら、いつの間にか、修道院の暮らしが好きになっていることに気づいた。
春が夏になった。
夏の午後、木陰でフェリクスと二人で本を読んでいた。読んでいた、というより、アンナが読んでいて、フェリクスが隣で目を閉じていた。眠っているのか、考えているのかわからなかった。
「面白いか」とフェリクスが目を閉じたまま言った。
「薬草の配合の本です。面白いですよ」
「……そういう本を読むのか」
「王都にいた頃は、こういう本は読めませんでした」
「なぜ」
「読むべき本が、別にたくさんありましたから。礼法書とか、歴史書とか」
「好きだったか、そういうものが」
アンナは少し考えた。
「嫌いではなかったですが……自分で選んだ本ではなかったので」
フェリクスが目を開いた。
「今は、自分で選んでいるか」
「はい」
「それはいいことだ」
アンナは本に目を落としたまま、少し笑った。
夏が秋になった。
秋の収穫のとき、マグダ院長がアンナに言った。
「あんた、最近よく笑うようになったね」
「……そうですか」
「来た頃は笑顔が作り物だったよ。今は違う」
アンナは答えなかった。
代わりに、手元の林檎をひとつ、マグダに渡した。
「これは本物の笑顔ですか」
「まだちょっと照れてるね」とマグダは笑った。「でも本物だよ」
秋が深まる頃、フェリクスの表情が変わった。
遠くを見ることが増えた。何かを考えている顔。修道院に来た当初の疲れた顔とは違う、何かを決めようとしている顔だった。
ある夕方、アンナが庭を歩いていると、フェリクスが石壁に背をもたせて立っていた。
「…………」
空を見ていた。
アンナは隣に立った。
しばらく、二人とも黙っていた。
「戻らなければならない」
フェリクスが言った。
アンナは空を見たまま、うなずいた。
「そうですか」
「ここを出て行く。来週の頭になると思う」
「わかりました」
フェリクスがアンナを見た。
「……引き止めないのか」
「引き止めても仕方がないでしょう」
アンナは言った。
「あなたが戻らなければならない場所があるなら、そこに戻るべきです」
フェリクスは少し黙った。
「寂しくないか」
アンナは答えを探した。
正直に言えば、寂しかった。この三年間で、フェリクスが隣にいることが当たり前になっていた。朝食のとき、薬草仕事のとき、夕方の散歩のとき。言葉が少なくても、そこにいた。それが当たり前になっていた。
「……少し」
アンナはそれだけ言った。
フェリクスが空を見た。
「また来る」
「……修道院への来客は、いつでも歓迎です」
フェリクスが、かすかに口の端を上げた。
アンナはそれを初めて見た。
この人が笑うと、こういう顔になるのか、と思った。
出立の朝は、霧が出ていた。
フェリクスが馬に乗った。荷物は来たときと同じくらい少なかった。
マグダ院長が「また来なさい、無愛想さん」と言った。フェリクスが短くうなずいた。
アンナはフェリクスを見上げた。
「お体に気をつけて」
「ああ」
「よく食べて、よく眠ってください」
「……わかった」
フェリクスが手綱を引いた。馬が歩き始めた。
霧の中に消えていく背中を、アンナは見送った。
見えなくなっても、しばらくそこに立っていた。
また来る、と言っていた。
社交辞令かもしれない、とも思った。
でも──フェリクスは、一度も約束を破らなかった。ここにいた三年間、「明日また来る」と言ったら来た。「夕方に話す」と言ったら来た。言ったことは、全部やった。
だから多分、また来るのだ。
アンナは霧の中を見つめて、それだけを思った。
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三 「三年後の王都」
正式な手紙が届いたのは、それから三ヶ月後のことだった。
差出人の名前を見て、アンナは三度読み返した。
フェリクス・ヴォルテン。
ヴォルテン、という名前には聞き覚えがあった。王国の宰相家、ヴォルテン侯爵家。
アンナは手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。
マグダ院長が覗いてきた。
「どうしたね」
「……あの、療養されていた方から手紙が」
「ああ、あの無愛想な病人ね。何だって」
「王都に来てほしい、と。婚約の申し込みをしたい、と……」
マグダが手紙を奪って読んだ。
しばらくして、ぷっと吹き出した。
「ほら見なさい」
「何がですか」
「あの人、ずっとあんたのことが好きだったじゃないか。三年間も毎日一緒にいて、わからなかったのかい」
「……そんな、わかりませんでした」
「あんたは鈍いねえ」とマグダは笑った。「でもそれが良かったんだと思うよ。好かれてるってわかってたら、きっと違う顔をしてた」
アンナは手紙を受け取った。
もう一度読んだ。
フェリクスの文字は、話し方によく似ていた。無駄がなく、飾りがなく、ただそこに言いたいことだけがあった。
アンナは窓の外を見た。
冬の空が、青かった。
王都への道は長かった。
馬車の中で、アンナはずっと窓の外を見ていた。
三年前、この道を逆向きに走った。追いやられて、誰にも見送られなかった。あの日の馬車の窓から見た景色を、まだ覚えている。
今は違う。
それだけは、確かだった。
王都の門が見えてきた。
アンナは一度、深く息を吸った。
吐いた。
大丈夫だ、と思った。
フェリクスは王都の外れに借りた屋敷で待っていた。
馬車が止まり、扉が開き、アンナが降りると、フェリクスが玄関の前に立っていた。
黒い上着。王都の格式ある衣装。修道院で着ていた外套とは違う、きちんとした服だった。
アンナは彼を見た。
顔色がよかった。頬に肉がついていた。目の下に隈がなかった。修道院に来た初日の、あの疲れ果てた顔が嘘のようだった。
「来たか」
「……はい」
「長旅だった。疲れているだろう、中へ」
屋敷に入ると、お茶の準備がしてあった。フェリクスが自分でポットを持ち上げようとして、少し手間取った。アンナは思わず笑った。
「なんだ」
「いえ、宰相閣下がお茶を注ぐのかと思いまして」
フェリクスが一拍置いた。
「……その話をしなければならないな」
「はい」
二人は向かい合って座った。
フェリクスがゆっくりと話した。
本当の名前はフェリクス・ヴォルテン。現国王に仕える宰相。修道院に来る三ヶ月前、政敵の一派に命を狙われた。身を隠す必要があった。王都から離れた静かな場所を求めて、修道院にたどり着いた。
「身分を隠して申し訳なかった」
「いえ」
アンナは言った。
「あなたが誰であっても、私がしたことは変わりません。食事を置いたのは、あなたが食べていなかったからです。それだけです」
フェリクスが少し間を置いた。
「……そういうところだ」
「何がですか」
「お前は、何も期待しない目で私を見た」
アンナは少し首を傾けた。
「それが、初めてだった」
フェリクスが続けた。
「宰相という立場にいると、人の目に何かが乗っている。期待、打算、恐れ、あるいは媚び。そういうものが、いつも目に乗っている。お前の目には、それがなかった」
「……ただの修道院の手伝いでしたから」
「それでいい」
フェリクスがアンナを見た。
「だから、隣にいてほしい」
静かな言葉だった。飾りがなかった。
アンナはしばらく黙っていた。
「……一つ聞いてもいいですか」
「何でも」
「修道院で食事を全部食べるようになった日のことを、覚えていますか」
フェリクスが少し考えた。
「……二週間目の頃か。スープが変わった日だ」
「はい。ハーブを変えました。あなたの顔色を見て、少し配合を変えたんです」
「なぜその話を」
「あの日から少しずつ、顔色が戻っていって」
アンナは少しためらった。
「……嬉しかったんです。食べてもらえると、嬉しかった」
フェリクスが黙った。
「それが、私なりの答えです」
長い沈黙があった。
フェリクスがアンナを見た。その目が、修道院で時折見せた、何かをほどいたような顔をした。
「……よかった」
ひと言だった。
でも、それで十分だった。
翌日、フェリクスがもう一つの話をした。
「アンナ、お前の婚約破棄について」
アンナは静かにフェリクスを見た。
「政敵を排除した際に、いくつかの書類が出てきた。オリヴィエ殿下とベルナ令嬢に関するものだ」
「……何ですか、それは」
「三年前の夜会でお前が追放された理由。お前が『王家の品格を損なった』とされた根拠。全部、作られたものだった」
アンナは動かなかった。
「ベルナ令嬢の侍女の証言書。日付の改ざん。証人への工作。それを取りまとめたのは、ベルナ令嬢とその父親だった。オリヴィエ殿下は全部知って、乗った」
静かな声で、フェリクスは話し続けた。
アンナは聞いていた。
三年前のあの夜、自分が何も悪くなかったことを、今更聞かされている。
怒りが来るかと思った。
来なかった。
代わりにあったのは、静かな虚しさだった。三年間、自分のどこが悪かったのかをずっと考えてきた。礼儀が足りなかったのか。笑顔が作り物だったのか。どこかが足りなかったのか。考え続けて、答えが出なかった。答えがなかったからだ。最初から、何も悪くなかったから。
「……そうでしたか」
アンナは言った。
「ベルナ令嬢は半年前、詐欺行為が発覚して爵位を失っている。父親も処罰された。オリヴィエ殿下は、現在閑職に回されている」
「知りませんでした」
「知る必要もなかっただろう、修道院にいたなら」
そうだった。
アンナは修道院にいた。土を触って、薬草を育てて、毎朝スープを作って、フェリクスと言葉を交わして。そういう三年間を生きていた。
王都で何が起きていても、関係なかった。
「……不思議ですね」
アンナはポツリと言った。
「何が」
「悔しいとか、腹が立つとか、そういう感情が、あまり来ないんです。三年前のことなのに」
フェリクスが静かにアンナを見た。
「三年間で、変わったんだろう」
「そうかもしれません」
窓の外に、冬の光が差していた。
「もう終わったことだと、どこかで思っているのかもしれません」
アンナは窓を見ながら言った。
「……終わって、よかった」
フェリクスが短く言った。
「はい」
アンナもうなずいた。
「よかったです」
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四 「凱旋の夜会」
夜会は、春の始まりに開かれた。
宰相フェリクス・ヴォルテンと、その婚約者アンナ・ライデルの初めての公式同伴。それが今夜の意味だった。
馬車の中で、アンナはドレスの裾を整えた。
三年前の婚約披露の夜会が、頭をかすめた。あの夜も、こうして馬車の中で衣装を整えていた。あの頃と違うのは、今は隣に座っている人間が違うことだ。
フェリクスが前を向いたまま言った。
「緊張しているか」
「少し」
「そうか」
それだけだった。
アンナは笑った。この人は余計な慰めを言わない。「大丈夫だ」とも「心配するな」とも言わない。ただ、事実を確認する。それがこの人だった。
「フェリクス様は、緊張しないのですか」
「しない」
「なぜですか」
「お前が隣にいるから」
さらりと言った。
アンナはしばらく動けなかった。
「……その言い方は、ずるいです」
「そうか」
「はい、そうです」
フェリクスがわずかに口の端を上げた。
馬車が止まった。
王宮の大広間。三年前と同じ場所。同じシャンデリア。同じ白と金の装飾。
違うのは、アンナが一人で歩いていないことだった。
扉が開いた。
アンナはフェリクスの腕を取って、広間に入った。
広間がざわめいた。
最初は小さく。それがすぐに、波のように広がった。
「……ヴォルテン宰相閣下と、婚約者の方が」
「お相手は誰だ、あの令嬢は」
「ライデル家の……ライデル伯爵家の三女では?」
「え、あの方が? 三年前に婚約を解消された……」
「宰相閣下の婚約者として?」
ざわめきが広間を満たしていった。
アンナはそれを聞きながら、ただ前を向いて歩いた。
三年前、一人でこの広間を歩いた。追放されて、一礼して、扉に向かって歩いた。あの時の足の感触を、まだ覚えている。冷たくて、硬くて、それだけが確かだった。
今は、腕に温もりがある。
それだけで、世界が違って見えた。
広間の端で、オリヴィエ第三王子がいた。
アンナは最初、気づかなかった。気づく理由もなかった。
しかし向こうが気づいた。
オリヴィエの目が、アンナを捉えた。
その目に、何かが走った。驚愕。それから動揺。それから──アンナには名前をつけられない何か。
オリヴィエの隣に、かつてのような華やかさはなかった。ベルナ令嬢はいない。従者の数も少ない。本人の顔に、三年前の自信が薄れていた。
広間のどこかで、小さな声が聞こえた。
「……殿下、今はあのような立場に。閑職に回されたと伺いましたが」
「ベルナ令嬢の件でお立場が難しくなったとか……」
声はすぐに消えた。
アンナには聞こえていたが、何も感じなかった。
三年前の夜に腹を立てていた自分は、もういなかった。ここではなく、修道院の冬の朝に置いてきた。
夜会が進む中、アンナはフェリクスの隣で貴族たちと言葉を交わした。
三年前と同じ言葉遣いで、同じように笑った。でも、違った。あの頃の笑顔は仮面だった。今のは、違う。
「ライデル様、お久しぶりです」
知った顔の令嬢が近づいてきた。三年前、王都で何度か顔を合わせた相手だ。
「ご無沙汰しております」
「修道院にいらしたとお聞きして、心配しておりました。でもこうしてご壮健そうで……ヴォルテン閣下とのご婚約、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
令嬢が、少し声を落とした。
「……三年前のことは、私も言葉もありません。あの夜のことは、おかしいと思っていた方も多くて」
「ありがとうございます」
アンナは繰り返した。
「でも、あの三年間があって今があると思っていますので」
令嬢が少し目を潤ませた。アンナは大丈夫だ、という顔で笑った。
フェリクスが隣で黙って聞いていた。アンナの手にそっと触れた。それだけだった。
夜が深くなる頃だった。
アンナが一人で水を取りに移動したとき、背後から足音がした。
「アンナ」
その声を、アンナはすぐに知った。
振り返った。
オリヴィエが立っていた。
三年ぶりだった。
三年前より、老けて見えた。頬が張っていない。目に自信がない。かつてあの壇上に立って、整然と婚約破棄を告げた男と、同じ人間とは思えなかった。
「久しぶりだな」
「はい」
アンナは短く答えた。
「その……元気そうだな」
「おかげさまで」
「修道院にいたと聞いた。大変だったろう」
「いいえ。とても良い場所でした」
オリヴィエが少し目を逸らした。
「……あの時のことは、私も」
「失礼」
声が割り込んだ。
フェリクスが、静かにアンナの前に立った。いつの間に来たのか、気配もなかった。
オリヴィエが固まった。
「妻に用があるなら、私を通せ」
無表情だった。怒鳴らない。声を荒げない。ただ、静かに、そこに立っていた。
広間のざわめきが、そこだけ消えた。
アンナはオリヴィエを見た。
三年間、自分はこの人に怒っていた。いや、正確には、怒る気力もなかった。ただ、何かが削れていた。壁に手をついて、震える膝を支えていた夜のことを思い出す。
でも今は、何もなかった。
怒りも、恨みも、悔しさも。
全部、どこかに置いてきた。
「殿下」
アンナは言った。
「私は今、とても幸せです」
それだけだった。
他に言うことは、何もなかった。
フェリクスの腕を取って、歩き出した。
オリヴィエが何か言おうとした。口が開いた。でも声が出なかった。
アンナは振り返らなかった。
広間の少し離れた場所で、アンナはフェリクスの腕を取ったまま、足を止めた。
「……ありがとうございました」
「何が」
「前に立ってくれたので」
「お前の夫になる人間として、当然だ」
「まだ婚約中ですが」
「……それはそうだが」
フェリクスが少し眉を動かした。アンナはそれを見て、また笑った。
「あの……」とアンナは言った。
「何だ」
「『妻に用があるなら』と言ってくれましたね」
「……気が早かったか」
「いいえ」
アンナはフェリクスを見た。
「嬉しかったです」
フェリクスが、少し間を置いた。
「そうか」
それだけだった。
でも、耳まで赤くなっていた。
アンナはそれを黙って見ていた。
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五 「春の夜の帰り道」
夜会の帰り道、馬車の中は静かだった。
春の夜が窓の外に広がっている。王都の灯りが遠ざかっていく。
アンナは窓の外を見ていた。
肩の力が、いつの間にか抜けていた。
「疲れたか」
「少し。でも、良い疲れです」
「そうか」
しばらく、馬車の揺れる音だけが続いた。
「フェリクス様」
「何だ」
「今夜のことで、少し思い出したことがあって」
「三年前のことか」
「はい。あの夜、広間を出て、廊下で壁に手をついたんです。膝が震えていて」
フェリクスが黙って聞いていた。
「泣けなかったんです。泣いたら止まらなくなる気がして。だから泣かないようにして、それがずっと何か、固まっていたのかもしれなくて」
「……そうだったのか」
「修道院に着いた日、マグダ院長が『泣いてもいいよ、誰も見てないから』と言ってくれて、そこで初めて泣けたんです」
「マグダ院長らしい」
「そうなんです」とアンナは笑った。「あの方はいつも、ちょうどいい言葉を持っていて」
「感謝している」
「私もです」
また静かな時間が来た。
フェリクスが窓の外を向いたまま、低い声で言った。
「修道院で、毎朝扉の前にスープがあった」
「……はい」
「あれが一番、待ち遠しかった」
アンナは動かなかった。
「来た日は、眠れなかった。何もかもから逃げてきたのに、逃げきれていないような気がしていた。でも翌朝、扉の前にスープがあって」
フェリクスが少し間を置いた。
「……何も考えずに、ただそこに置いてあるものが、あの頃の私には一番、要るものだった」
アンナは何も言わなかった。
ただ、目が少し熱くなった。
「泣くな」とフェリクスが言った。
「……泣いていません」
「目が赤い」
「泣いていません」
フェリクスが小さく息を吐いた。
「ありがとう」
アンナは泣かなかった。泣かなかったが、何かがほどけていくような感覚があった。コルセットが緩むような。長い年月をかけて固まっていたものが、静かに溶けていくような。
「……どういたしまして」
ようやく、そう言えた。
馬車が揺れていた。
春の夜が続いていた。
アンナは窓の外を見た。
星が出ていた。
三年前の冬、修道院の庭でマグダ院長に泣かせてもらった夜も、こんな星空だった。フェリクスが「また来る」と言って霧の中に消えていった朝も、星が残っていた。
いろんなことがあった。
捨てられて、送り出されて、泣いて、土を触って、スープを作って、言葉を交わして、また王都に来て。
全部あって、今夜がある。
「……良かった」
アンナは呟いた。
「何が」とフェリクスが聞いた。
「全部です」
フェリクスが少し黙った。
「……そうだな」
その一言に、アンナは笑った。
やっぱり言葉が少ない人だった。でも、これでいい。この人と一緒なら、言葉が少なくても十分だと知っていた。三年間で、それを知っていた。
馬車が揺れていた。
春の夜が、どこまでも続いていた。
アンナは窓の外の星を見ながら、フェリクスの隣で静かに目を閉じた。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「追放令嬢、三年後に宰相の妻として帰ってくる」、いかがでしたか?
作者としては「もっとざまぁしてやれ!」と思いながら書いていたのですが、アンナが怒らない人なんですよね、根っこのところで。
スカッとした!と、少しでも思っていただけたなら、評価やコメントで教えていただけると飛び上がって喜びます。次の作品を書く力になります。本当に。
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております^^




