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1歩ずつ

放課後のグラウンドに、短い笛の音が響いた。春の日差しは少し傾き、グラウンドの赤土をオレンジ色に染めている。


「100メートル、3本いくぞ!」


 顧問の声に、部員たちが一斉にスタート地点へ集まる。僕もスパイクの紐を締め直し、軽く体を揺らしながら準備をしていた。ふと横を見ると、真新しいジャージを着た美咲が、緊張した顔でストレッチをしているのが目に入った。


 今日は彼女の、陸上部員としての本格的な練習初日だ。周りの二年や三年の速さに圧倒されているのか、細い肩がやけに固くこわばっている。その姿はまるで、臆病な小動物のようで、思わず声をかけたくなった。


「佐伯、大丈夫か?」


 彼女はびくっと肩を跳ねさせて、こちらを見上げた。大きな瞳が不安そうに揺れている。


「は、はい! だ、大丈夫です!」


その返事の速さに、思わず笑ってしまう。


「力入りすぎ。見てるこっちが固まる。最初から全力で飛ばしたら、三本もたないぞ」


 僕の言葉に、美咲は少しだけ息をついた。張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ気がした。

 一本目のピストルが鳴り、全員が一斉に走り出す。


 僕は軽やかにスタートを切り、加速していく。僕のすぐ後ろに他の部員たちが続く中、美咲だけがずいぶん後方に取り残された。それでも、彼女は決して足を止めなかった。ぎこちないフォームのままだが、歯を食いしばり、必死に前を追いかけるその姿は、誰よりも真剣で、なぜか胸を打たれた。


 二本目、三本目と走るたびに、美咲は少しずつ疲労の色を濃くしていく。それでも、決して諦めない。彼女のそのひたむきさに、僕の視線は自然と彼女を追っていた。


 三本を走り終えたとき、美咲は膝に手をついて大きく肩で息をしていた。小刻みに震えるその肩が、彼女がどれだけ全力で走ったかを物語っている。


「……はぁ……はぁ……ぜんぜん追いつけません……」


 悔しそうに唇を噛む彼女に、僕は自分の首にかけていたタオルを差し出した。


「汗、すごいぞ」


「あ、ありがとうございます……」


 彼女は恥ずかしそうにそれを受け取ると、汗で濡れた前髪をかき上げた。額に貼り付いた髪を指で払う仕草も、なぜだか可愛らしく見えた。


 「最初から速いやつなんていない。大事なのは、毎日少しずつだろ」


 僕の言葉に、彼女はタオルを握りしめながら、まっすぐ僕を見上げる。

 その瞳が、不思議なほど真剣だった。そこには、ただの憧れや弱音ではなく、何か強い決意のような光が宿っていた。


 「……はい。私、絶対に速くなりたいです」


 その一言に、胸の奥が熱くなる。


 ――なんだろう。この気持ちは。


 それは、ただの後輩を見守る先輩としての責任感、だけじゃない。

 速くなりたいと願う彼女の真剣さが、僕の心に深く響いてくる。もっと個人的で、言葉にならない感情が、僕の中に芽生え始めていた。

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