誰?
あの子はだあれ だれでしょね
かわいいみよちゃんじゃ ないでしょか
(『あの子はだあれ』細川雄太郎)
石川良太は平成錦秋大学の二年生である。
大学へ入るまでは紀伊半島の山の中から一歩も出たことがなかった。
大学の受験で初めて東京に来て大都会の大きさと豪華さに腰を抜かしてしまったのであった。
平成錦秋大学は、渋谷から出ている私鉄の新清水寺駅で降り、そこからバスで十分の距離にある。
大学の周囲には緑が広がっている。
澁谷からここへ来れば、すごい田舎であると感じるであろう。
だが石川良太にとっては、郷里に比べてはるかに開けた土地なのであった。
私鉄の新清水寺駅は近年再開発されて生まれ変わった。
駅に隣接するショッピングモールは関東地方最大級のものである。
彼にしてみれば、やはり腰を抜かした場所であった。
そうしたわけで、大学の近くに下宿している石川良太が出かける場所は新清水寺が精一杯であった。
東京都心など、怖くてとてもとても近寄れる場所ではないのだ。
だが、用事があるとなれば、都心にも行かなくてはならない。
そういうわけで、その日、石川良太は都心を歩いていたのである。
彼は、山の中で伸び伸び育ったわりには背が低い。
健康的な食生活をしていたわりには太っている。
つまりは、正確に記すと、ずんぐりむっくり。
そんなに勉強をしていたわけでもないのに眼が悪く、メガネをしている。
彼は、こうした自分の体型にコンプレックスを持っていた。
それが東京都心を歩いているのだ。
スマートな地球へ迷い込んだ、ずんぐりむっくり星の宇宙人、という思いであった。
忙しそうに人々が歩く街中を、電話で教わった通りに進むと、眼の前に腰を抜かすように大きなシティーホテルが現れた。
この二階のコーヒールーム〈ハイデルベルグ〉が待ち合わせの場所であった。
コーヒールームに入り中を見渡す。
会う相手は加賀谷頼子という女性であった。
前に会ったことはない。
電話で話したとき、おずおずと聞いた。
「あのう、何を目印に加賀谷さんを探せばいいのでしょうか」
「探す必要はないわ。コーヒールームの中で一番の美人が私」
壁際の席に、もの凄い美人が座っていた。
外資系一流企業の上級幹部、といった雰囲気である。
石川良太は、加賀谷頼子であることを確認して、座った。
メニューを見ても分からないので、ともかくコーヒーを頼み、それが来るまで、ちらちらと加賀谷頼子を見ていた。
こういう美人を前にしてどう対処すればいいのか分からないのだ。
加賀谷頼子の顔には、何の表情もない。
笑いかけることはしない。
彼の体型を心の中で軽蔑している顔でもない。
その感情があるなら、石川良太はすぐに感じたであろう。
加賀谷頼子は、外資系一流企業の上級幹部がするような表情を見せているだけであった。
つまりは、ドル・円の外国為替の数字が変化するのを見ているような表情である。
コーヒーが運ばれてきた後、石川良太が口を開いた。
「あ、あのう。すみません」
「何あやまっているの?」
「僕みたいのと会っては、ご迷惑でしょう」
「僕みたい?」
「僕みたいな、ずんぐりむっくり……」
「リョータ・クン。キミは外形を気にしているの?」
「は、はい。どうしても、この体型なので」
「人の価値は、体型では決まらない」
「そ、そうですか?」
「人の価値は何で決まると思う?」
「やはり……愛、ですか?」
「キミに愛が分かっているとは、思えない」
「では、努力。努力する姿が貴重なんだ」
「それも違う」
「では、何でしょうか?」
「がんばればいい、というものではない。成果を出さなければ。何を成したか。それよ、結果がすべて」
「そう……そうですね……」
「いけない。何だか学校の先生みたいになったわ」
「平錦大の教授の話よりも、心に沁みました」
「大学教授なんて大っ嫌い。だいたい彼らは……おっと、話がズレて時間が無駄になるわ」
「あ、どうもすみません」
「キミ、幽霊を見たというのでしょう」
「そうです。まあ、そのう、幽霊というのかどうか……」
「その話、詳しく聞かせてちょうだい」
加賀谷頼子は、四次元社という出版社の編集委員であった。
四次元社は、接近遭遇とか、心霊治療やリーインカーネイション、アカシック・レコードなどをテーマとする書籍を手がける出版社である。
『月刊トランシルバニア』という雑誌も出している。
マイナーではあるが、その筋のマニア向けの老舗の出版社であった。
加賀谷頼子は、『月刊トランシルバニア』の中で読者の体験談のコーナーを持っていた。
読者の不思議な体験を記事にして紹介するのである。
このコーナーがあるので、『月刊トランシルバニア』では不思議な体験を積極的に募集していた。
石川良太は、不思議な体験をした、と四次元社に連絡したのであった。
そして、加賀谷頼子から、その不思議な体験の話を聞きたい、と返事があったのである。
* * *
石川良太は、次のような話をした。
そもそもの始まりは平成錦秋大学の入学式の日であった。
入学式が終ると、大学のキャンパス中央広場は学生たちで混雑した。
新入生はもちろん、在校生もほとんど全員が中央広場へ集まったのである。
在校生は、入学おめでとう、ということもあるし、クラブの勧誘をしているのだ。
その雑踏の中に、新入生であった石川良太もいた。
都会的なセンスにあふれた学生たちの中で、彼は、ただぼんやりと立っているだけであった。
まだ話す相手もいない。
石川良太は、その雑踏の向こうに自分と同じような体型の人間を見たのである。
後姿なので顔は分からない。
だが、ずんぐりむっくりの体型は、石川良太にそっくりであった。
(あっ、僕と同じような人がいる)
彼となら友達になれそうな気がした。
だが、その人影は雑踏の中へ消えていった。
次は、一週間後であった。
授業は始まったが、授業自体がまだオリエンテーション的な話である。
事務室へ出す受講届などの書類も完了していない。
事務室に書類を出しに行った。
事務員の説明を聞いて書類の不備を直す。
提出したが、別な不備が見つかった。
結局、書類を出し終わったのは事務室終了時間ギリギリであった。
事務室のある管理棟には教室はない。
時間も遅い。
廊下へ出ると人の姿はなかった。
暗い廊下を歩く。
石川良太の横を、速足で人が追い抜いていった。
ずんぐりむっくりした体型である。
(あれ? 入学式のときの……)
その人影は足早に歩き、廊下から外へと出ていった。
石川良太は、ふと、気が付いた。
(僕と同じ服を着ている……)
石川良太は後を追った。
外へ出ると、学生たちが、まだまだたむろしている。
だが、あの人影は見当たらない。
石川良太の大学生活が始まった。
大学の教室の位置も、キャンパスの地理も、勉強の難しさも分かるようになった。
彼は〈自然同好会〉というサークルに入り、同じような田舎出身の友達が出来た。
彼の最大のコンプレックスは体型なのであるが、そのコンプレックスを受け入れてくれる仲間が出来たのだ。
下宿は大学の近くである。
大学の周辺でほとんどの用事を済ませることが出来た。
ここまでが石川良太の生活半径である。
贅沢をしたいと思うときだけ、勇気を出してバスに乗り新清水寺へ行くのだ。
その先の東京は、まだまだ近寄りがたい。
石川良太は授業にも真面目に出た。
だがそれよりも、〈自然同好会〉の友達といる時間の方がはるかに多い。
それに楽しい。
こうした生活の中で、なぜか妙に気になってきたのが、あの同じような体型の人影である。
ずんぐりむっくりの人影を見たのは二回だけ。
それ以後は大学の中で見ることはなかった。
同級生にも上級生にもいない。
もちろん、肥満な体型の学生は何人もいる。
だが、それらの学生ではないことはすぐに分かった。
肥満体型に関しては敏感である。
あの人影は、完全に石川良太と同じ体型であったのだ。
たった二回見ただけである。
忘れても構わないような小さな出来事ではある。
だが、気になるのだ。
同じ体型。
同じ服装。
顔は見ていない。
(あの時見た人影は、一体、誰だったのだろう?)
ずんぐりむっくりの人影を、大学のキャンパスで見ることは、二度となかった。
だが、別な場所で見かけるようになったのであった。
石川良太の生活範囲は大学近辺に限られていた。
それで十分に生活出来たのだ。
せっかく東京近辺に来たのだから新宿や池袋で遊んでやろう、という気もない。
まだまだ、東京は恐い。
せいぜいが、新清水寺駅のショッピングモールである。
大学の〈自然同好会〉の仲間たちとショッピングモールへ行ったのが、そもそもの最初であった。
ショッピングモールの通路は広く、洒落た専門店がならんでいる。
通路を歩く人々も洗練されていた。
石川良太は、仲間たちと〈ベルベデーレ〉というスイーツ店へ入った。
そこでモンブランを食べた。
石川良太は腰を抜かしてしまった。
(この世に、こんな美味いものがあったんだ)
その後、石川良太は独りでこの店へ来るようになった。
来るといっても、頻繁に来るのではない。
せいぜいが、月に二回くらいである。
店の中でコーヒーとモンブランを食べるのではない。
それでは贅沢すぎる。
テイクアウトのマカロンを買うのである。
マカロンを買い、ショッピングモールの広い通路にある椅子につつましく座り、袋を開いて、つまむ。
至福のひと時である。
これが、石川良太にとって最高の贅沢であった。
それは、ショッピングモールへ独りで来ることを覚えてから半年ほど後のことであった。
椅子に座ってマカロンを食べ始めたとき――。
眼の前を人が通った。
(あっ)
石川良太は驚いた。
あのずんぐりむっくりの人物なのだ。
服装も、石川良太のそれにそっくり同じである。
ショッピングモールの広い通路を足早に歩いて行く。
石川良太は思わず立ち上がった。
後を追おうとしたのである。
どこへ行くのか確かめたい。
出来たら声をかけて話をしてみたい。
とっさにこう考えて立ち上がったのだ。
マカロンが袋からこぼれた。
「おっと」
マカロンを拾いながら見ると、ずんぐりむっくりの人影は通路を右へ曲がっていった。
それ以来、独りでマカロンを食べているときの三回に一回は、ずんぐりむっくりの人影を見かけるようになったのである。
同じ体型で同じ服装。
誰なのだろう?
彼の前に出て、顔を見てみたい。
話かけるか?
でも……。
よくよく考えて、話しかけるのは止めた。
顔を見たり話しかけるのが、なぜか、恐いのであった。
恐いのである――。
理由は、分からない。
なぜか、恐いのであった。
石川良太は、このことを〈自然同好会〉の仲間に話した。
「リョータ、思い過ごしだよ」
「いや、幽霊かもしれんぞ」
「真っ昼間に幽霊が出る?」
「幽霊は夜だけ、と思い込んでいるだけかもしれない。実は、昼間もいる」
「ずんぐりむっくりの幽霊?」
「リョータの幽霊?」
「リョータは生きているぜ」
「リョータ、あんたに、双子の兄弟はいない? 昔、死んだとか……」
こうした話が出た。
もちろん結論は出ない。
仲間といっしょにショッピングモールを見張ったこともあった。
しかしそういうときに限って、あの人影は現れないのである。
仲間の一人が思いついた。
「その話、四次元社へ持っていったらどうだ」
「四次元社?」
「うん。そこの『月刊トランシルバニア』で、不思議な話を募集している」
こうして、石川良太は、加賀谷頼子と会うことになったのである。
* * *
加賀谷頼子は、話を聞き終わると、考え込んで、それから言った。
「そのショッピングモール以外では見たことないのね」
「はい。最初は大学。後は、ショッピングモールだけです」
「ショッピングモールにだけ現れる。面白い現象だわ」
「面白くないですよ。気味が悪い」
「リョータ・クンに、そっくりなのね?」
「ええ。顔は見たことないけれど、体型はそっくり。体型を見誤ることはないです」
「それは言える」
「幽霊なんですかね?」
「幽霊というよりも、生霊かもしれないわ」
「生霊?」
「生きている人の魂が、本人の知らない間に抜け出るの。
例えば、六条の御息所」
「はぁ?」
「源氏物語よ。
知らない?」
「有名な古典、としか知りません」
「六条の御息所の愛する人が心変わりをしたの。
それで、嫉妬に狂い、彼女の生霊が新しい恋人を呪い殺したのよ」
「ボクには、愛とか嫉妬とかは、関係ありませんが」
「それもそうね。そうすると、ドッペルゲンガーかな?」
「何です、それ?」
「もう一人の自分」
「自分が、石川良太が、もう一人いるんですか?」
「そうよ。この世の中のどこかに、まるっきり同じあなたがいるの」
「気味が悪いな」
「ドッペルゲンガーを見た者は不幸になる、という説がある」
「いやだなぁ」
「誰にでもドッペルゲンガーがいる、という説もあるわ」
「気味が悪い」
「ドッペルゲンガーを見やすい体質というのもあるみたい」
「ボクは、見やすい体質なんでしょうか」
「そうかもしれないわね」
加賀谷頼子は相好を崩した。
そして続けた。
「いずれにしても、この話、面白いわ。
ウチの雑誌で取り上げる価値はあると思う」
「ありがとうございます」
「ただねぇ……」
「ただ、何です?」
「出来たら、そのずんぐりむっくりの人影を見てみたいわ」
「でも、いつもいつも現れるわけではないのですよ」
「それは承知している。
ともかく、現場を見て、現れるかどうか見張ってみる価値はあるわね」
加賀谷頼子は、新清水寺のショッピングモールの店の配置を詳しく聞いた。
そして、計画を石川良太に説明した。
「それ、テレビの刑事ドラマみたいですね」
石川良太は、指定された日の指定された時間にショッピングモールへ行った。
いつも通り〈ベルベデーレ〉でマカロンを買う。
椅子に座る。
そこへ、加賀谷頼子が来た。
時間通りであった。
加賀谷頼子は、石川良太を無視して進み、少し先にある椅子に座った。
二人は他人どうしのふりをする、と打ち合わせをしてあったのだ。
そして、ずんぐりむっくりの人影が現れたら、加賀谷頼子が後を付けるのである。
その後を石川良太が距離を置いて進み、連絡を取り合えば理想的なのだが、彼はスマホを持っていなかった。
彼は加賀谷頼子が戻るまで椅子に座って待つ、という計画である。
石川良太はマカロンを食べた。
さすがに今日は、味わって食べているのではない。
ずんぐりむっくりの人影が現れるのを見張りながら、口へ入れているだけであった。
ゆっくりとマカロンを食べた。
人影が現れるまで、待たなければならない。
簡単に食べ終わるわけにはいかないのだ。
だが、ずんぐりむっくりの人影は現れない。
横目で加賀谷頼子の方を見る。
彼女はスマホを見ていた。
見ているふりをしていることが、石川良太には分かっている。
ゆっくりと、間を置いて、一つずつ、マカロンを食べる。
だが、人影は現れない。
一時間が経過した。
とうとうマカロンは一つだけになった。
最後の一つを口に入れる。
その時であった――。
眼の前を、ずんぐりむっくりした人物が通った。
石川良太ははっとした。
だが、慌てない。
石川良太は、そっと、眼で加賀谷頼子に合図した。
加賀谷頼子は、さりげなく立ち上がった。
ずんぐりむっくりの人影のうしろから歩き出す。
どこへ行くのか後を付ける……打ち合わせ通りの行動であった。
くだんの人物が通路の先を右へ曲がり、加賀谷頼子もその後を追って視界から消えた。
その瞬間、肩を叩かれた。
「リョータ・クン、ごめん。待ったでしょう?」
「えっ?」
「電車が事故で、止まっていたの」
「……」
「キミ、スマホを持ってないから、連絡出来なかった」
「あ、あなたは、加賀谷さん?」
「もちろん、そうよ」
「じゃぁ、あれは一体、誰だったんだ?」