空は災厄にして虚ろなり
シューニャには、世界の全てが陽炎のように見える。
強い煩悩に捉われた人間たちは、常に青い炎に身を焼かれ、その熱が世界の風景をゆらめかせているのだ。
人の心を焼く青炎──すなわち煩悩なり。
陽炎が濃い方向に、シューニャは自然と引きずられていく。
煩悩の根源たる、人間が多く住む場所に。
そこは欲望と悪意、憎しみと怒り、嫉妬と狂気の渦中──争いが起きる火宅であった。
いつの間にか、シューニャはメール山から四里ほどのアワド藩都に来ていた。
アワド藩都となれば外国人の姿も珍しくない。
都の往来でシューニャを気に留める者はいなかった。
人の群れの隙間を縫って、幽鬼のように歩いていった先に……酒場があった。
シューニャの目には、酒場の建物全体が青く炎上しているように見えた。
酒場を見る虚ろな目が、真っ青に染まっていた。
怒声が聞こえた。
「なあ! オヤジよォ~! 俺ァそ~んな難しいこと言ってねぇよなあ? なあ!」
開店前の酒場の中で、店の主人が屈強な男たちに囲まれていた。
「我がアワドの太守様はよォ~~、お前ンとこの娘を大層気に入ったんだとよォ~~?」
「娘のことは……道で見かけただけでしょうが!」
「だーかーらー、ひとめぼれなんだとよォ~~? ヒャハハハハ!」
五人の男が、背の低い主人をぐるりと囲んで、頭上から下卑た声を浴びせていた。
男たちの頭目と思しき者は、やや落ち着いた調子で主人の肩を叩いた。
「なあ、オヤジよ。悪い話じゃねぇだろ? 太守様のハーレムの中に加えて頂くんだ。ただの町娘よか、よっっぽど良い暮らしが出来る。かわいい女の子だけの特権だ。羨ましいくらいだぜ」
「ハーレムだって? 変態太守の慰み者にされるだけだろうがっ」
「あ~~ん?」
「うちの娘の友達もお前らに攫われて……三ヶ月前に死体で帰ってきた! 二度と見られぬ姿になって……!」
主人が必死に反抗するのは……シューニャにも分かる。
頭では理解できるが、もうそんなことはどうでも良かった。
人としての理性はぼんやりと薄まり、夢の中にいる。
生も死もない、青い炎の地獄の夢だ。
音もなく、シューニャは店の中に入っていた。
「オヤジよぉ……ちょーーっと、今のはダメだなぁ? 太守様をヘンタイ野郎たぁ、ちょーーっと不敬罪だわ」
頭目の男が、腰の剣を鞘から抜いた。
主人である太守を侮辱された云々は、抵抗を排除して手っ取り早く娘を回収するための口実もとい難癖でしかない。
続いて、他の四人も剣を抜く。
傷だらけで雑な手入れをされた刀身ばかり。だが頭目の男だけは少しマシだ。
「オヤジよ……お手打ちだ。ま、娘のことは、俺らに任せな」
「ひえっ……」
狼狽える主人に向かって、頭目が剣を振り上げた。
抵抗できない相手の恐怖を煽るだけの、くだらない動きだった。
だが、明確な殺意があった。
シューニャには、頭目の全身が青く燃えるように幻視できた。
「ああ……」
店に入って、初めて声を出した。
歓喜とも苦悶ともつかない、呻き声。
そこで男たちはシューニャに気付いた。
「なっ、なんだぁ、テメェはっ!」
「どっから入ってきたぁっ!」
狼狽する男たちも青く燃えている。
怯えと驚愕からくる敵意を受けて、シューニャはぶるっと震えた。
熱く冷たい血流が背骨に沿って逆流する──久方ぶりの武者震い。
頭の中で初陣の記憶、初めて人を斬った記憶、討ち死にした記憶、顔も背丈も全てが違う別人の自分たちの感情が混ざり合い、砕けて消えた。
「い・ざ……!」
シューニャは抜刀した。
もはや彼の者は人ではなく、生者でもなく死者でもなく、ただ殺意に反応する嵐と化していた。
時が止まる。
人の発する青炎と陽炎以外の全てが静止した空間。
そこに、シューニャと頭目との死合が開始された。
「む!」
頭目はシューニャの剣気に反応して構えを取った。
周囲の異常ではなく、自分に襲いくる死に反応できたのは、この男が比較的上澄みである証拠だ。
だが、そこまでだった。
頭目の男が構えた時には、シューニャが一刀の間合に入り、下段から小手を払っていた。
ヒュンッ、と金属質の空裂音が響き渡る。
「おおおおおおお!?」
男の、絶叫。
剣を握っていた男の手首が宙を舞い、ごとりと床に落ちた。
「う、ぉ、ああああああああ!」
何が起きたか理解できぬ男の叫びは、すぐに止んだ。
次の瞬間には頸動脈を切断され、全てが終わっていた。
時が動き出す。
両手と首を斬られて倒れる頭目の死体を見て、四人の男と酒場の主人が同時に絶叫した。
「うああああああああ!」
恐怖と殺意の炎が弾ける店内は、血風の瞬獄と化した。
店内の叫びが外に漏れ、武器を持った男たちが集まってきた。
「あンだこの野郎ォ!」
「俺たちを何だと思ってんだ貴様――!」
虎の威を借るなんとやら。
太守に雇われた三流のゴロツキどもが、三重にシューニャを取り囲んでいた。
何やらゴチャゴチャと悪態を吐いているが、シューニャの耳には雑音にしか聞こえなかった。
「切り結ぶ……刃の下こそ地獄なれ……」
ぼそり、と記憶の底にこびりついた剣術歌を謡う。
誰が作ったかも憶えていない。
自分だったような気もするし、父だったような気もするし、祖父だったような気もするし、共に同じ剣の高みを夢見た強者だったかも知れない。
「踏み込みゆけば、あとは極楽……」
ぼんやりと謳いながら、再び時が止まった。
酒場は、手首足首臓物が飛び散る地獄絵図と化した。




