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雲隠

紫式部(生没年未詳)。

平安中期の女房にょうぼう。藤原為時のむすめ

 晩秋の頃である。

 ここは瀬田川の近くにある石山寺。

 その本堂に隣接する部屋に紫式部は座っていた。

 ぼんやりと夕焼けの空を眺めているのだ。

 何もせずに空を眺める日が3日続いた。

 それもいいであろう。

 なにしろ、『源氏物語』を完全に書き終えたのだ。

 事をし終えた満足感に浸りながら、ゆっくり休むのも悪くない。


 最初は、悲しい現実を忘れようとして書き始めた掌編だった。

 だが、書けば面白い。

 女官たちも喜んでくれた。

 それで欲が出て、とうとう壮大な物語となっていった。

 そして、身をすり減らすような日々が続くこととなったのだ。

 中宮彰子までもが物語の続きを待つようになると、もうこれは止めることはできない。

 尋常でない執筆の作業が続いた。

 身も心も疲れ果て、とても筆を握れない、という日でも書き続けた。

 ほとんど地獄の責め苦である。

 それでも、いつかは終わりがくる。

 とうとう書き上げたのである。

 紫式部は、ほっとして硯の脇に筆を置き、書き上げた紙を机に重ねた。


 そして――。

 惚けて空を見続けるのであった。

 3日の間、空を見続けた――。

 3日目の、入相の鐘の声が聞こえる頃――。

「よろしいかな」

 声をかけて住職が入ってきた。

「あ、これは」

 座り直そうとする紫式部を住職は手で制した。

「そのまま、そのまま」

「有り難うございます」

「空がきれいじゃのう」

「はい」

「もう、疲れは取れましたか?」

「そうですねぇ……」

「大きな事をなさった後じゃ。ゆっくり養生されるがよい」

 紫式部は、黙って頭を下げた。

「じゃが、養生せよ、と言うのと矛盾するようだが」

「は?」

「どうも、客が参ったようでな」

「客?」

「うむ。会わずにはなるまい。そして、また疲れることになろうかな。わしはいない方がよいだろう」

 住職は、この言葉を残して部屋を出て行った。

 紫式部には、何の事だか分からなかった。

 だが、部屋の奥にその男が座ったとき、すべてが分かった。

 冠に束帯そくたいという大将の麗姿れいしをした、輝くばかりの顔つきの男である。

「あなたは……」

 紫式部が、先ず声を出した。

 どうしても先に話しかけなければならない、と紫式部は悟ったのである。

 男は、深くて艶のある声で言った。

「光源氏でございます」

「なぜ、此処へ」

「何よりもまず、お礼を申し上げます」

「お礼ですか?」

「はい。おかげさまで生を得ることができました」

「そう言っていただけると、私も嬉しいです」

「お礼は、お礼として……」

 光源氏は言葉を濁した。

「何ですか?」

「そのう……、お願いがあります」

「何でしょうか?」

「申し上げにくいことですが、最後の巻は、反故にしていただけませんでしょうか」

「最後の巻? 『雲隠』ですね」

「はい。私が死ぬ巻です」

「それを反故にするとは……、死ぬところをあからさまにして欲しくない、のですか」

「ええ。光り輝く私にとって、死ぬ場面はふさわしくないのではないでしょうか」

「しかし、誰でも死にます。それですべてが完結するのです」

「分かっております。小野小町の最後のように、光源氏の最後を書いて世の無常を訴えるのですね」

「色即是空、空即是色」

 紫式部は呟いた。

 世の中は無常に満ちているのだ。

 末世の今は悲しみしかない。

 そこまで書いてこそ、物語が完成したといえるのだ。

 光源氏は、紫式部の心を読みとったように話し続けた。

「世の中が無常に満ちている……」

 光源氏は真顔になった。

 女を虜にする美がさらに映える。

「……、だからこそ、せめて物語の世界では夢を見たいのではありませんか」

 紫式部は、光源氏を睨め付けた。

 世の無常の事、せめて物語の中で見る夢の事を、自分が書いた物語の主人公ふぜいに言われる筋合いはない。

「言葉が過ぎました」

 光源氏は、深々と頭を下げた。

「私の我が儘だったようです」

 光源氏の目から涙が、一筋落ちた。

 紫式部は、須磨へ下る時の光源氏の顔を思い出した。

「失礼しました……」

 光源氏は消えた。

 部屋は暗くなった。

 空には残照があったが、星も、もう幾つか出ている。

 紫式部は座ったままであった。

 机の上に重なっている物語の『雲隠』の巻を思い出す。

 その巻には光源氏の死が細かく書いてある。

 それは小野小町の死に対比するものであった。

 絶世の美人の小野小町も、ついには老いて死んだ。

 輝く光源氏も、最後には、その輝きが消える。

 紫式部は、『源氏物語』の最後の巻で、仏教的無常観を書いたのだ。

 これで完成した、と満足したのである。

 だが、しかし……。

 光源氏の言うとおりかもしれない。

 人は、夢を見るために物語を読むのだ。

 仏教的無常観なぞ、出家した誰かが日記に書けばいいではないか。

 紫式部は、『雲隠』の巻を取り上げた。

 そして、細かく破く。

「でも、巻の名前だけは残しておこう」

 それが作家の矜持であった。



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