大会
朝の光が、グラウンドの赤土を柔らかく照らしていた。春の地区大会。いつも練習している校庭とは違う、広い競技場特有の張り詰めた空気が、胸をざわつかせる。トラックの向こうでは、すでに予選が始まっており、スタートのピストル音が遠くで響いていた。僕も気持ちを切り替えようと、軽く体を揺らしながら周囲を見渡した。
「先輩……緊張します」
美咲は小さな声でつぶやきながら、スタートラインの近くで手を固く握りしめている。その小さな手が震えているのが見て取れた。ジャージの裾から覗く、彼女の白い足首も、心なしかいつもより細く見えた。
去年までは知らなかった、大会という非日常の空気に飲まれているのだろう。不安と期待が入り混じった、真剣な表情だ。僕は深呼吸して、彼女の肩にそっと手を置いた。思ったよりも細く、頼りない感触だった。
「大丈夫だ。お前は毎日、俺が教えたことを何度もやってきたんだ。自分を信じろ」
少し照れくさくなりながらも、言葉は自然と口から出てきた。美咲は僕の言葉に、こくりと頷いて、ぎゅっと目を閉じる。その一瞬の仕草が、まるで僕の言葉を必死に胸に刻もうとしているようで、愛おしく感じられた。彼女のレースが始まると、僕はトラック脇で声を張り上げた。
「その調子! 腕をもっと振れ! 呼吸を意識しろ!」
他の部員たちが「佐伯ー!」と叫ぶ声に混じって、僕の声が一番大きく聞こえるよう、無我夢中になっていた。汗と声で、自分も熱くなる。いつもは冷静な僕が、誰かのためにこんなに熱くなっていることが、自分でも信じられなかった。
美咲は中盤からペースを上げ、最後のコーナーを回ったとき、僕の目に飛び込んできた。ゴール直前、美咲の顔が一瞬苦しそうに歪んだが、決して足を止めない。歯を食いしばり、必死にゴールテープを目指して駆け抜けるその姿は、僕が初めて見た日から、どれだけ成長したかを物語っていた。
タイムは、自己ベスト。
息を切らせて立ち止まった彼女の顔を見た瞬間、達成感と安堵で、僕の口元は自然と緩んでいた。
「やったな……すごいぞ」
僕の言葉に、美咲も満面の笑みで笑い返す。
「先輩のおかげです……」
その言葉が、僕の胸をぎゅっと締め付けた。それは単なる感謝の言葉ではなかった。僕をまっすぐに見つめるその瞳に、僕の存在がしっかりと焼きついていることを、はっきりと感じたからだ。
――この子を、ずっと見守っていたい。
この気持ちは、もはや先輩としての責任感ではない。誰よりも強くて、脆くて、ひたむきなこの子を、僕が一番近くで支えていたい。
大会が終わり、片付けを済ませた帰り道。夕焼けに染まるグラウンドを二人で歩きながら、僕は心の中で決意していた。明日、この大会の興奮が冷めたら。静かな場所で、必ず伝えよう。この胸の内に溢れる、特別な想いを。
「明日が終わったら……必ず伝えよう。俺の気持ちを」
まだ口には出せないけれど、走ることで、応援することで、僕の中の想いは確かに形を持ち始めていた。
もう、この気持ちに蓋をする必要はない。僕は、佐伯美咲という一人の女の子に恋をしている。




