墓守
もらった恩は岩に刻め
(山本五十六)
私がその男に、最初に会ったのは、小学校一年生の時であった。
田舎の広大な墓地で迷子になった時のことである。
どういうわけか、埋葬をしている大人たちと離れてしまい、墓地の中で独りぼっちになってしまったのだ。
広い墓地は迷路のようであった。
墓石は、林のように視界を遮っている。
死者の眠る場所に、只独り……。
子供の私にとっては、とてつもない恐怖であった。
その時、目の前に、男が現れたのである。
大男であり、髪の毛が肩まで垂れ下がっている。
男は、私を見下ろした。
男の顔は、異様に大きく、両目の間隔が広く、瞳がずれている。
私の恐怖は頂点に達した。
声も出ない。
「坊ちゃん、さ、こちらです」
男は、腕を伸ばすと、私の手を握った。
そして、私を引きずるようにして、歩き出した。
私の目の前には、男の太い腕があった。
その腕は、黒い毛に覆われている。
小学生の私は、声もなく歩いていた。
恐怖の限界を超えていたのだ。
男は、私を大人たちのいる所まで連れて行った。
母の姿を見つけた――。
次の日の夜明けになるまで、母の胸にしがみついて泣き続けたのを覚えている。
その次に本家の墓地へ行ったのは、中学生になった時であった。
大男の墓守に再会した。
髪の毛は肩まで垂れて、両腕は黒い毛に覆われている。
人の入らない深山で狩猟をしている山男、という感じの風貌であった。
本家の長老や寺の住職の指図に従い、愚直に埋葬の世話をしている。
愚直。
そうなのだ。
奇妙に両目の間隔が広く、瞳は斜視である。
私は、その墓守の男は知恵遅れなのであろう、と思った。
ただただ、言われた通りのことを愚直に実行するだけ――。
中学生の私に対しても、「坊ちゃん、失礼いたします」と、丁寧すぎる敬語を使っているのだ――。
尋常ではない。
どこか、頭のネジが緩んでいるのではないか、と思ったのである。
もちろん、こう思ったことを口に出すのは憚れることであった。
私の田舎の本家は、その地方では有名な富豪の庄屋であった。
その土地を治めていた大名さえも羨むほどの金持ちであった、ということである。
戦後の農地改革で、かなり貧乏になったということだが、それでもまだ、広大な土地を所有している。
現在でも、その地方一帯では、庄屋のような雰囲気を持ち、尊敬を集めている。
通称、「長者さん」とか、「猫の長者さん」と呼ばれている。
これには訳がある。
伝説によると、先祖は、名もない水飲み百姓であったらしい。
ほとんど食べるものがなく、木の芽や草を食べる生活が一年中続いている……。
稗や粟が手に入ったならば、もう信じられないくらいのごちそう、であったそうな。
そんなある日のことである。
先祖の青年は、金持ちの家の手伝いをして、ようやく、粟を一握り貰った。
雨降る道を、濡れながら、粗末な小屋まで帰るのだが、心は躍っていた。
なにしろ、久しぶりのごちそうが手に入ったのだ。
道の途中で、足が止まった。
猫の声がしたのである。
見ると、笹の間で子猫が鳴いている。
大きな口を開けているのだが、声は小さい。
泣き続けて、声がかすれているのだ。
袖振り合うも多生の縁――。
青年は、猫を小屋へ連れて帰った。
粟を煮ると、半分を子猫に与えた。
そして、まだ鳴いている。
結局、残りの半分も子猫に与えてしまった。
それから三日間、雨は降り続き、青年は、子猫を胸に抱いて暖め続けた。
子猫は鳴き続ける。
ひもじいのだ。
だがそれは、青年も同じ事であった。
どうにもこうにも、食べるものがないのである。
四日目、雨があがった。
猫は、一目散に小屋を飛び出していった。
青年は、その後ろ姿を、寂しく見つめた……。
だが、その夜、子猫が無言で帰ってきた。
無言。
そう、声が出せないのであった。
なぜなら、小判をくわえていたから。
それから毎晩、子猫は小判を一枚づつくわえてきた。
青年は大金持ちになった。
生来、優しい心を持っていた青年は、金持ちになっても、驕ることはなかった。
そして、ついには、「長者さん」と、慕われるようになった。
これが伝説である。
私の祖父は、兄弟の末の方であった。
父も、三人兄弟の末っ子である。
長者の家系からいえば、枝葉の末の末となろう。
それでも、家系は家系である。
遺骨は田舎の墓地に埋葬されるのが家の伝統であった。
本家の隠居が亡くなった――。
私の父が死んだ――。
叔母が世を去った――。
などなど。
その度ごとに、あの墓地で、壮大な埋葬の儀式が行われた。
平均すれば十年に一度くらいの割合で、あの墓地へ行ったことになる。
その間、私は成人となり、私の子供達が成長し、私自身は老いを感じるようになった。
だが、あの墓守は、いつ行っても、そのままであった。
髪の毛も、長く、黒いままである。
私は、白髪になったというのに。
たくましい体格もそのままである。
私は、腹ばかり出てしまったのに。
黙々と愚直に埋葬を仕切るのも、そのままである。
誰に対しても丁寧な言葉遣いをするのも、そのままである。
気が付いたとき、私は、きれいな花畑の真ん中にいた。
空気は甘い香りに包まれている。
声がする。
前方が金色に輝いている。
そこから声が聞こえるのだ。
なつかしい声。
夕餉を知らせる父の声である。
私は、金色の光に向かって歩き出した。
夕餉に遅れてはならないではないか。
その時、金色の光が遮られた。
目の前に、大男の墓守が立っているのだ。
「坊ちゃん、こちらですよ」
墓守は、腕を伸ばすと、私の手を握った。
そして、方向を変えて歩き出す。
墓守の腕には、黒い毛がびっしりと生えていた。
墓守の手の肉球は、暖かくて柔らかい。
ただ、するどい爪が、少し痛い。
脳出血であった。
あと五分、措置が遅れれば死んでいた、意識が戻ったのは奇跡に近い、と聞かされた。
一握りの粟を恩として、黒い子猫はいつまでも私たちの一族を守ってくれている。
ありがたいことだと思う。