新入部員
放課後のグラウンドには、春の匂いがまだ残っていた。
トラックの赤土は少し乾いていて、走るたびに小さな砂埃が舞い上がる。擦り切れた黒いTシャツは汗で湿り、息を切らせながら最後のダッシュを終えると、僕は大きく空を仰いだ。日焼けした腕には、血管が浮き出ていた。
――もうすぐ新学期か。
高二になっても、結局やることは同じだ。走って、汗を流して、家に帰って、また次の日も走る。陸上部の顧問から「鬼」とあだ名されるほど厳しい練習をこなす毎日に、それでも不思議と飽きることはなかった。ただひたすらに、速く走ることだけを考えていた。
その日、部室に戻ろうとしたときだった。
グラウンドの隅に、見慣れない女の子が立っていた。真新しいジャージに身を包んだ、ショートカットの小柄な子。少し大きなジャージの袖から覗く、色白で華奢な腕が目に留まる。彼女はきゅっと体をこわばらせ、ぎこちないフォームでスタートの姿勢をとっている。
「新入部員かな」
そう思って目を留めた瞬間、彼女は合図もなしに走り出した。
走り出しのフォームは崩れていて、スピードも遅い。それでも、足を止めずに全力で前に進もうとする、その必死さが伝わってくる。上気した頬と、きゅっと結ばれた唇。彼女の走りは、たとえ拙くても、眩しいほどに真剣だった。走り終えた彼女は、大きく肩で息をしながら僕に気づき、はっとしたように頭を下げた。
「……あ、あのっ。今日から、お世話になります!」
真っ直ぐな瞳に射抜かれ、思わず言葉を失う。その瞳は、不安を隠すように揺れながらも、強い光を宿していた。その瞬間、僕の中の何かが小さく音を立てて動き出した。
「今日から? 一年生?」
思わず口にすると、彼女はこくりと頷いた。
「はい。中学のときから陸上をやっていて……でも、全然速くなくて」
言いながら、恥ずかしそうに視線を落とす。額には、陸上部に入って初めてかくような、小さな汗が滲んでいた。
――全然速くなくて、か。
けれど僕には、さっき見た彼女の走りが、妙に印象に残っていた。決して形はきれいじゃない。でも、足を止めずに必死に前へ進もうとする姿は、僕が持っている速さとは違う、何か強い輝きを放っているように感じた。
「名前は?」
「……佐伯、佐伯美咲です」
小さな声だったが、真剣さが伝わってくる。僕はうなずいて、自然と笑っていた。きっと、その表情は自分でも驚くほど穏やかだったはずだ。
「俺は二年の篠原。短距離やってる。……よろしくな、美咲」
その言葉に、彼女の瞳がぱっと輝いた気がした。
「よろしくお願いします、先輩!」
その勢いに少し面食らいながらも、どこかくすぐったい気持ちになる。ただの部活。いつもの春。そう思っていた日常に、不意に新しい風が吹き込んできた。
走り続けることしか知らなかった僕の毎日に、彼女の、佐伯美咲の笑顔が差し込んだ。
まだ始まったばかりだけど――なんだか、この先の部活が少し楽しみになっていた。