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コピー用紙

レーザープリンタで普通に使用するコピー用紙は、化学パルプと呼ばれる繊維を100%使用した紙で、上質紙と呼ばれている。

A4の大きさは210×297(mm)である。


               日本工業規格(JIS)より抜粋

 長谷川幸雄は目の前に座っている甥の谷山哲夫を見た。

(前に逢ったときは登山ばかりしている高校生だったのに……)

 現在は大学三年生になり、しっかりとした人生設計の話をしている。


 彼の人生設計は次のようなものであった。

 いくら情報システムが進歩しても現物の流通が必要であることは不変なのでその方面に進みたい。

 物流では風雨、台風などの気象が問題となる。

 自分は登山をしているので天候には詳しい。

 そこで、趣味と実益を兼ねて気象予報士の資格を大学生のうちに取ることにした。

 その他、簿記の資格も必要だし、英語もマスターしたい。

 そういうことは就職してからの計画であり、とりあえずは気象予報士の資格を取りたい。


「ということで、叔父さんにコピー用紙をもらいに来たんです」

「よく分かったよ。さあ、持って行きなさい」

 長谷川は、五百枚単位で梱包されているコピー用紙を一冊、谷山哲夫に渡した。

 包装紙には、〈祈・合格 哲夫君 叔父より〉と書いた祝儀袋が付いている。


 哲夫が通っていた高校は、いわゆる受験校であり、独特の勉強システムを持っていた。

 一言でいえば、”書いて覚える”、である。

 問題も思考過程も紙に書いて手を動かしながら覚えて、同時に頭を回転させよ、ということなのだ。

 英語の単語などは当然として、理系の公式までも何百回も書いて覚えさせていた。

 哲夫は登山に夢中になっていて勉強はサボっていた。

 三年の秋になってから、さすがに、これはまずいぞ、と思い受験勉強を始めた。

 そこで使ったのが、今までいい加減にしていた、書いて覚える、のシステムである。

 無我夢中で何度も書き、片っ端から覚えていったのだ。

 これを聞きつけたのが、製紙会社に勤めている叔父の長谷川幸雄であった。

「紙ならいくらでもあげるよ」

 と、コピー用紙を山のようにプレゼントしてくれたのだ。

 そして、無事に大学へ合格できた。

 大学へ入ってからも、書いて覚える、というシステムで勉強を続けて、留年をせずに三回生になった。

 次の受験勉強は気象予報士の国家試験である。

 一月中旬の試験日に向けて、計画的に勉強をした。

 受験勉強がラストスパートになったとき、験担ぎにコピー用紙をもらいに叔父の家へ来たのだ。


 哲夫は、「合格したら改めてお礼にうかがいます」と挨拶して叔父の家を出た。

 もちろん叔父に多量のコピー用紙をもらうつもりはない。

 あくまでも験担ぎのセレモニーなのだ。


 広島の町の文房具屋で、自分の金でコピー用紙を三冊買った。

 これで数日は持つであろう。

 コピー用紙をリュックに入れた。

 日頃から愛用しているリュックサックである。

 普段は寝袋、テントから食料などで一杯になるのだが、今日は違う。

 習慣として持ち歩いている雨具や非常食以外は空にして、参考書と筆記用具、そしてコピー用紙を詰め込んだのだ。


 それは偶然のことであった。

 受験勉強の仕上げをするカンズメの場所をスマホで探していたとき、見つけたのが瀬戸内海の院岐島という小島にある真如寺であった。

 民宿ほどの設備はないが仏道修行をしたいなら場所を提供する、と書いてある。

 受験勉強するので部屋を貸してくれないか、と連絡をして、了解を得たのだ。

 場所は、叔父の長谷川幸雄が住んでいる広島である。

 これは縁起がいいぞ。

 先ずは叔父の家へ行ってコピー用紙をもらい、町であと三冊購入し、港へ向かった。


 スマホを通して案内してくれたとおり、篠田という名前の漁師に頼み、院岐島へ連れて行ってもらった。

 小さい島なので定期船というようなものはない。

 漁船に頼むしかないのだ。

 篠田は妙な顔をしたが、何も言わずに哲夫を船に乗せた。

 海は静かでさわやかな風が吹いている。

 空は快晴で、天気予報では少なくとも一週間は天気が崩れることはない。

 院岐島に着くと、お礼を渡し、島に滞在するのは五日の予定であり、離島前日にはスマホで連絡をすると言った。


 岸壁のすぐ先に寺の建物があった。

 かなり古ぼけた建物である。

 普通の人ならしり込みをするかもしれない。

 だが、山でのテント暮らしになれている哲夫にしてみれば、屋根のある建物だけでも贅沢だ。

 呼び鈴に答えて出てきた僧侶は哲夫の予想を裏切っていた。

 孤島に住む僧侶なので細身の枯れた老人だろう、と思っていたのだ。

 しかし、目の前にいるのは、恰幅のよい、快活な男であった。

 剃り上げた頭が光っている。

「やあ、よく来たね。

 さあ、さあ、お入りなさい」

 乾いた白い貝殻のような声である。

 六畳の板敷の部屋へ通された。

 天井付近の小さな窓だけから外光が入っている。

 部屋の隅に寝具が畳んであり、その横に座布団が三枚ある。

 そして、座椅子と電気スタンドがあった。

「この部屋は禅の道場なので何もないけれど、受験勉強だそうなので、その用意はしておいたよ」

「ありがとうございます」と言いながら周囲を見回した。

 板戸の出入口以外の壁には棚があり、小さい仏像がたくさんならんでいる。

「禅道場の部屋と言ったけど、今は、もう、物置みたいになっちゃって……ははは……」

「構いませんよ。

 仏様に見守られていれば勉強をサボれませんから好都合ですよ」

「そうか、そうか。

 じゃぁ、何はともあれ、ご本尊にご挨拶しよう。

 さ、いらっしゃい」

 部屋を出て、廊下を進み、本堂へ案内された。

 本堂はさすがに広かった。

「これが、ご本尊の地蔵菩薩様。

 ご挨拶するので、そこに座ってね」

 哲夫は神妙に正座した。

 長々とお経を聞かされるのかと思ったが、ほんの五分ほどで終わった。

 気になったのが本尊の地蔵菩薩である。

 なんだか普通とは違う。

(こういうのもアリなのかな)

 よく見かけるお地蔵様は優しい顔をして両手を合わせている。

 しかし、ここにある二メートル近い地蔵菩薩は、憤怒の形相をして、左手には玉を持ち、右手には直剣を持っている。

(あの剣で斬られたらイチコロだな……)

 お経のあと、住職は食堂へ案内した。

「ここに食事を出しておきますので勝手に食べてください。

 民宿じゃないので、それ以上のサービスはなしですよ」

「構いません」

「そうだ、今晩の食事だけは部屋へ運ぼう。

 それが最大のサービス……ははは……」


 コピー用紙の封を破り、数枚を机の上に置いた。

 その左にボールペンと参考書を並べる。

 さあ、がんばるぞ。

 いちばん苦手なのは気象業務に関する法規であった。

 その問題を丁寧に書き、答えを書き、そして、正解と照らし合わせる。

 外で木々が揺れている音がする。

 風が出てきたのかな。

 この一週間ほどはおだやかな天気が続くはずだけど。

 明り取りの窓が急速に暗くなった。

 机の電気スタンドを点け、部屋の電灯のスイッチを探す。

 棚に並んだ仏像が、なにやら生き生きした雰囲気に見える。

 電灯のスイッチは入り口の脇にあった。

 スイッチを入れると、蛍光灯が数回点滅して、それからようやく点いた。

 机に戻り、コピー用紙に向かうと、雨の音がした。

 おかしいな。

 気にはなったが、気を散らしている場合ではない。

 今は勉強に集中するときだ。

 ――消防法で定められる火災気象通報について――

 ――気象業務法に規定する罰則が適用される事例――

 などなどを書き、記憶を定着させていく。

 棚の仏像たちがガタガタと音を立てる。

 そのとき戸が開いた。

 住職が、折敷を持って現れた。

 ご飯を盛った茶碗と汁の椀が乗っている。

「よろしいかな」

「あっ、全然、気が付きませんでした」

「勉強に集中していたんだろう。

 善哉、善哉。

 ここに夕食を置いておきますよ」

「すみません」

「明日からの食事は、朝食が六時、昼が十二時、夜が八時」

 哲夫は、コピー用紙の隅に書き留めた。

「じゃぁ、勉強、がんばってね……ははは……」

「あ、あのう……」

「何かな?」

「外は、雨なんですか?」

「そうだよ。天気予報では嵐になるということだ」

「島へ来るまでは晴れていたのに……」

「天気なんてそんなものさ……ははは……」

 住職は戸を閉めた。

 住職の足音がしない。

 ただ、気配だけが去っていく。

(なにかおかしいぞ)


 風雨が強くなった。

(天気予報はどうなっているんだ) 

 スマホのスイッチを入れた。

 だが、画面が明るくならない。

(たっぷり充電したはずなのに) 

 本堂の方から読経の声が聞こえてくる。

 住職の声であるが、先ほどまでの快活な感じではなかった。

 苔むした墓石のような声である。

 なぜか、ぞっとした。

 本堂の地蔵菩薩は、よく見かけるお地蔵様とは違っていた。

 あの住職も、見かけとは違うのかもしれない。

 風雨が強くなり、読経の声も大きくなった。

 棚の小さな仏像たちが、読経に合わせて踊っているように見える。

(ウソだろう。目の錯覚だ)

 腐汚のような臭いがする。

 住職が持ってきた折敷の中の椀から臭いが漂っているのだ。

 見ると、椀の中には大きな肉塊と茶色の汁が入っていた。

 (なんだ、これ)

 とても食べられたものではない。

 呆然として座り込んだ。


 哲夫は機械式のダイバーズウオッチを愛用している。

 これなら、いつどこで、どういう山に登っても壊れることはないのだ。

 スマホが使えない今、時間が分かるのはこれしかない。

 住職の読経が終わったのは、午後十一時であった。

 それまで、哲夫は、ただただ座り込んでいたのだ。

 読経の声が止み、呪縛から解き放たれたようになった。

(なんだかヤバいなぁ)

 本堂から住職の気配が消えた。

 その代わりの気配が生まれた。

(まさか、地蔵菩薩が動き出した……)

 部屋の仏像たちは喜ぶように踊っている。

(どうしたらいいんだろう)

 哲夫が登山で身に付けたことはいろいろあるが、その一つが危機管理である。

 危険なときほど冷静沈着にならなければならない。

 本堂の方から地蔵菩薩が動く振動が伝わってくる。

(あっ、そうだ)


 哲夫の高校の、書いて覚える、のシステムは全ての教科に行き渡っていた。

 社会科の先生は、「哲学、宗教、認識、悟性の真髄はここにある」と言って般若心経を書いて覚えさせた。

 都合のよいことに般若心経は短いので、全文を書いてもコピー用紙一枚に収まる。

 しかし、この授業は数カ月で終わりになった。

 保護者から、「特定の宗教だけを取り上げるのは如何なものか」とクレームが付いたのだ。

 

 寺での怪異だから般若心経を唱えれば身が守られるはずだ、と思い付いたのだ。

 だが、高校の授業は数カ月で終わってしまった。

 しかも、かなりいい加減に授業を受けていたのだ。

 まさかこんなことになるとは……。

 本堂で重い足音がする。

(躊躇している場合じゃないぞ)

 新しいコピー用紙を拡げて、ボールペンを握った。

(ええと……)

 ……仏説摩訶般若……波羅蜜……

(あっ、字を忘れた。ボサツってどう書くんだっけ)

 地蔵菩薩が廊下へ出たようだ。

 ……不生不滅不垢不浄……

 足音が近づいてくる。

(よし、思い出したぞ)

 ……以無所得故……

 部屋の仏像たちのダンスが静まってきた。

 一気に書き続けた。

 足音が近づく。

 直剣を持った地蔵菩薩が部屋へ入る前に書き終わらなければならない。

 ……是大神呪是大明呪……

(もうすぐだ)

 ……羯諦羯諦波羅羯諦……

 部屋の外で足音が止まった。

(できたぞ)


 地蔵菩薩が本堂へ帰っていく気配がする。

 ふっ、とため息をつく。

 だがまだ気は抜けない。

 外では嵐が咆哮しているのだ。

 哲夫は般若心経を書き続けた。

 全文を思い出したので、あとはもう楽である。

 コピー用紙がある限り書き写せばいいのだ。

 時計を見ると午前五時だ。

 そんなに書き続けたのか。

 風雨の音は止まない。

 非常食のチョコレートを食べ、書き続ける。

 午後一時になった。

 このまま夜になったら、また仏像たちがダンスを踊るのかな。

(そうだ、いいことを思い付いたぞ)

 住職が持ってきたご飯の米粒で、般若心経を書いたコピー用紙を仏像の額に貼りつけた。

(これなら、部屋中にやればいいじゃないか)

 出入口の戸にもコピー用紙を貼り付けた。

 ついでに壁全体に貼ろう。

 もっともっと書かなければならない。

 夢中で書き続ける。

 夜になった。

 そして深夜。

 部屋の仏像たちは動かない。

 地蔵菩薩は動き出したが、戸の向こう側で止まった。

(いいぞ。入れないんだ)

 三日目の朝になった。

 風雨が弱まったのが分かる。

 非常食のビーフージャーキーを食べながら考えた。

 いずれは晴天になるだろう。

 そうなったら、戸や窓をたたき割ってでも真如寺から脱出するのだ。

 外に出れば野宿をすればいい。

 般若心経のコピー用紙を周囲に置いておけば怪異は近づけないはずだ。

 そして船が通りかかるのを待つのだ。

 心を決めると、また、書き始めた。



 長谷川幸雄は目の前に座っている二人の刑事を見た。

 一人はベテランの風格を持っており、もう一人は見るからに新人であった。

 長谷川は、深呼吸してから聞いた。

「ちょっと信じられない。

 もう一度、言ってください」

「甥御さんの死体が院岐島という無人島で発見されたんです」

 若い刑事が付け加えた。

「手足が切断されていました。まるで鉈で斬ったように」

「信じられない。昨日、会ったばかりなのに」

「甥御さんの持ち物の中に〈祈・合格 哲夫君 叔父より〉と書いた祝儀袋があったので、こちらへ伺ったのです」

 長谷川は事情を説明した。

「それでは無人島へ行くことは知っていたんですね?」

「そうだろうと思っていましたが、詳しくは聞いていません」

「院岐島とも聞いていない?」

「はい。しかし、そんな無人島で、よく彼の死体が発見できましたね」

「篠田という船頭が彼を漁船で運んだんです。

 廃寺しかない島へ何しに行くんだろう、と疑問だったのですが、リュックを持っていたし、若者の冒険だろう、と思ったそうです。

 でも……」

「でも?」

「でも気になって今日、院岐島へ行って、廃寺へ入って死体を発見したわけです」

「なんてことだ……」

「甥御さんは、コピー用紙に埋もれていました」

 また若い刑事が付け加えた。

「壁にもびっしりとコピー用紙が貼られていました」

「それで質問なのですが、甥御さんはコピー用紙を持って行ったんですね?」

「はい、四冊か五冊は持って行ったでしょうね」

「それはおかしい。廃寺にあったコピー用紙は、ざっと勘定して、五万枚はありましたよ」

「ええ! 五百枚一冊で、一冊は約二キロだから、五万枚なら二百キロになる。哲夫が持って行けるはずがない」

「それだけじゃありません。これを見てください」

 一枚のコピー用紙を長谷川に渡した。

 そこには、クネクネした曲線が、びっしりと書いてあった。

「なんですか、これは?」

「廃寺にあったコピー用紙の一枚です」

 若い刑事が付け加えた。

「同じ文字が、五万枚のコピー用紙、全部に書いてありました」

 ベテランの刑事が目で若者を制した。

「そこに書いてあるのは、コーランの第一章です。

 長谷川さん、お聞きしますが、彼はイスラム教徒なんですか?

 アラビア語が書けるんですか?」


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