追放されたからフリーランスの聖女になりました
「なんで私がフリーランスの聖女かだって? 追放されたからよ」
琥珀色の液体を注いだグラスを揺らし、ロベルタはにやりと笑った。
薄暗い酒場の隅っこ。テーブルには空になった皿がいくつか転がり、グラスの中の液体は、リンゴの香りをほのかに漂わせ、マリーの知らない大人の世界を映していた。
ロベルタの乾いた笑い声が響く。
「聖女の仕事? 悪魔や魔獣の浄化かだって? あはは、違う違う。そんなおとぎ話みたいなもんじゃないわ。あれは、教会の都合のいい嘘よ」
ロベルタはグラスに入ったカルバドスを一気に呷り、喉を鳴らす。
その姿は、教会のステンドグラスに描かれた清らかで優美な聖女像とは似ても似つかない。彼女の白と青の聖女服は、くたびれてシワになり、ところどころに黒い染みがついていた。それはきっと汚れなんかじゃない。血の痕だとマリーは知っていた。
「犯罪者や異教徒の殺害。これが私たちの仕事。教会は〝魔獣〟や〝悪魔〟って呼んでるけど、要は人殺しってこと」
グラスをテーブルに置き、彼女はつまらなそうにため息をついた。その視線は、虚空をさまよっている。まるで、遥か遠い過去を懐かしむように。その横顔は、初めて会った日からずっと、孤独を纏っていた。
「ねぇ、ロベルタ。聖女様がお酒なんて飲んでいいの?」
おそるおそるマリーは聞いた。
ロベルタの言葉に胸がざわつく。マリーにとって聖女様は、清廉潔白で、弱きを助ける存在だった。でも、目の前にいるロベルタは、そのイメージとはかけ離れていた。
「酒はいいのよ。どうせ教会でも作ってるんだから。聖酒という名の、ただの酒をね。みんな裏で飲んでるのよ、私たちみたいな殺し屋はね。あんた一杯飲んでみるかい?」
ロベルタはまた笑った。その笑みは、どこか寂しげで遠い目をしてるように見えた。
「ねぇ、ロベルタ。聖女様ってどうやったらなれるの?」
マリーは憧れと好奇心から質問した。
「そりゃ聖女学院を卒業すりゃ誰でもなれるわよ。優秀な奴は聖女ギルドへ、そうでもない奴は地方の教会へ。あとは、私みたいに追放されてフリーランスで聖女をする奴もいる」
「わたしも入学できるかな」
そう言ったマリーを見て、ロベルタはフッと鼻で笑った。
「孤児のあんたには無理ね。学費が高いもの。貴族の子女か、裕福な商人の娘しか入れないわ。教会は金のなる木を大事にするからね」
「そっかぁ、残念」
マリーの心臓がギュッと締め付けられる。でも、ロベルタの言葉に悪意がないことはわかっていた。彼女はいつも、マリーにまっすぐ向き合う。それが時には痛いこともあるけれど、それはマリーを傷つけまいとする優しさなのだと、マリーは知っていた。
「私みたいにフリーランスの聖女になるかい? お金は入るし、しがらみもない。誰の指図も受けずに、好きに生きられるわよ」
ロベルタは冗談めかして言った。その言葉にマリーは首を横に振る。
「それは嫌っ。ロベルタみたいに命を狙われたくないもの」
マリーの言葉に、ロベルタは愉快そうにケラケラと笑う。
「ははは、そうね、利口な判断よ。命知らずの馬鹿になる必要はないわ」
そう、ロベルタは常に命を狙われている。
聖女様の格好をしているから、てっきり本物の聖女様かと思ってたんだけど、どうやら違うらしい。彼女は、教会に追放されたフリーランスの聖女。聖女ギルドや聖騎士ギルドに回されることのない、あぶれた仕事や危ない仕事が彼女の元に舞い込んでくる。それは誰かが手を汚さなければならない、忌まわしい仕事の数々だった。
「聖剣? あれは猛毒を塗った剣さ。一滴でも皮膚に触れたら、数日で全身が溶け落ちて、七日後には骨も残らない。教会はそれを〝神の裁き〟と呼ぶけど、ただの卑怯な殺し方よ」
「聖水は?」
「濃硫酸よ。人間を溶かすのにちょうどいい。それを〝聖水〟と呼んで、民衆を騙しているの」
彼女から聞く真実は、マリーが学校で習ったことと全く違っていた。
聖イエーネ教会は、民衆を騙している。どうしてそんなことをするのか、ロベルタに聞いても教えてくれない。
「なんでロベルタは聖女様や聖騎士様に命を狙われているの?」
そう質問すると、ロベルタは時計に目をやった。
「おっと、そろそろ仕事に出かけなきゃ。いい子で待ってなさい」
いつもそうだ。
大切なことを聞こうとすると、はぐらかされてしまう。マリーはロベルタの隠している秘密に、ただ漠然とした不安を抱くことしかできなかった。
ロベルタは棚から聖水を取ると腰のホルスターに仕舞い、聖剣を鞘に納めるとベルトに装着し、家を出ていった。
その背中を追いかけたかったけれど、彼女はマリーに、「いい子で待ってなさい」と言った。
マリーはロベルタ背中を見送ると、台所に向かった。
ロベルタが帰って来るまでの間、彼女のために料理を作る。ポトフの優しい香りが部屋に漂う。野菜を刻み、肉を煮込みながら、マリーは窓の外を見つめた。空は徐々に紫から藍色へと変わり、星々が瞬き始める。ロベルタは、あの星空の下で、今日も誰かの血にまみれているのだろうか。
マリーがうつらうつらと眠気に負けそうになったころ、ドアが開く音がした。
「ただいま。まだ起きてたの?」
ロベルタの声がした。
マリーは飛び起きて、彼女の元へと駆け寄る。彼女の聖女服は、やはり血で汚れていた。
「うん、一緒に御飯を食べようと思って」
「そう、ありがとう。お前はいい子ね」
ロベルタはマリーの頭をくしゃりと撫でる。その手は、冷たい。マリーはそっと、その手に自分の手を重ねた。ロベルタは微笑んだ。
マリーの作ったポトフを美味しそうに食べるロベルタ。
「お仕事どうだった? 大変だった?」
「楽勝よ。私は無敵なんだから」
ロベルタはそう言ってケタケタと笑う。
その笑顔は、血なまぐさい仕事をしてきたとは思えないほど穏やかで優しいものだった。
「そうだ。マリーは聖女になりたいって言ってたでしょ? 今日の依頼でね、お前の聖女学院の学費が貯まったんだ」
「え?」
マリーの声が裏返る。
ロベルタは優しい顔でマリーを見つめた
「ふふ。しっかり勉強しなよ。退学になったら許さないからね。あんたは私みたいにならないで、ちゃんとした聖女になりなさい」
ロベルタは、マリーを孤児院から拾ってくれた恩人だ。マリーはただただ、嬉しくて涙が止まらなかった。
翌月、マリーは聖女学院に入学した。
毎日の授業は楽しく、新しい知識を学ぶことに夢中になった。校舎は宮殿のように美しく、ステンドグラスから差し込む光が美しい。でも、聖書に書いてある聖女とは違う、ロベルタの言っていた真実を思い知らされることになった。
犯罪者を〝魔獣〟、異教徒を〝悪魔〟。
それは聖女に殺意を抱かせ、躊躇なく命を奪うための言葉だった。そして、実技の授業で教わった聖剣や聖水の使い方も。すべては、人を殺すための道具だった。聖剣を扱う授業では、その刃に塗られた猛毒の恐ろしさを教えられ、聖水の怖さも学んだ。
マリーの知っていた聖女のイメージは崩れ去った。
でも、ロベルタのそばにいたい。彼女の力になりたい。その一心で、マリーは実技の授業に打ち込んだ。
そのうち、ロベルタはマリーを仕事に同行させるようになった。
きっと、聖女の仕事を教えてくれようとしたのだろう。
実践は想像以上に血なまぐさかった。初めての仕事でマリーは吐き気を催した。
ロベルタはそんなマリーを見て、「吐きたければ吐けばいい。無理して慣れる必要はない」と言うが、マリーは、ただ彼女の背中を追いかけた。
他の聖女の妨害や、聖騎士と戦うこともあった。
ロベルタは本当に強かった。
圧倒的な強者感。
それは、まるで嵐のようだった。どんな敵も、彼女の聖剣と聖水の前では塵となる。返り血を浴びて鮮血に染まったロベルタの姿は、恐ろしいはずなのにマリーには誰よりも美しく、そして頼もしく見えた。
孤児だったマリーを拾い、聖女学院にまで入れてくれたロベルタへの尊敬の念は、日を追うごとに増していく。
ある日、ロベルタが仕事に出かける用意をしている。
マリーもいつも通り身支度をしていると、ロベルタは振り返り言った。
「今日は私一人で行くから家でいい子にしてなさい」
マリーの胸に、嫌な予感がよぎる。
マリーは、家で留守番をするふりをしてロベルタの後をつけた。
夜の廃墟――
冷たい風が吹き荒れる中、ロベルタに対峙するのは聖女ギルドの聖女たちと、聖騎士ギルドの聖騎士たち。
総勢五十人。
彼らの聖女服や聖騎士の鎧は、ロベルタのようにくたびれたものではなく、真新しく、汚れひとつないものだった。
「邪魔くさいフリーランスめ、お前はとうとう〝悪魔〟認定されたんだよ。これ以上、聖イエーネ教会の名を汚すことは許されない」
聖騎士の一人が、ロベルタに嘲笑を浴びせる。
その言葉にロベルタはフッと鼻で笑った。
「ふん、御託はいいわ。かかってきなさい真面目さんたち」
一対五十。絶望的な状況なのに、ロベルタの顔に恐怖の色はない。
「行くぞ! かかれ!」
聖騎士の号令とともに、五十人が一斉にロベルタに襲いかかる。
聖女たちは聖水を投げつけ、聖騎士たちは聖剣を振りかざした。
ロベルタは、まるで舞うように敵を斬り伏せていく。聖水と聖剣を巧みに使い、次々に聖女や聖騎士を倒していく。
聖水のボトルが砕け、濃硫酸が飛び散る。肉が焦げるような、甘く腐った匂いが風に乗って運ばれてきた。
聖剣が肉を貫き、骨を砕く音。返り血で真っ赤に染まるロベルタの姿は、恐ろしいはずなのに、美しく、頼もしく見えた。
「ひぃ、化け物め!」
「この女、本当に人間なのか…」
敵は次々と恐怖に駆られ、逃げ出す。
しかし、ロベルタは容赦しない。彼女の聖剣は逃げ惑う者たちの心臓を正確に貫いていく。
最後に立ちはだかったのは、聖女ギルドのトップに君臨する聖女だった。
彼女は、ロベルタに引けを取らない実力者のオーラを纏っていだ。激しい一騎打ちが繰り広げられる。聖剣と聖剣がぶつかり合い、火花が散る。
一瞬の隙をついて、相手の聖剣がロベルタの肩を貫く。ロベルタは「くっ」と顔を歪めた。しかし、その顔に焦りの色はない。彼女は、痛みをものともせず、相手の心臓を突き刺した。
五十人の死体が転がり、ロベルタがこちらに歩いてくる。
その足取りは、いつもの軽やかなものではなくどこか重苦しい。
「まったく悪い子だねお前は、家で待ってろって言ったのに」
「き、気づいてたの?」
「ふふ、当たり前でしょ」
ロベルタはふらつきながら、優しい笑顔でマリーを見つめた。
「夜ご飯は作ってくれてるの?」
「ごめんなさい、まだ作ってないの」
「罰として、今日はおいしいご飯を作ってね」
ロベルタはそう言って、優しく微笑んだ。
その笑顔はいつもよりもずっと輝いて見えた。
◇
家に帰り、マリーはロベルタのために心を込めて料理を作った。
ロベルタはマリーの作った料理を美味しそうに食べる。
いつものようにケラケラと笑い、冗談を言う。しかし、それがマリーの見たロベルタの最後の元気な姿だった。
聖剣の毒なのだろう。
次の日から、ロベルタは徐々に苦しみ始めた。
高熱を出し、吐き気を催し、食事も喉を通らなくなる。マリーは彼女のそばに寄り添い、献身的な看病をした。彼女の額に冷たい布を当て、彼女がうなされるたびにその手を握りしめた。しかし、ロベルタの容態はどんどん悪くなる。
ロベルタは一ヶ月後には、完全に寝たきりになってしまった。
マリーは、彼女の痛みを少しでも和らげてあげたい一心で、夜も眠らずに看病を続けた。
マリーの努力もむなしく、ロベルタの身体は日に日に弱っていく。
ある朝、いつものように高熱を出しているロベルタに濡れた布をを持っていく。
彼女は、うっすらと目を開け、マリーを見つめた。その瞳は何かを決意したかのように、まっすぐだった。
「マリー、よく聞いて。お前が聖女になりたいと言っていたから聖女学院に入れたけど、できれば聖女にはならないで」
「え?」
「聖女ってね、幸せな最後はないの。マリーには幸せになってほしいから……」
それが、ロベルタの最後の言葉だった。
彼女の言葉は、マリーの胸に深く突き刺さった。
しかし、マリーは彼女の最後の願いを叶えることができなかった。
五年後、マリーは首席で聖女学院を卒業し、聖女ギルドの正式な聖女となった。
マリーが聖女ギルドに入ったのは、ロベルタの死の真相を知るためだった。
ロベルタの言葉を胸に、マリーは今日も聖女として生きている。
毒の剣と濃硫酸の瓶を携えて、人殺しをする毎日を送っているのだった。