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リゾートホテルの夜

盲目より悪いことがある。そこにないものを見ることだ。

                   トマス・ハーディ

 山中真一は、ぼんやりとテレビを見ながら、ビールを飲んでいた。

 湯上りの火照った体に、ビールが美味い。

 あとは、新藤まり子が、風呂から出るのを待つばかりである。

 山中真一は、時の流れを感じて、苦笑した。

 山中真一は、今年、大学を卒業して就職した、社会人一年生である。

 時の流れを感じる――、というほどの年ではないのだが、昨年と今年では、大きな違いがあるのだ。


 昨年、ゼミの仲間とこの海水浴場へ来たときには、民宿へ泊ったのであった。

 今年は、外資系リゾートホテルのダブルルームである。

 このホテルは人気が高く、夏の盛りに予約を取ることは、まず、不可能であった。

 それが、山中真一が就職した大手商社のコネで、泊れたのである。

 新入社員でも会社の恩恵がある――。

 山中真一は、社会の仕組み、大手商社の凄味に、感心していた。


 昨年、民宿のテレビで見ていたのは、サッカーばかりであった。

 それが、今見ているのは、経済番組である。

 社会人になった途端、Jリーグの順位よりも、株価の動向に関心が移ったのだ。


 昨年、ゼミ仲間の新藤まり子は、遠い存在であった。

 新藤まり子には、三田村貴史というボーイフレンドがいて、公認であった。

 山中真一は、遠くから、ミス平錦大の新藤まり子の美貌を眺めるだけであった。

 それが、今、新藤まり子が風呂から出るのを待っているのである。


 カーテンを開けてある窓の外には、海が広がっている。

 月が、海の表面に映っている。

 ときどき光るのは、浜辺で打ち上げている花火であった。

 ムードは満点だ――、と山中真一は思った。

 ルームサービスで、ブランデーとカナッペを頼んであった。

 大人の甘い夜は、ブランデーでなければならない――、と山中真一は思っているのである。

「お待たせ――」

 新藤まり子が、風呂から出てきた。

 山中真一は、新藤まり子を見て、唖然とした。

 新藤まり子は、ピンク色の、透き通るネグリジェを着ているのだ。


 新藤まり子は、山中真一の脇にすわると、自分でビールを注ぎ、飲んだ。

「美味しいわ」

 山中真一は、気まずそうに、身を固くした。

 山中真一の予定では、次のようになるはずであった。

 新藤まり子が、風呂から出てくる。

 山中真一は、両手を差し出し、新藤まり子の両手を、優しく握る。

 そして――。

「湯上りの君は、綺麗だ」

「そうかしら」

「もちろん」

 山中真一は、新藤まり子の顔を上に向け、優しくキスをする。

 両手を、新藤まり子の腰にまわす。

 ディープキス。

 そして――。

 新藤まり子を、窓際へと誘う。

 ベッドを期待していた新藤まり子は、首を傾げる。

 山中真一は、窓の外の海、月、花火を、新藤まり子に見せる。

「どう? 綺麗じゃない?」

「本当ね」

「でも、君の方が綺麗だよ」

「まあ、嬉しいわ」

 そして――、熱い抱擁。

 しばらくして、ドアのチャイムが鳴る――。

「あら、誰かしら」

「僕が、見てくる」

 山中真一は、ブランデーとカナッペが載ったカートを押して、部屋へ戻る。

「ブランデーだ。 夏の夜は、まだ長いよ」

 これが山中真一の予定であった。

 予定の中では、風呂から出てくる新藤まり子は、ジャージを着ているはずであった。

 昨年のゼミ旅行では、新藤まり子はジャージを着ていたので、その先入観があったのである。

 それが、女性の魅力を数倍に増加させる、透き通ったネグリジェ。

 予定は狂ってしまった。


 気まずそうな山中真一の様子を見て、新藤まり子が聞いた。

「ねぇ、シンイチ、気にしているの?」

「それは、マリリンの方じゃないのか?」

「もういいの。死んだ人は帰らない」

「死んだ、といっても、死体が見つかってない……」

「ありがとう。どこまでも優しいのね」

「……」

「でも……、この辺りの河口や海は、潮の流れで死体が出ないことが多い、と地元の人が言っていたじゃない」

「うん」

「タカシのことは忘れた、といえば嘘になるわ……」

「そうか……、やはり……、それなら……」

 山中真一は、複雑な思いで、新藤まり子を見た。

 テレビの画面では、FRBの議長が、議会証言をしている。


 山中真一、新藤まり子、それに三田村貴史は、平成錦秋大学文学部国文科の同級生であった。

 昨年、他のゼミ仲間と一緒に、総勢7人で、この海岸へ合宿に来たのである。

 もちろん、海水浴が目的であったが、名目は、ゼミの研究旅行であった。

 ゼミの教授の話では、この地の河口には河童の伝説が残っているのであった。

 次のような伝説である。


 この海岸に、貧しい若者がいた。

 海岸に住む人々は、網元の指揮下で、海に漁に出て生活していた。

 だが、貧しい若者は、網元の指揮下に入れず、ほそぼそと、河口で漁をするだけであった。

 ある日、若者は、川岸に倒れている旅の娘を発見した。

 娘を家へつれて帰り、看病した。

 娘は、都で縫製を習っていたと言い、助けてくれたお礼だとして、網を作った。

 その網を使うと、これまでの数倍の魚が獲れるのであった。

 若者は、裕福になった。

 娘は若者の妻になった。

 やがて、二人の間には子供も出来た。

 妻は、若者に献身的に尽くしたが、ただ一つだけ、譲らないことがあった。

「私が網を修理しているときだけは、どうか、覗かないでください」

 覗くな、と言われると覗きたくなるものである。

 若者は、こっそりと障子を開けて、覗いた。

 そこにいたのは、川に棲む河童であった。

「正体を知られたからには、もう、この家にはいられません」

 河童は、片目を取り出すと、若者に渡した。

「子供がお乳を欲しがったら、その眼をしゃぶらせてください。では、さようなら」

 子供が乳離れした後、若者は、河童の片目を、地元の寺へ奉納した。


 これが伝説である。

 今でも、河口付近で、中心が黒くなっている丸い石が見つかることがある。

 それは、河童の片目であり、その石を見つけた者には幸運が授かる、ということになっていた。

 似たような伝説は、日本各地にある。

 ゼミの教授の話では、この地の伝説は、各地に伝播する前の原型を留めているそうなのであった。

 この伝説を調査しよう、ということでこの海岸へ来たのである。


 3日間、たっぷりと海水浴を楽しんだ後、そろそろ、調査しようか、ということになった。

 しかし――、調査は不可能であった。

 海岸は、海水浴場として整備されている。

 海水浴場の隣の漁港には、冷凍倉庫が立ち並んでいる。

 浮世絵にあるような、松並木の海岸線は、どこにもないのだ。

 河口の両側には、住宅がぎっしりと建っている。

 河童の片目を奉納した寺は、外資系リゾートホテルになっている。

 ただ一か所だけ、河口付近に、マコモが茂る場所があった。

「ここなら河童が出てきそうじゃないか」

「でも、右を見ろよ。漁港のクレーンが見えるぞ」

「左には、高層ホテルだぜ」

「河童も逃げ出すだろうなぁ」

「伝説の調査をした証拠に、河童の目くらいは探すか」

「河童の目?」

「中心が黒い、丸い石さ。幸運が授かるそうじゃないか。教授が言っていたろう」

 三田村貴史が、新藤まり子に言った。

「マリリン、河童の目を取ってきてやるぞ」

 アメフトをやっている三田村貴史は、体力には自信があった。

 ガールフレンドにいいところを見せようとして、マコモを分けて川へ入った。

 そして――、そのままになったのである。

 大々的に捜索が行われたが、ついに、三田村貴史を見つけることはできなかった。

 山中真一たちは、事件の後で、この河口は危険地帯だと知らされた。

 水面は穏やかだが、川は、かなり深いのである。

 しかも海の潮汐で、底付近の流れは複雑なのであった。

 うっかり川へ潜ると、潮の関係で海へ引きずられ、そのまま深海まで持って行かれてしまうのだ。

 こうしたことが河童伝説につながったのであろう。

 だが、このことを知っても、後の祭りである。

 三田村貴史は、帰ってこない……。


 この不幸な事件で、ただひとつ救いがあった。

 山中真一の本質が分かったことである。

 山中真一は、ゼミ仲間の中では、目だたない方であった。

 ミス平錦大の新藤まり子、アメフトを優勝に導いた三田村貴史、といった面々に囲まれて、彼は、平々凡々な大学生、という印象でしかなかった。

 だが、三田村貴史が溺れた、という事件で、彼は冷静沈着な行動をしたのであった。

 いち早く警察に連絡した。

 警察と地元消防団の捜索では、邪魔にならないようにしながら、適切なアドバイスをした。

 また、ゼミの教授と大学事務室にも連絡した。

 あわてて駆けつけてきた三田村貴史の両親の宿を手配した。

 そして、気が転倒しているゼミ仲間を落ち着かせ、新藤まり子を慰めたのである。

 ついに捜索が打ち切られたとき、新藤まり子が、山中真一に言った。

「シンイチ、ありがとう」

「残念だよ」

「あなた、立派だったわ。見直したわ。ごめん……、見直した、は失礼かな」

「いいさ」

 こうして、山中真一と新藤まり子の交際が始まった。

 卒業して職場は遠く離れたが、二人の距離は縮まった。

 そして、婚約の話が出てきた。

 だが、山中真一には、やらなければならないことがあった。

 新藤まり子の、本当の気持ちを確かめることである。

 本当の気持ち、つまりは、まだ三田村貴史のことが忘れられないかどうか、を確かめるのだ。

 昨年と同じ場所で、昨年と同じ日に、新藤まり子の気持ちを確かめよう……。

 もし忘れられないのなら、自分は身を引こう、と思っていた。

 悲しみの心のスキを利用するのは、卑怯ではないか。


 山中真一は、こうしたことを、新藤まり子に話した。

 透き通ったネグリジェから、目をそらす。

 心が通わないなら、ミス平錦大の肢体を見てはならないのだ。

 新藤まり子は、やさしく微笑んだ。

「シンイチは、どこまでも優しいのね。そして、真面目」

「……」

「忘れたといえば嘘になる、と言ったでしょう」

「うん」

「忘れはしないわ。でも、生きている者は、生きなければならないのよ」

「生きなければならない……」

「そう。そして、幸せになることが、死んだ者への供養になるのよ」

「幸せになる……」

 新藤まり子は、苦笑して、続けた。

「生きる、死ぬ、供養。年よりくさい言葉よね。でもね……」

「でも?」

「タカシの事件で、こうした言葉の意味が分かったわ」

「マリリン、成長したんだ」

「生きて……、死んで……、また生まれる……」

 新藤まり子は、山中真一にしがみついた。

 耳元でささやく。

「あなたの子供が産みたい……。新しい命……」

 そのとき、チャイムが鳴った。

「あら、誰かしら」

「僕が、見てくる」


 ブランデーとカナッペを想像してドアを開けた。

 廊下に立っていたのは、全身がずぶ濡れの若い男であった。

「おまえ……、三田村……」

「やっと見つけたぜ。ほら、河童の目」

 水草がまとわりついた男の手には、丸い石があった。

 中心が黒い。

 

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