解脱と呪縛と
翌日──ザキは、タジマ寺の奥院にいる法師に会いに行った。
香木の白煙がうっすらと漂う座敷に、法衣を着た禿頭の中年男性が──法師がいた。
「殿下、久しぶりですな」
ザキは改まった態度で、法師を殿下と呼んだ。
法師は、そういう身分の人間だった。
本来の名前も捨て、俗世を捨てた人間だった。
だからザキも名前は呼ばないが、一方で法師ではなく殿下と呼ぶ。
「ザキよ。私を殿下と呼んでくれるな……」
法師は苦笑いを浮かべて、ザキから目を逸らした。
彼もまた、俗世のしがらみから逃げている人間なのだ。
「法師、今日はシューニャという男について話に参りました」
「あの落ちてきたという者か。して、悪しき者か善き者か」
ザキの神官の家系は、異界からの来訪者を保護し、その正邪を吟味する役目も担っていた。
「シューニャと名付けた通り、あの者は空であり無です。自然そのもの。善きも悪しきもありませぬ」
ザキの奇妙な物言いに、法師は怪訝な目を向けた。
「古来より、上から落ちてくるのは異界の英雄、あるいは羅刹の類といわれておるが?」
「それは我々の都合で勝手に定義したものです。たとえば、タジマ様は己の身の上について書物を残されました。『元の世界では老い、病を得て死んだが、こちらの世界では若い体に戻っていた』『これにて未練を果たす余生を得たり』と。果たして……タジマ様は本当に人間だったのでしょうか?」
「何が言いたい?」
「上から下に落ちてくるのは……異界の人間が死した時に生じた未練や怨念の澱。彼らは人の形をしていても人ではない。ただ、生前の記憶に縛られて人の形になっただけのモノ。私には……そう思えてきたのです」
ザキは、既存の価値観を覆すような推論を静かに語った。
メール山よりガンダルヴァに降りたつ者たちは、悪しき者もあれば善なる者もいる。
たとえばタジマのように英雄となり、歴史に名を残す者さえいた。
彼らが人ならざる者だったなど……。
法師は、ごくりと息を呑んだ。
「それでは、まるで魔物ではないか……! 我が国は魔物たちに弄ばれてきたというのか?」
「そういう自然現象なのです。魔でも神でもありませぬ」
「では、シューニャという男も……自然として何かを成すために落ちてきたのか?」
「でしょうな。しかし、彼はそういった執着から逃れようとしている。無へと還ろうとしている。いや……」
ザキの目が、複雑な感情で重く沈んだ。
「シューニャは、己の煩悶の炎を消そうとしている。荒ぶる魂を鎮めようと……足掻いているように思えます。今の彼は、意思を持つ嵐のようなものです」
「人に害をなさないために、自ら消えようとしている……と?」
「はい。それが彼の望みなら、私は手助けをしてやりたいのです」
ザキは明確に意思を表示して見せた。
荒ぶる自然を鎮めようとする強い意志が、そこにあった。
心通わせた友を、穏やかに彼岸に送り出してやりたいという、慈悲の心があった。
結局、また他者に関わるザキを見て、法師は暗澹たる表情を浮かべた。
「ザキよ。お前は……執らわれてしまったな」
「人の縁とは、そんなものかも知れません。殿下……」
「私は……やりたくないのだ。人に縛られて、引っ張られて、己の人生を危険に晒すなぞ……。何千、何万という人間の生殺を握るなぞ……」
法師は自分が酷く惨めな気分になって、両手で顔を覆った。
同じく隠者の生活をしていても、自分とは真逆の鏡のようなザキを……直視できないのだ。
「ならば寺から出て山に篭り、仙人になると良いでしょう」
ザキは皮肉ではなく真心から助言した。
法師は、本来なら人の上に立つ人間だった。
権力争いに嫌気がさして、全てを放棄して寺に逃げ込んだ……そういう人間だった。
その日の昼過ぎ、ザキはシューニャをメール山に誘った。
「メール山には、篭るのに良い洞窟がある。たとえばタジマ様以前に落ちてこられたチェン・ゴンという方は乱世を生きたが、最後は俗世を厭うてこの洞窟に篭り、仙人になったという言い伝えがある」
山道から逸れた山の中腹に、青々とした岩肌が開けていた。
周囲に草木はなく、初夏だというのに冷たい空気が漂っていた。
「ここは大昔の魔消石の採掘跡らしい」
「魔消石……?」
以前に寺に来た商人の話の中にも出てきた単語だが、シューニャはどんなものかは知らない。
ザキは、足元に転がる青い小石を拾って見せた。
「魔消石とは、天地のあらゆる魔力を吸い取る性質がある。稲妻を当てれば雷を宿し、火山に投げ入れれば火を宿す。それを利用して魔力地雷や城攻めの砲弾に使われる。だが、わしは真の性質は別にあると思う」
ザキが小石を、小さな泉に投げ入れた。
すると、泉の水面が一瞬にして薄い氷に覆われた。
「都の魔術師どもは『これは水の魔力を奪ったから凍る』とか言っておったが……恐らく魔消石の本質とは物体の熱を奪い、全てを停止させることにある。これを利用すれば──」
言いかけて、ザキは口を覆った。
執らわれを口にすれば、ここに俗世の毒を引き込んでしまう──と。
「いや、こんなことはどうでも良いな。そなたには関わりなきこと」
薄い氷の水面が、バキリと音を立てて溶けて砕けた。
ザキは、洞窟にシューニャを案内した。
「ここならば、そなたの願いも叶うだろう。存分に空に至り、全ての執着から解き放たれると良い」
「かたじけなし……」
シューニャは、洞窟の奥へと踏み入った。
何の照明もないのに壁面が青白く光っている。これも魔消石の性質の一つなのだろう。
奥の壁面には、鮮やかな衣装をまとった半人半鳥の女神の絵が描かれていた。
「これは……?」
「ガンダルヴァの絵じゃの」
それは、この国と同じ名前の女神だった。
「音楽を奏で、歌い舞う幻の女神ガンダルヴァ。元は歌の女神と音楽の男神だったが、いつしか一つの神に混ざり合ったそうな。その女神は砂漠の中に幻の城を立て、旅人を惑わす。そんな蜃気楼の城が本物になったのが、この国の始まりだという神話じゃ」
「幻の女神……」
青い光に照らされるガンダルヴァの壁画は、じっと凝視していると虚空に浮かび上がって見えた。
ザキは虚空に浮かぶ女神に手を伸ばしたが、何も掴めなかった。
「古の画家は、この洞窟を利用してガンダルヴァの幻を表現したんじゃろうな。在るようで無く、無いようで在る。絵は実際にそこにあっても、美しい女神には決して手が届かない。見る人の心の中に残るだけじゃ」
「人の世のようだな……」
「いかにも。故に、ここはいつしか修行の場になった。禅を組んで悟りに至る者もいれば、お主のように一切合切から解脱した者もいる」
ザキは、寂寥とした語り口だった。
シューニャは暫くガンダルヴァの幻を見つめて、冷たい洞窟で禅を組んだ。
ここで瞑想の果てに、己を人の形に留める煩悶の炎を消し、無に還るのだ。
「ザキよ。俺はあなたに感謝する。良き……出会いだった」
シューニャは最後に人としての情を以て、去りゆく縁者に別れを告げた。
ザキは無言で微笑みを浮かべて、友の涅槃を祈った。
それより三日の間、シューニャは座したまま動かなかった。
無心。
ただ無心。
次第に呼吸の回数が減り、体温が下がり、やがて実体すらも薄まっていく。
ザキが一日に一度、洞窟に様子を見に来るのは感じた。
だが互いに何も言わない。別れはもう済ませたのだから。
このまま何も起きなければ、シューニャは一月と経たずに真の空へと至っただろう。
然し──人の世とは無常。
ここもまた安寧なる極楽ではなく、現の続きであり地獄でしかなく──
災禍とは起きるべくして起こるものだった。
シューニャが洞窟に入って四日目。
朝か夜かも分からぬ時に、洞窟の外から人の声がした。
「お前が山に入るってことは、また誰か落ちてくるんだろう! 分かってんだよ!」
乱暴な男の声。
ラーマとかいう巨漢の声だったと、シューニャは思い出した。
「違います! 私は山菜を採りにきただけで……!」
若い女の声がした。
知らない女だ。
「お前の兄貴がよォ! ナメた真似してくれやがったんだからよォ! お前が埋め合わせをしろってんだよ!」
「兄がなにをしようと、私には関係ありません!」
何か言い争っているが、シューニャには関わりの無いことだ。
動かず、考えず、座していたというのに、二つの足音が洞窟に侵入してきた。
「誰か! 助けて!」
女の悲鳴と
「あぁっ! テメェ! テメェは……ザキと一緒に逃げた野郎じゃねぇかよ!」
無駄な殺気に満ちたラーマの声が、凍った洞窟に踏み入ってきた。
シューニャの目が、うっすらと開いた。
女は身重だった。大きな腹を庇いながら、岩陰に隠れていた。
ラーマが腰に下げた刀を、シューニャに向けて投げたのが見えた。
「刀を取れ! 丸腰の野郎を斬っても名折れだからな!」
しゃん、と軽い音を立ててシューニャの足元にタジマ刀が転がってきた。
消そうとした蒼い炎が、シューニャの内で立ち昇る。
「やめよ。俺に関わるな」
冷たく気を込めて警告するが、ラーマには伝わらなかった。
「腰抜けが! やっぱりテメェはハズレだ、ハズレ! もぉぉぉぉう! いらねぇ!」
賢も技も至らぬ愚か者が、二刀の鞭剣を振り回した。
洞窟の岩肌を削り、空を切ってシューニャに迫る鞭剣は……あまりにも稚拙だった。
シューニャの虚ろな目の奥に、蒼い炎がゆらりと揺れた。
「バカが……。せっかく、俺は消えようとしていたのに……」
嘆くような掠れ声で呟き、嵐が炎と共に回天する。
一瞬、世界が静止した。
凍った洞窟の中で、時間の停止を知覚できた者はいなかった。
シューニャとラーマ、二人の剣者のみが動くことを許された、別の世界の理が働く空間。
時間の流れが再開するのは、二人の内のいずれかが倒れた時のみ。
死合は一瞬で終了した。
ラーマは両腕を切断され、首の動脈を切り裂かれて絶命していた。
シューニャが刀を抜いたことも、いつ立ち上がったのかも、自分がどうやって斬られたかも、彼は知覚できぬまま死んだ。
鞭剣の動きは直線的で制御は効かない。
シューニャの使う剣術では、刀以外の得物を「外の物」と呼ぶ。
腕力で振るい、慣性に頼る外の物の武器など見切るのは容易く、シューニャは神速の体捌きで間合いの内に入り、ラーマを切断したのだった。
ラーマは相対したのが自分を超えた遥かな高みに在る剣者であったことも、己の愚かしさと無力さも知らぬまま、幸福の内に散華した。
時間の流れが戻る。
物言わぬラーマの死体が洞窟に転がり、少し遅れて出血が広がった。
「きゃあああああああ!」
女は突然の惨劇に悲鳴を上げて、そのまま失神した。
シューニャは女のことなど眼中になく……己の内なる炎に煩悶していた。
「執らわれてしまった……。もう、ダメだな……」
苦しげな声だった。
人の形に留まっていた心が、燃え落ちる最後の苦痛だった。
ゆらりと空気が流れる。
脱力した右手に握られたタジマ刀の切っ先から、僅かに血が滴る。
シューニャは僧衣の裾で刀を拭い、鞘に納めた。
過去に何百人と人を斬った達人のごとく、馴れた手つきだった。
凍った洞窟の外へと、熱い空気が移動を始めた。
「ああ……ザキよ。すまぬ、すまぬ……」
友への謝罪を譫言のように唱えながら……シューニャは別のモノへと変貌していった。




