第1話 わたしが大切にしている三つのこと
〈わたしの販売員としての心得〉
1.購入をする際に自分で選んだという満足感を得てもらうこと。
それすなわち、店員の強引な接客ではなく購買意欲と生活にリアルな密接度を想像・連想させる義務が販売員にはある。常に自分で選んだという実感を買っていただく。
2.店員としての立場とリアルな私生活で感じる想いを言葉にのせ、お話の主導権を水面下でコントロールすること。
主体はあくまでお客さまであるが、流れを作るのは販売員の責務である。
3.会話からお客さまの背景を想像すること。
さまざまなお客さまの事情に寄り添って行わなければならない。なぜなら、お客さまは商品だけではなく、販売員に心を預けることでより商品に惹かれてゆくからである。リピーターとはこうして作られる。
わたし――安田美波――の背骨には三本の矢がまっすぐ伸びているに違いない。七センチのパンプスに、上質な紫のサテン素材のロングスカートを履いて、腰にはカーキ色のコルセットを巻いている。ピンと張った背中に、ボブヘアの艶のある黒髪を揺らし、耳にはゴールドの月のピアスをつけ、わたしは鏡の中の自分自身をチェックする。わたしは今日の肌のコンディションを確認すると「よし!」と言って鏡の前からヒールの踵を鳴らしてツリーハウスの外階段の扉を開く。
「アイツ、ったく」
木製の重い扉を開くと、外の空気をめいっぱい吸う。と、同時にため息がもれるのはいつものことだ。わたしの口からこの単語が毎日出るようになってから少なくとも一年が経った。この世界にやってきて、それなりの月日が経過したということだ。我ながら適応能力が高くてよかったと思う。なにせたった一ヵ月で出資者を見つけ、紆余曲折を経てここまで事業を展開できたからだ。それはともかく、遠くない未来でわたしの履いたパンプスが木製の階段を貫く日がやってくるかもしれない。上で寝ている出資者のことだ。
「いい加減、起きて! ブラック社長が! このペテン師が!」
わたしはドアを蹴破るくらいの気持ちで上の部屋に乗り込んだ。怒りに任せた声で、木々にとまっていた野鳥たちが一斉に羽ばたく。その光景を尻目に、わたしは散らかった部屋の端っこ、布団にくるまったその男に再び怒声を浴びせる。
「起きろ! 道具屋は、百貨店は朝が命! 当店の三大義務と販売員の心得にサインしたのはあんたでしょ!」
わたしの限界すれすれの声にも負けず、むしろまったくの無傷のようだった。いびきを立てているその男に呆れ果て、結果としてわたしの華奢なヒールが釘を打つように前に進むわけで。
「いい加減にして、明日こそ起きるって言って何回目よ!」
わたしは限界がもうすぐそこまで見えていた。怒りに任せるのはわたしとしてはあまり好みの方法ではないのだけれど、臨界点に追い込まれた人間に余裕はない。わたしの履いたヒールが、スパイクのように布団に突き刺さってゆく。
「ん、ぎゃ! 痛い、無理、尖ったその靴で刺さないで!」
「あんたがそれを言えた立場か!」
ようやく布団から顔を出したメタリックシルバーの頭髪の男は、上半身裸で体を起こし、目を細めて呑気に欠伸をしているではないか。火に油を注ぐとはこのことだ。しかしわたしはこれ以上自分の感情に呑まれたくなかった。
「おはよう」
「おはようございます、ルイスさま」
彼がわたしに焦点を合わせて首を垂れるあいさつに、なるべく冷ややかかつ、重みをもたせる言いかたをした。しかしどうにも。出資者はのんきに再びあくびをして見せて、再びベッドに根を張ろうとする。それを見逃すほどわたしは優しくない。
「いい加減に、しやがれ!」
「ひん!」
「アンタね、一年前のこと忘れてないんだから! お金もあるからって言って出資してもらうことになったけど、どこにお金があったのよ! 結局この店だって私が「異世界転移者」だからって王宮に最低限用意してもらったじゃない! それだって返さなくていいって言われてるけど借金だったのよ! こっちの世界じゃハロワと労基、国を利用すればなんだってできてたのよ! このペテン師が!」
早口言葉を無理矢理十回言ったときみたく息が切れた。ルイスは「異世界用語で責めないで!」と言って、みけんにしわを寄せている。わたしは思わず頭を押さえる。この世界に労働基準局なんてものはないし、せいぜいわたしに用意された道は異世界転移者を丁重に扱う王家に頼るくらいのものだ。しかしわたしはそれをあまりよしとしていない。ビジネスマンとして借金はしても、施しを受けるというのは違う。プライドがそれを望まない。
「とにかく、十五分以内に用意。それから掃除、オープン作業。いい?」
「わーったよ、もう。この人コワい」
あまりわかってもらっていない様子にはすっかり慣れて、わたしは急いでその場を後にした。この期に及んで二度寝などしようものなら、わたしはたぶん彼の息の根を止めるくらいの覚悟はある。すでにこのウエストツリートップストア一号店には長蛇の列ができている。
「ほんっと、なんなのよ。もうオープンの時間だってのに」
ルイスに対しての言葉のはずが、この世界にやってきたことに対する呪いの言葉としても出力された。わたしがこうなったのには、それなりの理由があるみたいなのだけれど。その理由とやらにはまだ納得できていない。
〈おはようございます。本日もウエスツリートップストア百貨店にご来店いただき、誠にありがとうございます。まもなく開店いたします〉
アナウンス用の魔道具が声を発し、外に並ぶお客さまたちを出迎える用意をする。従業員もそろっている。あとは、あのルイスだけなのだが、それはともかく。
〈いらっしゃいませ。ウエストツリートップストア百貨店、ただいま開店でございます。本日もごゆっくりお買い物をお楽しみください〉
お店がオープンすると、一階と二階でお客様を出迎える。スタッフは皆左手を上に両手を重ね、お客さまに開店の一礼をした。
「例の魔よけの香りはあるかしら?」
「かしこまりました。デフューザーでございますね。香りは五種類の用意がございまして、よければお試いただけますのでご覧ください」
「私ね、農家なんだけどこれを使うと家畜が元気になるってのもお隣さんから聞いたのよ」
「魔物の嫌う香りと、魔力の循環が魔物以外の生物にはとてもリラックスできるようにつくられています」
わたしはさっそくお客さまをご案内し、他のスタッフたちも接客についていることを確認する。その隅で用意を終えたルイスがフロアに出てきた。先ほどの寝ぐせ爆発と違って、ルイスはキレイに身なりを整えていて、メタリックシルバーの頭髪を整髪料で整えている。縫製屋でオーダーしたグレーのスーツを身にまとっていた。わたしはいつも思うのだが、こうしていればモデルに適した、それこそアパレル界では歩くマネキンとしてふさわしい。お客さまへの配慮がもっとできればよいものなのだが、それはこれから徹底的に叩き込むつもりだ。
わたしは仕事が好きだ。
しかし、わたしは今知らない世界にいる。ここには日本もアメリカも、イギリスもドイツもなければナチスもシャネルココもいない。ネイル文化もなければ、百貨店もない。あるのは広大な自然と、王都リバープールというイギリスの首都に限りなく近い名前の都、そして世界大戦後の傷跡と、与えられたいとまくらいのものだ。
だからわたしは決めた。
この世界で百貨店を開き、異世界でもキャリアウーマンとして生きることを。