プロローグ
夢の中、私は一人暗闇の中を落ちていた。
暗闇の中にいるわけではない。 落ちているのだ。
こういう時、暗闇を落ちることに対する恐怖を感じることが普通だと思うが、私はそのような感情を抱くことはなかった。
だだっ広い開放感と孤独が私の感情の全てを覆い尽くしていたからだ。
私一人しかいない暗闇は地球上にあるどんな場所よりも広々としており、そして孤独なのだ。
暗闇は私の何もかもを吸収してしまうかのようで、そして、私は暗闇に吸収されたいと思っていた。
暗闇に吸収されることには途方もない安心感があった。
現実と違って暗闇は私を優しく包んでくれる。
そんな気がしたのだ。
しかし、そう私の思い通りに行くわけではない。
いくら暗闇といえど終わりはある。
私はその有限なる暗闇を落ち続けているのだ。
私は暗闇の終わりを恐れた。
暗闇に入ることを決めたその時から結末は決まっていたというのに。
嗚呼、この暗闇がずっと続いてくれたらいいのに。
そう思っても終わりは無常にやってくる。
(やっぱり、こんなの嫌だ!!)
そう思い虚空に手を伸ばそうとすると、私はそれと同時に目を覚ました。
顔に触れると、手に涙がついていた。
あの夢はなんだったんだろうか。
辺りを見渡すと、私の周りにあるのは見慣れないベッド、見慣れない部屋、そして見慣れない自分自身の体だった。
そして、左手のベンチには50歳ほどに見える男性が座っていた。
彼はとても憔悴しているように見え、心なしか目元が赤く腫れているように見えた。
その様子は人間というよりはゾンビの方が近いほどだ。
彼は私と目が合うと飛びかかる勢いで私に近づき話しかけてきた。
「…ゆ、結珠!!大丈夫か?どこか痛いところはあるかい?」
ゾンビの急な接近に驚いて小さく息を吸い込んだことでひゅっという音が鳴った。
小さい子供なら泣き出して逃げてしまいそうだ。
彼は私のことをとても心配しているようだったが、私は彼のことを知らなかった。
「……大丈夫です」
私は知らないゾンビ男性に対して恐る恐る答えた。
「そうか…。本当に良かったよ」
彼はそう言いながら大きくため息をついていた。
私が目を覚ましたことにとても安心しているようだ。
彼にとって私のことはとても大切なのだろうか。
しかし、私は彼に見覚えがない。
私には彼が誰で、そして彼の言う「結珠」という人が何者なのかわからないのだ。
話の流れから察するにおそらく結珠というのは私のことなのだろうが。
そこで私は率直に彼に聞いてみることにした。
「あの、すみません。あなたのお名前を教えていただけませんか?あと、結珠というのは私のことなのでしょうか?」
「……え?!もしかして、何も覚えていないのか?」
「…はい」
おそらく私は記憶喪失をしてしまったようだ。
彼はそのことを聞くと何かをぶつぶつと言いながら俯いていた。
その後、何かを思い立った様子で私の方を向くと、彼は自分が私の父親で一輝という名前であること、私の名前は「結珠」であること、その他私が16歳であることやナースコールの位置を私に伝えて、「母さんに電話をかけてくる」と言って忙しそうに出ていってしまった。
彼が出て行った後、向かい側にある姿見に映ったベッドの上で寝ている自分が目に入った。
私は頭に包帯を巻いており、両足にはギプスをはめている。
体を動かそうとすると、胸にもコルセットのようがはめられているような感じがした。
肋骨でも折れているのだろうか。
これでは当分歩くことはできないだろう。
髪は長く茶髪でボサボサになっており、多少やつれていた。
目には大きなクマがある。
記憶を失う前の私は相当疲れていたのかもしれない。
鏡に映った自分には見覚えはなかった。
自分がなんなのか。
このことについて私は疑問に思った。
「私」という存在はどういう要素で構成されているのだろうか。
「私」は「結珠」と言えるのだろうか、はたまた言えないのだろうか。
「私」は「結珠」から記憶がすっぽり抜け落ちてしまっただけでそれ以外の要素はそのまま「結珠」なのか、それとも「私」という存在は結珠から独立した別個の存在なのか。
「私」は誰なんだろう。
言葉に表せない奇妙な恐怖を感じていると部屋の扉からノックが聞こえた。
正確な時間はわからないが、父が出て行ってから一時間、いやそれ以上の時間が経っていそうだ。
「…どうぞ」
父が帰ってきたのかそれとも看護師さんがやってきたのかと思ったが、ドアを開けて入ってきたのは高校生くらいの優しげな雰囲気をしている男の子だった。
「大丈夫?結珠。本当に心配したよ」
彼も私のことを知っている様子だったが、もちろん私には見覚えがない。
「はい、そこまで気分は悪くないです。ところで、お名前を教えてくれませんか?」
そう聞くと彼は少し驚いた様子をしてから「導」という名前だと教えてくれた。
彼はひょろっとした感じで黒髪の短髪、色白で身長は少し高い。
目は細くて垂れ目、鼻は高くも低くもない。
テレビに出るほどの美形ではないが、学校レベルではそれなりに人気の出そうな顔立ちだろうか。
「さっき部屋に入る前、君のお父さんから記憶喪失のことを聞かされていたけど、実際に目の当たりにするとびっくりしたよ」
「私も何もかもさっぱりでとても混乱していています」
彼は「それはそうだろうね」と言いつつ小さく笑っていた。
特に理由があるわけではないのだが、なんか胡散臭い雰囲気のやつだなと思ってしまった。初対面で申し訳ないけど。…いや、初対面じゃないのか。
さっきまで父親が座っていたベンチに腰をかけると、彼は少し思案する様子を見せた後、何かを決心したような様子で私に話を切り出してきた。
「実は、…俺は君の彼氏なんだ」
かれし……カレシ……?
「もしかして、おでんにつける辛いやつのことを言ってる?」
「それはからしだね」
あれ、違ったか…。じゃあ別の聞き間違いかな?
「あ、海底に張り付く平べったい魚のこと?」
「それはカレイだね」
「じゃあお金を騙し取ろうとする人か!」
「それは詐欺師だね…ふふっ、最後の文字しか会ってないけど。というか、そんなに言葉を覚えていて本当に記憶喪失なの?」
彼は高らかな笑い声を響かせていた。こいつ、私のことをお見舞いする気はあるのか…
「それじゃあ、......恋仲になった男女のうち、男の方を指す言葉?」
「そうそれ。わかってるじゃん」
つまり、彼と記憶喪失前の私は恋人……?
「う、嘘でしょ?!」
こういうひょろっとしてて胡散臭い感じのやつが好みだったの私は?
いや、そんなに嫌なやつだとか感じてるわけではないんだけど。
彼氏なの?彼氏?
「…そこまで強く否定されると傷つくんだけど」
確かに初対面の人にこんな物言いは失礼か…。いや、初対面じゃないんだった。何回やるんだこのくだり。
「ごめんなさい、少々混乱してしまって」
「いや僕の方こそ、記憶喪失になってすぐの君にこんなことを言ってしまって申し訳ない。今日は一旦帰るとするよ。また明日も来るからよろしく」
そう言うと彼は、以前私が好きだったという苺を差し入れとして置いてからそそくさと帰っていってしまった。
彼は私と話している時何かを決意しているような、そんな表情をしていたように私は感じた。
こんにちは、ameritonです。初稿ですが、よろしくお願いします。ものすごく書くスピードが遅いので気長に待ってもらえると幸いです。とりあえず頑張って書き切ることを目標にします。誤字脱字等あれば気軽にご指摘ください。
p.s.修正しまくってるので、話が更新されるたびに1話から読み直すことをおすすめします