約束
約束を守る、これは、幻夢の世界でも大切な事です。
もし、ダブルブッキングしたら?
謝るしかありませんな。
幻夢の世界で、謝って済むかどうかは、分かりませんが。
その日は平日であった。
そのためなのだろうが、上野公園には人影が少なかった。
地元の人が数人、立っている。
音大の学生とおぼしき若者が、三々五々、歩いている。
それだけであった。
生島守夫は不忍池へと下りていった。
池の畔も、やはり人が少ない。
所在無げな老人がいるだけであった。
みやげ物屋も閑散としている。
あのときは、人また人で混雑していたのに……。
なにしろ、修学旅行の団体が、複数、集まっていたのだ……。
生島守夫は約束の場所を探した。
池が、ちょうど曲がっている所――。
上野の森を左に見て、右手に道路が見える所――。
それが約束の場所であった。
そこのベンチに座り、周囲を見回す。
3つ先のベンチに老人が座っており、それ以外には人が見えなかった。
懐かしい……。
上野の森は10年前と同じである。
だが、右手の道路の方は激変していた。
マンションが林立しているのだ。
時代はどんどん変わっている。
だが、変わらないものもある……。
変わらない、というよりも、変えてはならない……。
生島守夫は感傷に浸っていた。
そんな年でもないのだが。
生島守夫が梅田陽子に会ったのは10年前。
生島守夫が中学3年のときである。
場所はここ、不忍池。
生島守夫の家は、浅草に店を持つ老舗の菓子屋であった。
商家の長男として、生島守夫は、計数能力を自然と身につけていた。
それで、不忍池にある、知り合いのみやげ物屋で手助けをしていたのだ。
その日、多くの修学旅行生で店は混雑した。
客が差し出す商品の束を見て素早く合計金額を計算する――。
金額を言い、札を受け取り、瞬時にお釣りを計算する――。
商品を包装し、お釣りと一緒に渡す――。
これの繰り返しである。
客の顔など見ている暇はないのだ。
顔を見る暇がない、はずである。
だがしかし顔が見えたのだ。
顔どころではない、全身が……。
修学旅行生なので、みんな、同じブレザーを着ている。
だが、彼女のブレザーだけは奇麗に見えた。
そして、彼女の顔は光り輝いていた。
長い髪――。
濡れた瞳――。
可愛い唇――。
生島守夫の周囲から、すべての色が消えた。
彼女だけに色がある。
濃紺のブレザー、緑の髪、黒い瞳、桃色の唇、そして、白く輝く歯。
しかし見とれているわけにはいかない。
客たちが商品を差し出しているのだ。
生島守夫が彼女を見て、目が合ったのは、ほんの一瞬でしかない。
その一瞬で十分であった。
30分後、休憩時間となった。
あわただしく交代すると、生島守夫は店の外へ飛び出した。
池の畔に彼女がいた。
生島守夫は、臆面も無く、近づいた。
「やぁ、僕、生島守夫です」
「梅田陽子と申します」
梅田陽子は、丁寧に挨拶した。
そのとき、はるか向こうで、引率の先生の声がした。
「ようし、時間だ、出発するぞ」
生島守夫は、あわてた。
「あ、あのう、10年後、この時間、この場所で、また逢いませんか」
梅田陽子は頷いた。
そして、先生の方へ歩いていった。
一度だけ、振り向いて……。
それから、生島守夫は商学部を卒業し、京都の老舗へ、修行に行った。
家を継ぐための勉強である。
そして今、若旦那となって店に戻っているのだ。
この間、不忍池へ来ることはなかった。
わざと来なかったのである。
たった一瞬の約束の場所を大切にしたかったのだ。
この10年間、ガールフレンドは、何人もいた。
しかし、梅田陽子は、誰とも違う、特別な存在であり続けた。
もっとも、梅田陽子の方が、生島守夫を特別な存在と思い続けているのかどうか?
それは別問題である。
生島守夫は時計を見た。
もうすぐ、別問題の答えが分かるであろう。
背後に足音がした。
妖艶な香水の匂いがする。
生島守夫の前に女性が立った。
「お待たせしましたわね」
それは、肩まで髪を伸ばした女性であった。
瞳には妖しい光がある。
見つめると引き込まれそうだ。
唇は、薄い。
男をそそる形だが、誘いに乗れば、食べられてしまいそうな色である。
色といえば、肌は白い。
凄みのある白さである。
若い男として、生島守夫は、目の前の女性が持つ性的魅力に圧倒された。
女性は、軽く口を開き、舌で唇を舐めた。
舌が、紅い。
濡れた唇を見て、生島守夫は我に返った。
「き、君は……、梅田陽子さんじゃ、ない」
「梅田陽子? 誰、それは?」
「ああ、どうも失礼しました。人を待っていたものですから」
「あなたが待っていたのは、私でしょ」
「え?」
「ありがとう。約束を忘れなかったのね」
「約束? お人違いじゃないですか」
「あら、忘れたの? あんなに固く誓った約束を」
女の目が金色に光った。
生島守夫は、その目に魅入られていた。
「心が忘れても……」
女は、生島守夫の手を掴んだ。
「……、身体は忘れていないわよね……」
女の手は、湿り気を帯びていて、そして暖かかった。
「……、300年後に、ここで逢う約束、ずっと楽しみにしていたのよ……、私……」
女の手から、艶冶な快感が浸入してきた。
そして、生島守夫は思い出した。
はるか昔の、前世のことを思い出したのだ。
それは、徳川家光の時代であった。
大奥に勤める絵鳥は名代として寛永寺に参詣した。
そこで、学僧の天島と相思相愛となったのである。
もちろん、この恋が許されるものではなかった。
二人は、不忍池の畔で心中した。
300年後に逢おう、と約束して……。
「……、思い出したでしょう……」
「あ、ああ……」
「さあ、二人だけの世界へ、参りましょうよ」
女は生島守夫の手を引いた。
生島守夫は、されるがままに立ち上がった。
二人の世界を期待して、生島守夫は心がはずんだ。
ただ、ほんの少し、約束を破る羽目になった梅田陽子に、すまないと思った。
老人は、一瞬、驚いた。
3つ先のベンチで、女が男の手を握ったと思ったら、二人とも消えてしまったのだ。
老人は、目をしばたたき、見間違いだ、と自分自身に言い聞かせた。
なにしろ、最近、目も耳も悪くなっているのだ。
そんなわけで、別な女性が3つ先のベンチへ来たときは、今度はしっかり見よう、と思った。
女性が、ずっと座り続けているのを、辛抱強く見ていた。
2時間後、女性が、肩を落として歩み去るまで、見続けていたのである。