忘れな草
ただ泣きぬれて 浜辺につんだ
忘れな草を あなたに
(『忘れな草をあなたに』木下龍太郎)
西垣洋子は、怒りがおさまらない。
悔しい。
そして、悲しい。
病室は殺風景である。
見るものとすれば、花瓶に挿した忘れな草しかない。
恋人が置いていった花である。
それを見ると、また、怒りが湧いてくる。
無神経すぎるわよ、と思う。
死にかかっている人間に向かって、「死んでも忘れないからね」と言っているのだ。
西垣洋子、二十二才。
その若い身体は病魔に冒されていた。
現代医学では、まだ治療法が確定されていない難病なのだ。
明日の朝に手術が予定されていたが、それで治る確率は、かなり低かった。
難しい手術なので、手術中に死亡してしまう確率の方が、よほど高い。
その病気の事を知らされたとき他人事のように思えた。
しかし事実は事実であった。
不治ともいえる病気に罹ってしまったのだ。
病気が進行して病院のベッドで寝るようになると、とてつもない恐怖が襲ってきた。
もうすぐ死んでしまう、その事実が、ひしひしと伝わってくる。
死にたくない――。
死の恐怖が、目の前にのしかかっているのである。
そして、悔しかった。
何で私が――。
まだ若いのに、何で死ななきゃならないの――。
友達はみんな、若さを楽しんでいるのよ――。
この悔しさである。
そしてそれは、怒りにもなった。
何で私だけ、こんなのおかしいじゃない――。
不公平よ――。
ねえ、何とかして――。
病気の事が分かる少し前、西垣洋子には恋人が出来た。
単なるボーイフレンドではない、結婚を前提とした恋人である。
これから一生を、苦楽をともにするはずの人間。
だが、その一生が、もうほとんど残っていないのであった。
一生、ってどういうこと――。
生きる、って何なの――。
なぜ死ななきゃならないの――。
病院の天井を見ながら、繰り返し、繰り返し、自問し続けていた。
残された最後の治療法である手術を行う前の日、恋人は、忘れな草を摘んできた。
西垣洋子が好きな花なのだ。
だが、これは拙かった。
健康な時ならば、「何があっても忘れないよ」は、甘い言葉であったろう。
しかし、手術を控えた人間に、「忘れないよ」は拙い。
西垣洋子は、怒った。
残された少ない体力をすべて使って恋人に罵声を浴びせた。
「無神経よ、馬鹿!」
夜の病院である。
周囲は寝静まっている。
だが、西垣洋子は眠りたくなかった。
残された時間は少ない。
眠るのは勿体ないのだ。
体内から沸き上がるにぶい苦痛と戦いながら、忘れな草を見続けた。
見るものは、その花しかないのだ。
恋人に怒鳴り散らしたが、棄てることはしなかった青い花。
その花が……、次第に輝いてきた。
青い光が大きくなる。
そして……、若い男になった。
目が大きくて鼻筋が通っている。
日本人離れした、ハーフのような顔つきだ。
長身で、筋肉質の体格をしている。
男が言った。
「やぁ」
「あなた、誰?」
「忘れな草の精」
「精? 何か用?」
「あんなに怒りながら見続けられたら、僕だって、言いたくなる」
西垣洋子は、心の中を吐露した。
「そりゃぁ、怒るわよ。
私、病気に罹っているの。
もうすぐ死ぬのよ。
何で、死ななきゃならないのよ。
私だけ、何で……」
「生きているものは……、いつかは死ぬ……」
「やめてよ、そんな、そらぞらしい言葉。
いつかは死ぬ、ってことは、実感しなければ、絶対に分からないわ。
死に直面した恐怖、怒り、悔しさ、絶対に、絶対に、分からない」
「そうだ。
突然、死ぬことが決まった、こんな馬鹿なことがあるかい」
「?」
「最初は、怒った、そして、怖くなった。
悔しい。
何だこれ、何とかしてくれ、馬鹿野郎――」
「何……、言ってるの? ……」
「僕は死ぬんだ。
君よりも先に死ぬ」
「え?」
「君は、明日の朝、手術が待っているんだろう。
だが、僕は、もう、日の出を見ることはないんだ、絶対に」
「どういうこと?」
「君の恋人が僕を手折った。
それで死が決まった。
花瓶のこんな不味い水に浸けられて、死ぬまでの苦痛が長引くだけなんだぜ」
「……」
「何か、言えよ」
「……、ごめんなさい……」
「そらぞらしい言葉じゃないか」
「そうね。
でも、どう言えばいいのか分からない」
「死んでいく身に、言葉はなぐさめにならないよな」
「そう、よく分かるわ。
ほんとうによく分かる。
まだ生きたいのに、それが断たれてしまった……、
もう、悔しいわ」
「なぁ、生きているものは、いつかは死ぬんだよなぁ」
「そうね、本当にそうね」
「何のために生きるんだと思う?」
「分からない……」
「僕は花だ。
人々の心を癒すために、花は生きている……。
それが花の生き甲斐……」
「あなた……、それ……」
「少しは分かったようだな。
そうさ、人々のために花はある、なんて、人間の身勝手さ」
「……」
「がんばって、ようやくきれいに咲いたのに、斬り取ってしまう……。
人間は勝手だぜ」
「……、そ、そうね……」
「あ、別に、同情してくれ、ってんじゃないぜ」
「分かるわよ」
「あんたは怒っていた。
僕も、怒っている」
「それで、言いたいことをはき出しただけ、と言うんでしょう」
「意見が一致したな」
「死んでいくものどうし、なのね」
「そうだ、言いたいことを言ったんだ。
馬鹿やろう――、ってね……。うっ……」
「……、あなた……」
「もう、そろそろかな……」
「……」
「でも……、僕は忘れな草だぜ……、わ、忘れないで……」
「……」
「に、人間の身勝手でもいい……、忘れないでくれれば……、生きた意味が……、す、少しでも……、あ、あるかもしれない……」
若い男の、輝く青色が薄くなっていった。
次第に色が薄くなる。
どんどんと白くなっていった。
そして、白色のかたまりが、西垣洋子の前で大きくなっていく。
目の前が白一色となった。
白――。
西垣洋子の目の前には、白衣を着た看護師がいた。
「さあ、そろそろ時間ですよ。
手術の準備に入りますからね。
あら」
看護師は、花瓶の花を見つけた。
「この花、枯れている。
棄てましょうね」
「いえ、そのままにしておいて。
私が手術から戻るまで。
お願いします」