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朝露

朝のこない夜はない

 (『マクベス』シェイクスピア)


 笹本育子は、最後のデータを入れ終わると、いちどキーボードから手を離した。

 ここで間違えては、元も子もない。

 こまめにセーブをしてあるものの、もう誤操作は許されないのだ。

 深呼吸してからリターン・キーを押す。

「主任、終わりました」

「おい、さ、やるぞ」

 主任と三人のプログラマは、一斉にキーボードに向かった。

 もう半日も遅れている。

 一刻でも惜しいのだ。

 笹本育子は、主任の前に立った。

「すみませんでした」

 深々と頭を下げるが主任は顔も上げない。

 笹本育子は部屋を出た。

 夜の廊下は、ひときわ広く見える。

 壁際のコーヒーメーカーが目に入ったが飲む気になれない。

 カードを挿入してエレベータに乗り、屋上へ向かう。

 

 五時間前、笹本育子はミスをした。

 三千件のデータを一瞬で消してしまったのだ。

 それを入れ直すのに五時間。

 データ解析を始めるのが五時間遅れてしまった、ということだ。


 屋上へ出る。

 初夏の空は、もう明るい。

 そろそろ太陽が登ってくるだろう。

 庭園へ向かう。

 新築のDXビルである。

 屋上には、環境に配慮して、緑が茂る庭園が作ってあった。

 庭園の中をまっすぐに歩く。

 むろん、庭園の端は金網で囲まれており、事故が起きないようになっている。

 草が朝露に濡れていた。

「あのう……」

 小さな声がした。

「お願いがあるのですが」

「え?」

 立ち止まって、辺りを見回す。

「ここです」

 声は足下から聞こえる。

 見下ろすと、草の脇に小さな人間が立っていた。

 小指ほどの大きさの男だ。

 深い黒色の洋服を着ている。

 聡明な顔が悲しみに満ちている。

 笹本育子は、かがみ込んで男と向き合った。

「なあに?」

「助けてもらえませんか」

「どうしたの?」

「うっかり寝過ごして、帰れなくなりそうなんです」

「うっかりミスって、あるわよね」

「よくやるんです」

「それで、何を助ければいいの」

 男は、自分の脇を指さした。

 草を小さく丸めたものが置いてある。

「これが、あと七個必要なんです。僕の力じゃ、時間までに作れるのはせいぜい三個」

「時間?」

「お日様が出てしまえば、朝露が消えて、帰れなくなる」

「分かったわ、まかしてちょうだい」

 笹本育子は、草の葉を取り、小さくちぎった。

 それを丸める。

 たちまちのうちに七個を作り上げた。

 男は、丸めた草のひとつひとつに、朝露の玉をひとつずつ入れた。

 それを蜘蛛の糸でまとめ上げる。

 辺りが、いっそう明るくなってきた。

 朝露が蒸発を始め、草の風船が昇り始めた。

 蜘蛛の糸がピンと張り、糸を持つ男も空中に浮く。

「どうもありがとう、本当にありがとう。これで帰れます」

「元気でね」

「ご恩は忘れません」

 緑の風船は上昇を続け、朝空の中で黒い点となる。

 やがて……、その点も空に溶け込んだ。

 振り向くと、太陽が顔を出し始めている。

 笹本育子は、朝の空気を胸一杯に吸い込んだ。



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