線路
故郷へ帰りたいのに帰れない人がいます。
故郷を棄てたはずなのに、なぜか戻る人がいます。
故郷、それは幻夢の世界なのではないでしょうか。
山と道路に挟まれた草原の中に赤錆た線路があった。
30年ほど前の鉄道の名残である。
廃線となり線路だけが置き忘れられているのだ。
その線路は曲がりながらトンネルへ入っていた。
小さなトンネルの先には川がある……はずだ。
川があったのだ。
今でもあるのだろうか?
松山民夫は、さすがに懐かしさを感じていた。
小学校時代を過ごした場所なのだ。
懐かしい……。
だが、良い思い出ではなかった。
ガキ大将にいじめられた場所なのである。
トンネルの暗闇では殴られた。
川では水の中に押さえつけられた。
それどころか、脱いだ着物を隠されたこともある。
裸で、家まで帰る……。
長い長い道のり……。
そういうときに限って、会いたくない人と行き会うものだ。
学校でも美人で有名であった鹿山静枝と出会ったのである。
鹿山静枝は、あぜんとしていた。
松山民夫は底知れぬ屈辱感に沈没した。
ガキ大将の須藤亮太にいじめられたことは沢山あるが、いちばん恐怖だったのは、この線路であった。
線路に耳を当てて、列車が近づくのを見張る、ということが出来なかったのだ。
耳を当てているうちに列車が来たらどうしよう、という心理的な恐怖である。
もちろん、近くまで列車が来れば分かるし、逃げる時間は十分にある。
轢かれることは考えられない。
だが、轢かれてしまう、という心理に松山民夫はとらわれていたのであった。
どんなに須藤亮太に命令されても、これだけは出来なかった。
そして、命令を聞かなかった、ということで、余計、いじめられるのだ。
松山民夫は、いじめられて死んでもいい、と思った。
線路に耳を当てて列車に轢かれるよりは……。
今考えると、矛盾している。
論理が破綻している。
松山民夫は線路を見ながら苦笑した。
当時は金属の光沢が不気味であった。
今は錆だらけ。
あの不思議な心理的恐怖は、何だったのだろうか?
松山民夫は、腰を下ろした。
耳を線路に当てる。
もちろん、何も聞こえない。
いや、ちがう。
はるか先で木の枝が線路に当たっている様な音が聞こえる。
金属はよく音を通すのだ。
そして――。
歌声が聞こえた。
君がさやけき目の色も
君紅の唇も
君が緑の黒髪も
またいつか見ん、この別れ
音楽の時間に習った歌であった。
その声は、忘れもしない鹿山静枝であった。
美人で、勉強ができて、ピアノを弾き、歌が上手く、いつもきれいな服を着ていた……。
松山民夫は、しばし、その歌に聞き惚れた。
そして立ち上がった。
明日、もう一度、来よう。
中学生になったとき、松山民夫はこの地を離れた。
父親の仕事の関係で引っ越したのである。
その時、もう二度とここに戻ることはあるまい、と思った。
だが、それは間違っていた……。
大学を出ると、松山民夫は、証券会社に就職した。
経済分析を担当し、次第に頭角を現わしていった。
日本の経済はどうあるべきか、地域格差をどうするか、等々の論客としてテレビで活躍し、本を出すようになった。
気が付いてみると、経済評論家として有名になっていたのである。
そして、小学校時代に過ごした土地からも講演に招かれた。
地方を活性化するにはどうしたらいいか、というお定まりのテーマである。
さすがに、いじめられた土地だから行かないよ、では大人気ない。
松山民夫は、この講演を引き受けた。
講演は夕方5時からである。
昼の空いた時間を利用して、松山民夫は、曽遊の地を見に来たのだ。
この地方の状況視察でもあった。
果たして――。
街の中心部には最新デザインのビルがあり、そこを抜けると、さびれた店ばかりがならんでいる。
そしてすぐに、一面草だらけの荒れ果てた土地になる。
道路だけが妙に立派だ。
典型的な箱モノ行政の結果であった。
20分ほど歩いて、線路とトンネルのある草地に辿り着いたのである。
小学校の頃の感覚では、街からはるか遠い山の奥、だったのに……。
線路を通して歌を聞いた後、松山民夫は街へ戻ることにした。
講演の準備をしなければならないのだ。
講演が終われば、明日は予定がない。
明日、もう一度来て、また線路へ耳を当ててみよう、と考えたのだ。
草原を道路へ向かって歩く。
その道路に、黒塗りの車が停まっていて、人影があった。
「おい、松山じゃないか」
「え、ああ」
そこにいたのは、あの須藤亮太であった。
須藤亮太は、中年太りで恰幅がよくなっていた。
顔つきは、ガキ大将であった昔よりさらに傲慢になっていた。
「草原に見かけない人間がいるので、ひょっとしたらと思って車を停めたんだが、やはりおまえだった」
須藤亮太は野太い声で言った。
いちばん会いたくない人物に出会ってしまった……。
だが、生き馬の目を抜く証券業界で鍛えられてはいる。
松山民夫は営業用の笑顔とフレーズを出した。
「しばらく」
「こんな所で何をしている?」
「昔遊んだ場所が懐かしくて……」
「そういえば、このあたりで遊んだな……」
須藤亮太も、大人の顔付きで、言葉を続けた。
「それが、出世して故郷へ凱旋。テレビで活躍は見ている。今日の講演も、聞きに行くよ」
「須藤君こそ大出世。県会議員……」
須藤亮太は、その答えを待ってました、という口調で答えた。
「まあ、俺は特別だから。この前なんか、永田町から電話があったんだぜ」
「永田町?」
「ああ」
須藤亮太は、与党の大物政治家の名前を口にした。
「……、それで、国政選挙に出ないか、との問い合わせさ」
「すごいじゃないか。もちろん出るんだろう?」
「馬鹿言うな。断ったさ。俺の使命は、地元に密着して、県民の皆様にご奉仕すること」
「……」
「だから、産業の活性化のため、おまえの講演を楽しみにしているんだ」
「そういえば、時間が……」
松山民夫は、腕時計に目を落とした。
「ああ、そうか。講演の準備があるんだな。おい」
須藤亮太は、車の前でかしこまっている男をよんだ。
「お呼びですか」
「ああ。こちらは、松山、俺の古いダチ。今日、講演をされる方だ」
「初めまして。須藤先生の秘書の田口と申します」
「公会堂までお送りしろ。そして、ここへ戻ってこい」
「は? ここへ戻る?」
松山民夫も、怪訝な顔をして須藤亮太を見た。
須藤亮太は、笑いながら松山民夫を見た。
「おまえに会って、俺も昔を思い出したよ。線路とトンネル、そして川」
「……」
「独りになって、感傷ってやつに浸ってみるか。県民の幸せばかり考えて、自分の事を忘れていたからな」
こうして、松山民夫は、須藤亮太の車で街へ戻った。
そして、講演の準備に入ったのである。
司会者と進行の打ち合わせ。
講演のシナリオに、先ほど見た街の状況からのコメントを付け加える。
スクリーンに映す画像の順番の確認。
画像を映すパソコンのセット。
ここでトラブルが発生した。
用意されたパソコンが、なぜか、画像のデータを読みとらないのだ。
よくあるトラブルではある。
なんとかトラブルを解消できたとき、講演時間となった。
そのまま講演に入る――。
松山民夫は、講演やテレビ出演には慣れていた。
その場の雰囲気に合わせて、臨機応変に話す内容を変化させる、
適当に笑いを入れる、
時間経過を読む、
わざと間を取って、強調する、
このようなテクニックは、堂に入ったものなのだ。
話しながら、広い会場を見渡す余裕もあった。
何人かの、小学校時代の知り合いの顔もあった。
須藤亮太はいなかった。
講演が終わると、松山民夫は人々に取り囲まれた。
経済活性化について質問攻めとなったのである。
そうした人々がいなくなると、残ったのは、講演会の関係者と、小学校時代の知り合いであった。
小学校時代の知り合い達が笑顔で握手を求めてくる。
いろいろな事を教えてくれた。
松山民夫は、鹿山静枝が若くして死んだことを知った。
最後まで残った人々とともに、松山民夫は歩き出した。
この後、宴会があるのだ。
そこに、田口が駆け込んできた。
須藤亮太の秘書である。
「ま、松山様」
「やぁ、田口さん。さきほどは、ありがとうございました」
「あ、あのう、一言お耳に、と思いまして……」
「何ですか?」
「先生が、亡くなりました」
「先生? 須藤君が?」
「はい、今まで、警察で大変だったんです」
「何があったんですか」
「分かりません。あの後、戻ってみると、先生が倒れていたんです」
「草原の中に?」
「はい、線路を枕にして。そして、頭が潰れていました。まるで、列車に轢かれたように……」
故郷へ帰ってきてよかった、と松山民夫は思った。