霧の中から
色即是空 空即是色
(般若心経)
榊原幸子は、膝まで草に覆われながら、目の前に広がる沼を見続けた。
疲労で熱がある。
目眩もする。
だが、ここで倒れるわけにはいかない。
もうすぐなのだ。
空が明るくなってくる。
夜が終わろうとしているのだ。
分厚い森林に取り囲まれた沼も、次第に見えてきた。
碧色の沼の水は、硬く、動かない。
たっぷりと湿度を含んだ空気が、沼の水面に霧を作っていた。
鳥の鳴き声が、悲鳴のように聞こえる。
霧が、動き出し始めた。
「いよいよだわ」
長いこと待ち続けた瞬間が、もうすぐ来るのだ。
榊原幸子の家系は、どういうわけか、健康にすぐれなかった。
祖父は、若くして結核で死んでいる。
祖母は、遺伝系の難病に、生涯を苦しめられた。
母親は、榊原幸子の弟を産むときに、死んでしまった。
弟も、この世の光を見ていない。
父親は、榊原幸子が大学を入るのを見届けると、癌で逝ってしまった。
榊原幸子も、身体にいろいろな故障を抱えていた。
色盲であり、心臓が弱い。
少し激しく体を動かすと、すぐに発熱する。
目眩を起こすことも多い。
それでも、ある種の漢方薬を飲み続けた効果があったのであろう、なんとか成人になることができたのであった。
この漢方薬は、母親の遺産ともいうべきものであった。
身体が弱い家系に生まれた娘の将来を心配した母親は、いろいろと勉強して、この漢方薬を見つけた。
これを飲み続ければ、虚弱体質を補ってくれるはずであった。
まだ小さい娘に漢方薬だけを残し、母親は世を去ってしまった。
花嫁姿の娘を見ることもなく……。
もっとも、榊原幸子は、花嫁衣装を着ることをあきらめていた。
色白で、どこか翳のある雰囲気は、男からみればそそられるのであろう。
声をかけられることは何度もあった。
だが、それに応じることはなかった……。
父親の生命保険で漸く大学を卒業すると、ソフト開発をしている小さな会社へ入った。
これなら、座ったままで仕事ができる。
そして数年――。
仕事は順調であった。
体調も、小康状態を得ている。
もう少し、生きられそうであった。
そこで、榊原幸子は、かねてより考えていたことを実行することにした。
死んだ母親と話すのだ。
榊原幸子にとって母親の思い出は、ほとんどない。
母親が残してくれたのは、漢方薬だけである。
そのおかげで、なんとか大人にまでなれた。
母親と話をしたい……。
大人になれた報告をしたい……。
では、母親と話すにはどうしたらいいのか?
榊原幸子は、先ず、恐山へ行った。
恐山――、下北半島にある霊場である。
通称〈いたこ〉と呼ばれている巫女が、死者の霊魂を呼び寄せてくれる、ということで有名なのだ。
死者は、〈いたこ〉の口を通して話をしてくれる。
榊原幸子は、憑依した〈いたこ〉の言葉に、熱心に耳を傾けた。
しかし、「違う」と榊原幸子は思った。
直接、母親と話をしたいのである。
母親の霊魂に出会う方法はないのか。
榊原幸子は、日本全国を訪ね歩いた。
霊魂を呼び寄せる方法を知る者を探したのである。
驚いたことに、そのような職業の者は多数存在した。
日本古来の神道で霊魂を呼び寄せる――。
密教の誦呪で死者を蘇らせる――。
道教の秘呪で聖水の水面に死者が現れる――。
拝火教の摩訶杉の炎で魂魄を招来する――。
じつにさまざまな方法で死者と連絡を取る方法があるのだ。
そして、それらが商売として成り立っている。
榊原幸子は、次から次へと、それらを試してみた。
だが、どれひとつ、満足するものはなかった。
ほとんどがインチキであった。
そうこうするうちに、「あの人は本物だ」という噂が耳に入ってきた。
その人の名前は、白井進。
引退した神主であり、超一流の呪術師でもあるということであった。
ようやく探し当てた白井進の家は、郊外の新興住宅街にあった。
まだ新しい家に付いている表札は、白井進ではなかった。
息子夫婦の家なのである。
普通の建て売り住宅であった。
呪術を行う祈祷場の雰囲気など、微塵もない。
そもそも、白井進という名前じたい、呪術師といった職業を感じさせるものではない。
榊原幸子が通された白井進の部屋も、まだ木の香が新しい、普通の和室であった。
普通の、隠居している老人の部屋。
ただ、壁に注連縄が貼られている。
この素朴さゆえ、榊原幸子は、かえって、「これは本物かもしれない」と思うのであった。
白井進は、七十代の、腰の曲がった好々爺であった。
榊原幸子は、死者の国にいる母親と、どうしても話をしたいと、切々と訴えた。
「なるほど、どうしても、ですか?」
「はい。ここまで生きてこられたことを、報告したいのです」
榊原幸子の熱心さにほだされた白井進は頷いた。
「私が知っている招魂の方法は、一つだけです。貴顕沼というのがありましてな」
白井進は、話を始めた。
平安時代中期の事である。
関東地方には、平将門という武将がいた。
呪術師としても一流であった。
だが、それが、都の陰陽師たちの妬みを買うこととなった。
陰陽師たちは、平将門が反乱を企てていると帝に告げ口をした。
都から追討の軍が送られて、激しい戦いの末、平将門は滅ぼされてしまった。
平将門の客将であった平守貞は、東北地方へ逃げて、そこに砦を築き、都の軍勢と最後の戦いをした。
平守貞も、とうとう討ち死にし、後に残されたのは、砦と、砦を囲む堀だけであった。
堀は、長い年月のうちに、森林に囲まれた沼となった。
そして、この沼に、平守貞の魂が出るようになったのである。
「平守貞は、強い霊力を持っていましてな。肉体が滅ぼされた後も、その砦に魂が残ったのですよ」
白井進は、淡々と話す。
だが、それだけ、話には真実味があった。
「それ以来、尊い魂が顕れる沼、ということで貴顕沼と呼ばれることになりましてな」
そして、この沼は禁忌の場所となった、と白井進は説明した。
鎌倉時代から戦国の世まで、誰一人、この沼に手をつけようとした権力者はいなかった。
江戸時代は、天領として保たれていた。
やがて明治時代となるとともに、廃仏毀釈があり、社会や産業構造が変わり、その場所自体が忘れ去られていった。
なんの魅力もない山の中の、少し大きい沼として、地図に記されている、ただそれだけの存在となったのである。
この沼の秘密を知るのは、地元の古老と、呪術を扱う者だけとなった。
「今でも、貴顕沼に平守貞の魂は漂っています」
「平守貞の魂に頼めば、母に会えるのですね」
「死後の世から人を呼び戻す。平守貞にとっては簡単なことですわな」
「どうやればいいのです?」
白井進は、榊原幸子を凝視した。
「失礼だが、お嬢さん。あなたの身体では、貴顕沼へ辿り着くのも難しいと思いますがな」
「私は行きます。母に会えるなら……」
「そうですか、心は決まっているのですな。では、教えましょう」
白井進の眼光が鋭くなった。
「星宿、乙卯の日の夜明け前に貴顕沼へ行きなさい。もし、その日が晴れていたならば、沼に霧が立ち込めます」
榊原幸子は、熱心に聞いた。
一言も聞き漏らしがあってはならないのだ。
「太陽が出てくれば、霧が動きます。霧を分けて平守貞が現れます。そこで、『お頼み申します』と大声で呼びかけなさい」
「分かりました」
「平守貞が答えれば、あとは、願いを伝えればよい」
榊原幸子は、手順をしっかりと記憶に刻み付けた。
「しかしですな……」
「は?」
「魂が宿る場所は、悪霊にとっても住み心地がよい場所でしてな」
「……」
「貴顕沼は鬼顕沼でもあるんですわ」
「鬼が顕れる沼、ですか?」
「そう。霧の中から鬼が出てくることもある。そのときは、『お戻りなされ』と大声で言わなければなりません」
「間違えて、もし鬼に『お頼み申します』と言ったならば、殺されてしまうのですね」
「もっと酷いことになる。霊冥界へ連れて行かれてしまいますな」
「?」
「人間は、いつかは死ぬ。お嬢さん、あなたも死にますな。五年後かもしれない、五十年後かもしれない、いつなのかは分からないが」
「それは、そうですね」
「死ねば、死後の世界でお母さんに再会できますな」
「はい。それは楽しみにしています。でも、生きられる限りは、この世で生きることが親孝行だと思います」
「鬼に霊冥界へ連れて行かれれば、お母さんと再会はできない」
「!」
霊冥界は、人間の生の世界、死の世界とはかけ離れた異世界なのだ、と白井進は説明した。
もし、鬼に『お頼み申します』と言えば、霊冥界へ連れて行かれる。平守貞の魂に同じことを言えば、願いを叶えてくれる。
もし、鬼に『お戻りなされ』と言えば、そのまま消えてくれる。平守貞の魂に同じことを言えば、二度と平守貞の魂は現れない。
そういうことなのであった。
「始末の悪いことに、霧の中から現れる姿形は、平守貞も鬼も同じでしてな」
「区別がつかないのですか?」
「朝日が差し込んだとき、平守貞の魂ならば、緑色に光るはずですわ。鬼ならば赤く光るはずです。くれぐれも、間違えないように」
榊原幸子は、考え込んだ。
「どうします。 貴顕沼へ行きますか?」
「行きます。母に会えるなら」
榊原幸子は、しっかりと答えた。
榊原幸子は、先ず、地図を調べた。
かなり詳しい地図で、やっと貴顕沼を発見した。
それも、山中にただ丸く沼が記してあるだけであった。
場所を確認すると、登山用具を買い整えた。
貴顕沼へ辿り着くには、道の無い山を踏破するしかないのである。
もちろん、登山用具を買うなどとは、榊原幸子にとって初めての経験であった。
そして――。
星宿、乙卯の日の前日、新幹線に乗った。
新幹線からローカル線に乗り換える。
ローカル線の終点で、バスに乗る。
バスが折り返す場所まで行く。
そこが、山の入り口であった。
登山用の整備もされてない山へ踏み込む。
前日の夕方までに沼へ辿り着き、そこでテントを張り、夜明けを待つ、というのが計画であった。
しかし、地図上の距離と実際は違う。
登山道の無い山である。
榊原幸子に登山の経験はない。
それでなくても、虚弱な身体である。
ただ一つ救いだったのは、晴天で満月が出ていたことであった。
月明かりの下で、地図とコンパスを参考に山を登っていった。
漸く貴顕沼へ着いたのは、真夜中であった。
沼の周囲は背の高い草に覆われていた。
テントを張る場所がない。
榊原幸子は、寝袋を被り、冷たい草の上に座ったままで夜を過ごした。
一日の山行は、榊原幸子にとって過酷な運動であった。
体中が熱く、疲労の極限となった。
もうすぐ母に会える、という期待の気力だけで座り続けていたのである。
動物はもとより、虫の気配すらしない、不気味な静寂の中で夜が進行した。
そして朝になったのである。
純白の霧が、水面を動き出した。
その動きに逆らうように、霧の一部が止まる。
止まった霧が人の形になる。
人の形は、どんどんと大きくなった。
榊原幸子は、人の形を見上げた。
人の形――、それは平安時代の人間のようでもあり、鬼のようでもあった。
どちらなのだろうか。
沼を覆う樹々の間から朝日が、一条差し込んだ。
榊原幸子が見ていると、白い人の形は灰色になった。
榊原幸子は色盲であった。
灰色が緑なのか赤なのか、判断がつかない。
白井進から話を聞いて以来、ずっと気にかかっていたことである。
どうやって見分けたらいいのだろうか?
周囲が明るくなる。
もうすぐ霧が消えそうだ。
決断しなければならない。
榊原幸子は、何回も深呼吸をした。
そして、霧に向かって大きな声を出した。




