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短編小説

追放令嬢、三年後に宰相の妻として帰ってくる

作者: おでこ
掲載日:2026/02/26

本作は、全五章で構成された異世界恋愛短編小説です。


一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/



    一 「追放の夜」





 シャンデリアの光が、眩しかった。


 アンナ・ライデルは広間の中央に立ち、その光の下で静かに息を吐いた。


 絹の靴が大理石の床を踏んでいる。硬い。冷たい。でも揺れない。今この瞬間、確かなのはその感触だけだった。


 呼ばれたのだ。名前を呼ばれて、ここまで歩いてきた。


 広間を埋め尽くした貴族たちの視線が、全部こちらに向いている。弦楽が止まっていた。誰も笑っていない。誰も話していない。まるで、これから起きることを知っているような静けさだった。


 壇上にオリヴィエ第三王子が立っていた。


 隣に、見知った顔があった。


 ベルナ・クロッセル伯爵令嬢。蜂蜜色の髪に緑の瞳。柔らかく微笑んで、じっと前を向いている。


 アンナはそれを見た。


 胸の奥で、何かがひとつ、静かに落ちた。


「皆に伝えることがある」


 オリヴィエの声が広間に響いた。


「アンナ・ライデルとの婚約を、本日をもって解消する」


 静寂が、深くなった。


 オリヴィエは続けた。壇上から見下ろしながら、整然と、まるで報告書を読み上げるように言葉を並べていく。令嬢には王家の品格にふさわしい振る舞いが見られなかった。社交の場における態度に問題があった。王妃としての資質を、三年間で示せなかった。国のためにやむを得ない判断だ。


 言葉が降ってくる。


 冷たく、淡々と。


 アンナは聞いていた。


 聞きながら、三年間の記憶が積み重なっていった。走馬灯ではなかった。走馬灯は流れるものだ。これは、石が積まれるようなものだった。一つ、また一つと。


 殿下がベルナ令嬢と笑い合うのを遠くから見た夜。

 「王妃にはもっと華やかさが必要だ」と言われた午後。

 「お前はどこか足りない」と言われるたびに「精進いたします」と頭を下げた朝。


 重なる。重なる。重なる。


 (ああ)


 とアンナは思った。


 そういうことか。


 怒りではなかった。爆発でもなかった。ただ、三年間をかけて積み上げてきた何かが、音もなく、静かに、形を失っていくような感覚があった。


 アンナはゆっくりと息を吸った。


 肺の奥まで、冷たい空気を入れた。


 吐く。


 吐き切ったとき、不思議なほど、身体が静かになった。


「以上だ」


 オリヴィエが締めくくった。


 広間が、一瞬、凍った。


 アンナは動いた。

 ゆっくりと、深く、腰を折った。


「承知いたしました」


 自分の声が、思ったより落ち着いていた。

 頭を上げた。オリヴィエを見た。三年間、この人の隣に立とうとしていた。その三年間が、今終わった。


 くるりと背を向けた。


 走らなかった。歩くには速すぎたが、走るには遅かった。ただ、広間の出口に向かって、真っ直ぐ歩いた。


 貴族たちのざわめきが、遠かった。


 扉を開けた。


 閉めた。


 廊下に出た瞬間、アンナは壁に手をついた。


 膝が、かすかに震えていた。


 泣かなかった。泣いたら止まらなくなる気がした。だから泣かなかった。

 手のひらが、冷たい石壁を押さえていた。それだけが、今の自分を支えていた。


 人混みの端で、一人の男がアンナの背中を目で追っていた。


 黒い軍服。静かな目。


 アンナは、その視線に気づかなかった。





    ◇





 三日後、アンナは実家を出た。

 婚約破棄は、事実上の追放である。


 ライデル伯爵家は慌ただしかった。「王子との婚約が破棄された」という事実が家に与えた打撃は大きく、父は書斎に閉じこもり、母は侍女たちに何かを矢継ぎ早に指示していた。誰もアンナに直接話しかけなかった。


 荷物は少なかった。


 着替えと、読みかけの本が数冊。薬草の小さな図鑑。それだけだった。


 馬車が来た。辺境の修道院に向かう馬車だ。「しばらく静養を」と父が手紙に書いた。静養、という言葉の意味はわかっていた。遠ざけたいのだ。見えないところに置いておきたいのだ。


 アンナは馬車に乗った。


 誰も見送らなかった。


 馬車の窓から、屋敷が遠ざかっていくのを見ていた。


 泣かなかった。





────────────────────────────────────────────





    二 「修道院の三年間」





 修道院は、山のふもとにあった。


 石造りの古い建物で、周りを木々に囲まれている。春には野の花が咲き、冬には雪が積もる。王都の華やかさとは、何もかもが違う場所だった。


 馬車を降りると、一人の老女が出迎えた。


 白い修道服。小柄だが背筋が伸びている。皺の多い顔に、思ったより鋭い目をした人だった。


「アンナ・ライデルさんかい」


「はい」


「泣いてもいいよ。誰も見てないから」


 アンナは面食らった。


 そして、気づいたら泣いていた。


 声は出なかった。ただ、涙が頬を伝った。三日間、一滴も出なかったものが、この一言でほどけた。


 修道院長マグダは何も言わなかった。ただ、隣に立っていた。それだけだった。


 しばらくして、アンナは袖で目を拭った。


「……失礼しました」


「いいや」とマグダは言った。「ご飯、食べたかい」


「……あまり」


「じゃあ食べな。泣くにも体力がいる」


 そうして修道院での暮らしが始まった。




 朝は早かった。夜明け前に起きて、礼拝に出て、朝食の準備を手伝う。午前中は畑仕事か、薬草の手入れ。午後は縫い物か、薬の調合の見習い。夜は早く眠る。


 最初の一週間は、何をしても手が震えた。


 二週間目には、震えが止まった。


 一ヶ月後には、薬草の名前を二十種類覚えた。


 アンナは自分でも驚いた。こんなにも、体を動かすことに向いていたのか、と。王都で「令嬢」として生きていた三年間、自分は何をしていたのだろう。笑顔を作って、言葉を選んで、誰かの隣に正しく立つことだけを考えていた。


 ここでは、そういうものが何もいらなかった。


 花が咲けば摘んだ。土が乾けば水を撒いた。腹が減れば食べた。眠ければ眠った。それだけだった。


 三ヶ月が過ぎる頃には、アンナは修道院の暮らしに馴染んでいた。




 その男が来たのは、冬の初めだった。


 修道院に「療養中の客人」が訪れることは、時折あった。王都の喧騒から離れたい貴族が、静かな場所を求めてやって来る。マグダ院長はそういう者たちを断らなかった。「困っている人間を追い返すのは修道院の仕事じゃない」が口癖だった。


 その男は、馬で一人で来た。


 黒い外套。荷物は少ない。従者もいない。年齢はアンナとそう変わらないように見えたが、顔に疲労が滲んでいた。目の下に薄い隈がある。頬が少し削げている。


 アンナは庭で薬草を干していて、その男が到着するのを遠くから見た。


 マグダ院長が出迎えて、客室に案内した。


 特に何も思わなかった。客人が来ることは珍しくない。




 翌朝、アンナは客室の扉の前を通った。


 朝食の残りのパンと、温めたスープがあった。アンナは何も考えず、布巾に包んで扉の前に置いた。


 特に理由はなかった。ただ、昨日の男が食事に来ていなかったのを思い出しただけだ。


 昼に通ると、パンとスープはなくなっていた。


 翌朝も置いた。


 また、なくなっていた。


 それが習慣になった。


 三日目の朝、扉が開いた。


 男が立っていた。


「なぜ持ってくる」


 低い声だった。怒っているわけではない。ただ、事実を確認しているような、そういう声だった。


「あなたが食事に来ていないからです」


「余計なことだ」


「そうかもしれません」


 アンナは言った。


「でも、食べていないのは見ていてよくないので」


 男は少し間を置いた。


「……それだけか」


「それだけです」


 男はまた黙った。何かを考えているような顔だった。


「礼は言わないぞ」


「構いません」


「お人好しだな」


「そうでもないと思いますが」


 男は何も言わなかった。扉を閉めた。


 次の朝から、男は食堂に来るようになった。




 男の名前はフェリクスといった。


 素性は話さなかった。「しばらく休んでいる」とだけ言った。アンナも聞かなかった。修道院に来る人間にはそれぞれ事情がある。聞かれたくないことは聞かない。それがここの暗黙のならわしだった。


 会話は少なかった。


 食堂で隣になっても、ほとんど話さなかった。ただ、食事をして、各自の仕事に戻る。それだけだった。


 でも少しずつ、言葉が増えた。


 ある朝、フェリクスがスープの椀を持ったまま言った。


「これ、何の薬草が入っている」


「ハーブと、山草を少し。疲れが取れやすくなります」


「……なるほど」


 次の日。


「昨日より顔色がいいですよ」とアンナが言った。


「そうか」


「よく眠れましたか」


「……初めて眠れた気がした」


 フェリクスはそれだけ言って、またスープを飲んだ。


 アンナはそれ以上何も言わなかった。




 冬が深くなるにつれ、フェリクスの顔から疲労が少しずつ薄れていった。


 頬の肉が戻ってきた。目の隈が消えた。食事を残さなくなった。


 ある夕方、薬草を仕分けしていたアンナの隣に、フェリクスが来て座った。


「手伝うことはあるか」


「……これは慣れた手でないと難しいので」


「では見ていてもいいか」


 アンナは少し驚いたが、「どうぞ」と言った。


 フェリクスは黙って、アンナの手元を見ていた。邪魔にならない距離で。何かを言うわけでもなく、ただ、いた。


 不思議と、嫌ではなかった。


 しばらくして、フェリクスが言った。


「お前は、なぜここにいる」


 アンナは手を止めなかった。


「……いろいろあって、王都を離れることになりました」


「いろいろ」


「婚約が、なくなりまして」


 少し間があった。


「……そうか」


「あなたこそ、なぜここに」とアンナは聞いた。


「しばらく、静かな場所が必要だった」


「王都は静かではないですか」


「今は、そうだ」


 それ以上の説明はなかった。


 アンナも追わなかった。


 二人の間に、静かな時間が流れた。火が爆ぜる音。外の風の音。それだけが聞こえた。




 季節が変わった。


 冬が終わり、春になった。


 野の花が咲いて、畑の土が柔らかくなった。アンナは畑仕事をしながら、いつの間にか、修道院の暮らしが好きになっていることに気づいた。


 春が夏になった。


 夏の午後、木陰でフェリクスと二人で本を読んでいた。読んでいた、というより、アンナが読んでいて、フェリクスが隣で目を閉じていた。眠っているのか、考えているのかわからなかった。


「面白いか」とフェリクスが目を閉じたまま言った。


「薬草の配合の本です。面白いですよ」


「……そういう本を読むのか」


「王都にいた頃は、こういう本は読めませんでした」


「なぜ」


「読むべき本が、別にたくさんありましたから。礼法書とか、歴史書とか」


「好きだったか、そういうものが」


 アンナは少し考えた。


「嫌いではなかったですが……自分で選んだ本ではなかったので」


 フェリクスが目を開いた。


「今は、自分で選んでいるか」


「はい」


「それはいいことだ」


 アンナは本に目を落としたまま、少し笑った。




 夏が秋になった。


 秋の収穫のとき、マグダ院長がアンナに言った。


「あんた、最近よく笑うようになったね」


「……そうですか」


「来た頃は笑顔が作り物だったよ。今は違う」


 アンナは答えなかった。


 代わりに、手元の林檎をひとつ、マグダに渡した。


「これは本物の笑顔ですか」


「まだちょっと照れてるね」とマグダは笑った。「でも本物だよ」




 秋が深まる頃、フェリクスの表情が変わった。


 遠くを見ることが増えた。何かを考えている顔。修道院に来た当初の疲れた顔とは違う、何かを決めようとしている顔だった。


 ある夕方、アンナが庭を歩いていると、フェリクスが石壁に背をもたせて立っていた。


「…………」


 空を見ていた。


 アンナは隣に立った。


 しばらく、二人とも黙っていた。


「戻らなければならない」


 フェリクスが言った。


 アンナは空を見たまま、うなずいた。


「そうですか」


「ここを出て行く。来週の頭になると思う」


「わかりました」


 フェリクスがアンナを見た。


「……引き止めないのか」


「引き止めても仕方がないでしょう」


 アンナは言った。


「あなたが戻らなければならない場所があるなら、そこに戻るべきです」


 フェリクスは少し黙った。


「寂しくないか」


 アンナは答えを探した。


 正直に言えば、寂しかった。この三年間で、フェリクスが隣にいることが当たり前になっていた。朝食のとき、薬草仕事のとき、夕方の散歩のとき。言葉が少なくても、そこにいた。それが当たり前になっていた。


「……少し」


 アンナはそれだけ言った。


 フェリクスが空を見た。


「また来る」


「……修道院への来客は、いつでも歓迎です」


 フェリクスが、かすかに口の端を上げた。


 アンナはそれを初めて見た。


 この人が笑うと、こういう顔になるのか、と思った。




 出立の朝は、霧が出ていた。


 フェリクスが馬に乗った。荷物は来たときと同じくらい少なかった。


 マグダ院長が「また来なさい、無愛想さん」と言った。フェリクスが短くうなずいた。


 アンナはフェリクスを見上げた。


「お体に気をつけて」


「ああ」


「よく食べて、よく眠ってください」


「……わかった」


 フェリクスが手綱を引いた。馬が歩き始めた。


 霧の中に消えていく背中を、アンナは見送った。


 見えなくなっても、しばらくそこに立っていた。


 また来る、と言っていた。


 社交辞令かもしれない、とも思った。


 でも──フェリクスは、一度も約束を破らなかった。ここにいた三年間、「明日また来る」と言ったら来た。「夕方に話す」と言ったら来た。言ったことは、全部やった。


 だから多分、また来るのだ。


 アンナは霧の中を見つめて、それだけを思った。





────────────────────────────────────────────





    三 「三年後の王都」





 正式な手紙が届いたのは、それから三ヶ月後のことだった。


 差出人の名前を見て、アンナは三度読み返した。


 フェリクス・ヴォルテン。


 ヴォルテン、という名前には聞き覚えがあった。王国の宰相家、ヴォルテン侯爵家。


 アンナは手紙を持ったまま、しばらく動けなかった。


 マグダ院長が覗いてきた。


「どうしたね」


「……あの、療養されていた方から手紙が」


「ああ、あの無愛想な病人ね。何だって」


「王都に来てほしい、と。婚約の申し込みをしたい、と……」


 マグダが手紙を奪って読んだ。


 しばらくして、ぷっと吹き出した。


「ほら見なさい」


「何がですか」


「あの人、ずっとあんたのことが好きだったじゃないか。三年間も毎日一緒にいて、わからなかったのかい」


「……そんな、わかりませんでした」


「あんたは鈍いねえ」とマグダは笑った。「でもそれが良かったんだと思うよ。好かれてるってわかってたら、きっと違う顔をしてた」


 アンナは手紙を受け取った。


 もう一度読んだ。


 フェリクスの文字は、話し方によく似ていた。無駄がなく、飾りがなく、ただそこに言いたいことだけがあった。


 アンナは窓の外を見た。


 冬の空が、青かった。




 王都への道は長かった。


 馬車の中で、アンナはずっと窓の外を見ていた。


 三年前、この道を逆向きに走った。追いやられて、誰にも見送られなかった。あの日の馬車の窓から見た景色を、まだ覚えている。


 今は違う。


 それだけは、確かだった。


 王都の門が見えてきた。


 アンナは一度、深く息を吸った。


 吐いた。


 大丈夫だ、と思った。




 フェリクスは王都の外れに借りた屋敷で待っていた。


 馬車が止まり、扉が開き、アンナが降りると、フェリクスが玄関の前に立っていた。


 黒い上着。王都の格式ある衣装。修道院で着ていた外套とは違う、きちんとした服だった。


 アンナは彼を見た。


 顔色がよかった。頬に肉がついていた。目の下に隈がなかった。修道院に来た初日の、あの疲れ果てた顔が嘘のようだった。


「来たか」


「……はい」


「長旅だった。疲れているだろう、中へ」


 屋敷に入ると、お茶の準備がしてあった。フェリクスが自分でポットを持ち上げようとして、少し手間取った。アンナは思わず笑った。


「なんだ」


「いえ、宰相閣下がお茶を注ぐのかと思いまして」


 フェリクスが一拍置いた。


「……その話をしなければならないな」


「はい」


 二人は向かい合って座った。


 フェリクスがゆっくりと話した。


 本当の名前はフェリクス・ヴォルテン。現国王に仕える宰相。修道院に来る三ヶ月前、政敵の一派に命を狙われた。身を隠す必要があった。王都から離れた静かな場所を求めて、修道院にたどり着いた。


「身分を隠して申し訳なかった」


「いえ」


 アンナは言った。


「あなたが誰であっても、私がしたことは変わりません。食事を置いたのは、あなたが食べていなかったからです。それだけです」


 フェリクスが少し間を置いた。


「……そういうところだ」


「何がですか」


「お前は、何も期待しない目で私を見た」


 アンナは少し首を傾けた。


「それが、初めてだった」


 フェリクスが続けた。


「宰相という立場にいると、人の目に何かが乗っている。期待、打算、恐れ、あるいは媚び。そういうものが、いつも目に乗っている。お前の目には、それがなかった」


「……ただの修道院の手伝いでしたから」


「それでいい」


 フェリクスがアンナを見た。


「だから、隣にいてほしい」


 静かな言葉だった。飾りがなかった。


 アンナはしばらく黙っていた。


「……一つ聞いてもいいですか」


「何でも」


「修道院で食事を全部食べるようになった日のことを、覚えていますか」


 フェリクスが少し考えた。


「……二週間目の頃か。スープが変わった日だ」


「はい。ハーブを変えました。あなたの顔色を見て、少し配合を変えたんです」


「なぜその話を」


「あの日から少しずつ、顔色が戻っていって」


 アンナは少しためらった。


「……嬉しかったんです。食べてもらえると、嬉しかった」


 フェリクスが黙った。


「それが、私なりの答えです」


 長い沈黙があった。


 フェリクスがアンナを見た。その目が、修道院で時折見せた、何かをほどいたような顔をした。


「……よかった」


 ひと言だった。


 でも、それで十分だった。




 翌日、フェリクスがもう一つの話をした。


「アンナ、お前の婚約破棄について」


 アンナは静かにフェリクスを見た。


「政敵を排除した際に、いくつかの書類が出てきた。オリヴィエ殿下とベルナ令嬢に関するものだ」


「……何ですか、それは」


「三年前の夜会でお前が追放された理由。お前が『王家の品格を損なった』とされた根拠。全部、作られたものだった」


 アンナは動かなかった。


「ベルナ令嬢の侍女の証言書。日付の改ざん。証人への工作。それを取りまとめたのは、ベルナ令嬢とその父親だった。オリヴィエ殿下は全部知って、乗った」


 静かな声で、フェリクスは話し続けた。


 アンナは聞いていた。


 三年前のあの夜、自分が何も悪くなかったことを、今更聞かされている。


 怒りが来るかと思った。


 来なかった。


 代わりにあったのは、静かな虚しさだった。三年間、自分のどこが悪かったのかをずっと考えてきた。礼儀が足りなかったのか。笑顔が作り物だったのか。どこかが足りなかったのか。考え続けて、答えが出なかった。答えがなかったからだ。最初から、何も悪くなかったから。


「……そうでしたか」


 アンナは言った。


「ベルナ令嬢は半年前、詐欺行為が発覚して爵位を失っている。父親も処罰された。オリヴィエ殿下は、現在閑職に回されている」


「知りませんでした」


「知る必要もなかっただろう、修道院にいたなら」


 そうだった。


 アンナは修道院にいた。土を触って、薬草を育てて、毎朝スープを作って、フェリクスと言葉を交わして。そういう三年間を生きていた。


 王都で何が起きていても、関係なかった。


「……不思議ですね」


 アンナはポツリと言った。


「何が」


「悔しいとか、腹が立つとか、そういう感情が、あまり来ないんです。三年前のことなのに」


 フェリクスが静かにアンナを見た。


「三年間で、変わったんだろう」


「そうかもしれません」


 窓の外に、冬の光が差していた。


「もう終わったことだと、どこかで思っているのかもしれません」


 アンナは窓を見ながら言った。


「……終わって、よかった」


 フェリクスが短く言った。


「はい」


 アンナもうなずいた。


「よかったです」





────────────────────────────────────────────





    四 「凱旋の夜会」





 夜会は、春の始まりに開かれた。


 宰相フェリクス・ヴォルテンと、その婚約者アンナ・ライデルの初めての公式同伴。それが今夜の意味だった。


 馬車の中で、アンナはドレスの裾を整えた。


 三年前の婚約披露の夜会が、頭をかすめた。あの夜も、こうして馬車の中で衣装を整えていた。あの頃と違うのは、今は隣に座っている人間が違うことだ。


 フェリクスが前を向いたまま言った。


「緊張しているか」


「少し」


「そうか」


 それだけだった。


 アンナは笑った。この人は余計な慰めを言わない。「大丈夫だ」とも「心配するな」とも言わない。ただ、事実を確認する。それがこの人だった。


「フェリクス様は、緊張しないのですか」


「しない」


「なぜですか」


「お前が隣にいるから」


 さらりと言った。


 アンナはしばらく動けなかった。


「……その言い方は、ずるいです」


「そうか」


「はい、そうです」


 フェリクスがわずかに口の端を上げた。


 馬車が止まった。


 王宮の大広間。三年前と同じ場所。同じシャンデリア。同じ白と金の装飾。


 違うのは、アンナが一人で歩いていないことだった。




 扉が開いた。


 アンナはフェリクスの腕を取って、広間に入った。


 広間がざわめいた。


 最初は小さく。それがすぐに、波のように広がった。


「……ヴォルテン宰相閣下と、婚約者の方が」

「お相手は誰だ、あの令嬢は」

「ライデル家の……ライデル伯爵家の三女では?」

「え、あの方が? 三年前に婚約を解消された……」

「宰相閣下の婚約者として?」


 ざわめきが広間を満たしていった。


 アンナはそれを聞きながら、ただ前を向いて歩いた。


 三年前、一人でこの広間を歩いた。追放されて、一礼して、扉に向かって歩いた。あの時の足の感触を、まだ覚えている。冷たくて、硬くて、それだけが確かだった。


 今は、腕に温もりがある。


 それだけで、世界が違って見えた。




 広間の端で、オリヴィエ第三王子がいた。


 アンナは最初、気づかなかった。気づく理由もなかった。


 しかし向こうが気づいた。


 オリヴィエの目が、アンナを捉えた。


 その目に、何かが走った。驚愕。それから動揺。それから──アンナには名前をつけられない何か。


 オリヴィエの隣に、かつてのような華やかさはなかった。ベルナ令嬢はいない。従者の数も少ない。本人の顔に、三年前の自信が薄れていた。


 広間のどこかで、小さな声が聞こえた。


「……殿下、今はあのような立場に。閑職に回されたと伺いましたが」

「ベルナ令嬢の件でお立場が難しくなったとか……」


 声はすぐに消えた。


 アンナには聞こえていたが、何も感じなかった。


 三年前の夜に腹を立てていた自分は、もういなかった。ここではなく、修道院の冬の朝に置いてきた。




 夜会が進む中、アンナはフェリクスの隣で貴族たちと言葉を交わした。


 三年前と同じ言葉遣いで、同じように笑った。でも、違った。あの頃の笑顔は仮面だった。今のは、違う。


「ライデル様、お久しぶりです」


 知った顔の令嬢が近づいてきた。三年前、王都で何度か顔を合わせた相手だ。


「ご無沙汰しております」


「修道院にいらしたとお聞きして、心配しておりました。でもこうしてご壮健そうで……ヴォルテン閣下とのご婚約、おめでとうございます」


「ありがとうございます」


 令嬢が、少し声を落とした。


「……三年前のことは、私も言葉もありません。あの夜のことは、おかしいと思っていた方も多くて」


「ありがとうございます」


 アンナは繰り返した。


「でも、あの三年間があって今があると思っていますので」


 令嬢が少し目を潤ませた。アンナは大丈夫だ、という顔で笑った。


 フェリクスが隣で黙って聞いていた。アンナの手にそっと触れた。それだけだった。




 夜が深くなる頃だった。


 アンナが一人で水を取りに移動したとき、背後から足音がした。


「アンナ」


 その声を、アンナはすぐに知った。


 振り返った。


 オリヴィエが立っていた。


 三年ぶりだった。


 三年前より、老けて見えた。頬が張っていない。目に自信がない。かつてあの壇上に立って、整然と婚約破棄を告げた男と、同じ人間とは思えなかった。


「久しぶりだな」


「はい」


 アンナは短く答えた。


「その……元気そうだな」


「おかげさまで」


「修道院にいたと聞いた。大変だったろう」


「いいえ。とても良い場所でした」


 オリヴィエが少し目を逸らした。


「……あの時のことは、私も」


「失礼」


 声が割り込んだ。


 フェリクスが、静かにアンナの前に立った。いつの間に来たのか、気配もなかった。


 オリヴィエが固まった。


「妻に用があるなら、私を通せ」


 無表情だった。怒鳴らない。声を荒げない。ただ、静かに、そこに立っていた。


 広間のざわめきが、そこだけ消えた。


 アンナはオリヴィエを見た。


 三年間、自分はこの人に怒っていた。いや、正確には、怒る気力もなかった。ただ、何かが削れていた。壁に手をついて、震える膝を支えていた夜のことを思い出す。


 でも今は、何もなかった。


 怒りも、恨みも、悔しさも。


 全部、どこかに置いてきた。


「殿下」


 アンナは言った。


「私は今、とても幸せです」


 それだけだった。


 他に言うことは、何もなかった。


 フェリクスの腕を取って、歩き出した。


 オリヴィエが何か言おうとした。口が開いた。でも声が出なかった。


 アンナは振り返らなかった。




 広間の少し離れた場所で、アンナはフェリクスの腕を取ったまま、足を止めた。


「……ありがとうございました」


「何が」


「前に立ってくれたので」


「お前の夫になる人間として、当然だ」


「まだ婚約中ですが」


「……それはそうだが」


 フェリクスが少し眉を動かした。アンナはそれを見て、また笑った。


「あの……」とアンナは言った。


「何だ」


「『妻に用があるなら』と言ってくれましたね」


「……気が早かったか」


「いいえ」


 アンナはフェリクスを見た。


「嬉しかったです」


 フェリクスが、少し間を置いた。


「そうか」


 それだけだった。


 でも、耳まで赤くなっていた。


 アンナはそれを黙って見ていた。





────────────────────────────────────────────





    五 「春の夜の帰り道」





 夜会の帰り道、馬車の中は静かだった。


 春の夜が窓の外に広がっている。王都の灯りが遠ざかっていく。


 アンナは窓の外を見ていた。


 肩の力が、いつの間にか抜けていた。


「疲れたか」


「少し。でも、良い疲れです」


「そうか」


 しばらく、馬車の揺れる音だけが続いた。


「フェリクス様」


「何だ」


「今夜のことで、少し思い出したことがあって」


「三年前のことか」


「はい。あの夜、広間を出て、廊下で壁に手をついたんです。膝が震えていて」


 フェリクスが黙って聞いていた。


「泣けなかったんです。泣いたら止まらなくなる気がして。だから泣かないようにして、それがずっと何か、固まっていたのかもしれなくて」


「……そうだったのか」


「修道院に着いた日、マグダ院長が『泣いてもいいよ、誰も見てないから』と言ってくれて、そこで初めて泣けたんです」


「マグダ院長らしい」


「そうなんです」とアンナは笑った。「あの方はいつも、ちょうどいい言葉を持っていて」


「感謝している」


「私もです」


 また静かな時間が来た。


 フェリクスが窓の外を向いたまま、低い声で言った。


「修道院で、毎朝扉の前にスープがあった」


「……はい」


「あれが一番、待ち遠しかった」


 アンナは動かなかった。


「来た日は、眠れなかった。何もかもから逃げてきたのに、逃げきれていないような気がしていた。でも翌朝、扉の前にスープがあって」


 フェリクスが少し間を置いた。


「……何も考えずに、ただそこに置いてあるものが、あの頃の私には一番、要るものだった」


 アンナは何も言わなかった。


 ただ、目が少し熱くなった。


「泣くな」とフェリクスが言った。


「……泣いていません」


「目が赤い」


「泣いていません」


 フェリクスが小さく息を吐いた。


「ありがとう」


 アンナは泣かなかった。泣かなかったが、何かがほどけていくような感覚があった。コルセットが緩むような。長い年月をかけて固まっていたものが、静かに溶けていくような。


「……どういたしまして」


 ようやく、そう言えた。




 馬車が揺れていた。


 春の夜が続いていた。


 アンナは窓の外を見た。


 星が出ていた。


 三年前の冬、修道院の庭でマグダ院長に泣かせてもらった夜も、こんな星空だった。フェリクスが「また来る」と言って霧の中に消えていった朝も、星が残っていた。


 いろんなことがあった。


 捨てられて、送り出されて、泣いて、土を触って、スープを作って、言葉を交わして、また王都に来て。


 全部あって、今夜がある。


「……良かった」


 アンナは呟いた。


「何が」とフェリクスが聞いた。


「全部です」


 フェリクスが少し黙った。


「……そうだな」


 その一言に、アンナは笑った。


 やっぱり言葉が少ない人だった。でも、これでいい。この人と一緒なら、言葉が少なくても十分だと知っていた。三年間で、それを知っていた。


 馬車が揺れていた。


 春の夜が、どこまでも続いていた。


 アンナは窓の外の星を見ながら、フェリクスの隣で静かに目を閉じた。


ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!


「追放令嬢、三年後に宰相の妻として帰ってくる」、いかがでしたか?

作者としては「もっとざまぁしてやれ!」と思いながら書いていたのですが、アンナが怒らない人なんですよね、根っこのところで。


スカッとした!と、少しでも思っていただけたなら、評価やコメントで教えていただけると飛び上がって喜びます。次の作品を書く力になります。本当に。


また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております^^

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まぁ、王子妃の時期に陥れられたのは宮廷闘争に敗れたと考えれば、地位を守る手腕が無かったとも取れる。 しかし娘を守れなかった親も勿論同じであり、ただ見捨てて臭い物に蓋した実家は輪をかけて無能であるし、少…
修道院に置きっぱなしで冤罪だと公表されたのも知らせなかった両親は宰相夫人の娘に擦りよっても、距離を置かれそう。
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