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人よ、ガンダルヴァの城のごとく

 

 ザキの軍勢が中央府を陥落させてから半年後──シューニャは依然として、ガンダルヴァ国内を徘徊していた。

 朝も夜も関係なく山野を歩き、遠くに見える青い炎に向かって進んでいく。

 廃城を根城にする盗賊たちを斬った。

 洞窟で修行に明け暮れる武芸者を斬った。

 逃げるのを良しとせず、意地で立ち向かってきた兵士を斬った。

 ただ空しく、空気のように流れていく。

 季節は冬となり、北方のテングル山脈から寒気が吹き下ろすようになった頃、シューニャは山道を歩いていた。

 長い放浪で僧衣はぼろきれ同然となり、タジマ刀の柄巻きは崩れ、鞘も塗りが剥げた無惨な有様だった。

 しかし、シューニャ自信は何の変化もない。

 土と埃で肌は薄汚れていても、髭も髪も伸びていない。肉体の時間は、異界からガンダルヴァに落ちてきた瞬間から停止していた。

 シューニャの往く山道に、人の姿はない。

 ザキの手の者たちが事前に避難させているからだ。

 シューニャが人の手に負えない歩く災厄であることは、国中に知れ渡っていた。

 だというのに──山道脇の庵に、男が座っていた。

 シューニャにとって、人間の姿かたちはどうでも良い。

 視覚で見るのではなく、心眼で気配だけを感じているから、男の外見はぼんやりと見えた。

「よう、急いでんのかい?」

 男は、シューニャに気さくに声をかけた。

 傍らに酒瓶と杯を置いている。

 その男が正気なのか狂気なのか、酔っているのか素面なのか、シューニャにはどうでも良かった。

 男には青い炎は見えなかった。

 煩悩の火は一片もなく、ぼんやりとした気配を囲う輪郭が人の形をしている。

「別に……急ぐわけでもない」

 久方ぶりに、人の言葉を話した。

 何を思っているのか、男はシューニャに手招きをした。

「急ぐ旅でないなら、少し休んでいかんかね」

「休む必要など……」

「嵐とて、歩みを止めることもあろうに」

 シューニャの足が、久方ぶりに止まった。

 そして気配ではなく視覚で男の姿を見た。

 男の外見は、若い。二十歳前後か。色の薄い肌、黒い髪、無精ひげ……ガンダルヴァの人間ではなかった。

 人種としての特徴は、シューニャと同じ。

 なにより、体幹を崩さない身のこなしが……自分と同類だと、シューニャに確信させた。

 男に招かれて、シューニャは庵に入った。

 記憶の奥底にある、故郷を思い出す作りだった。

 ガンダルヴァには珍しい板張りの床、土間に置かれた壷から感じる……懐かしいにおい。

 この質素な庵は、いつかの別の自分が旅の最中に宿とした、禅小屋に似ていた。

「酒は飲むのか?」

 男の声が土間からした。

「飲まぬ……」

 ぼそり、と小さく答えた。

 小声だったが、男には聞こえていた。

「下戸なのか?」

「飲む必要がない」

「腹も減らぬか?」

「減らぬ」

 シューニャは人ではない。

 ガンダルヴァに落ちてきてから、水も食糧も一切口にしていない。

 飢えも乾きもなく、肉体は問題なく稼働し、剣技にも乱れは生じない。

 だというのに

「だが食えぬわけではあるまい?」

 男は酒と飯を持ってきた。

 大きな口の酒瓶と、二人分の杯。

 器に盛られた白米と……皿に乗った大きな梅干し。

「梅……」

 シューニャの声に、僅かな驚嘆があった。

 この地に落ちてきてから、初めての感情だった。

 男が持ってきた赤い果実の漬物。一緒に漬けられた香りの強い葉も添えてある。

 それは遠い昔、こことは違うどこかの世界、何人もの自分たちが口にした、故郷の食べ物だ。

「ガンダルヴァでコレを作ってるのは俺だけでな。だから、梅干し坊主と名乗っている」

 おどけた調子で、男はそう名乗った。

 冗談なのか本気なのか……そんなことはシューニャにはどうでも良かった。

 ただ、皿の上の梅干しは、記憶の中のものより……遥かに巨大だった。

 人の拳ほどの大きさがある。

「この国の梅はやたらデカくてなあ……。デカくて大味で、地元の連中は食用に使わない。だが大きい分だけ、梅干しにすればギュっ……と、うま味を濃縮できる、と俺は思った。そして創意工夫を重ね、コレが出来上がった」

 梅干し坊主は、誇らしげに語った。

 口振りからして、梅干し坊主はガンダルヴァの人間でないのは明らかだった。

「おぬしは……」

 シューニャが訊ねるのを遮って、梅干し坊主が機先を制した。

「お前さんと同じ。上から、ここに落ちてきた。人の形をしているが人ではない者よ」

 梅干し坊主は人差し指で天を指し、虚空に線を引いて、指先を床につけた。

「向こうにいた頃は……今のお前のように、剣に執らわれていた。それが生き甲斐だったような気もするし、呪いだったような気もする。満足して死んだような気もするし、後悔したまま死んで妖怪になったような気もする」

 他人事のように言って、梅干し坊主は笑った。

「お前さんとも、会ったことあるかもな?」

 人のよさそうな笑顔に……見覚えはない。

 だが、シューニャの混濁した記憶が渦巻き疼いた。

 むさ苦しい野武士のような男と屋敷で語りあった気がする。悪鬼と化した男と浜辺で斬りあった気がする。勝負を挑んできた男に怯え、我が身かわいさに追い返した気もする。

 そうだ。

 あの男は、二刀を使う……剣の極に至った者。

 時系列も何もかも整合性のない矛盾だらけの記憶に頭痛と眩暈を覚え、シューニャは目を細めた。

「ぐっ……おぬし……?」

「まあ、どうでも良いことだ。もう俺は剣に未練はない。生きていた頃に振って振って振りまくって……振り飽きたわ」

 さっぱり、と梅干し坊主は飯の器を差し出した。

「ここで会ったのも縁よ。さあ、食え! この国の米はパサパサしとるが、梅干しと一緒に食うのもまたオツなものよ!」

 梅干し坊主は、手づかみで飯を食い始めた。

 これはガンダルヴァの習慣である。

 シューニャもそれに倣い、まずは梅干しを掴んだ。

 大きな梅干しに、結晶化した塩が粒々と付着している。

 ひと思いに齧ると、懐かしい塩辛さと酸味が口いっぱいに広がった。

「むぅ……」

「ん? 口に合わんか?」

「いや……とても……染みる」

 あまりにも久方ぶりの食べ物の刺激で、シューニャは味覚を正常に感知できなかった。

 胃袋も突然の固形物投入で正常稼働を要求され、困惑で痙攣していた。

 シューニャは、胃痙攣の痛みに胸を抑える。

「このような……感覚……っ」

「食うことは生きることだ。お前さんはガンダルヴァに来て、初めて人間として生きたってことだろう」

 梅干し坊主は梅干しを齧り、酒を盃に注いだ。

「俺も別に食わなくても構わんのだが……それもつまらんでな。酒も飲む」

 芳醇な甘い香りの漂う、琥珀色の酒だった。

「この酒は梅酒だ。こいつは地元の連中にも好評だよ。味だけでなく薬効もある。弱った胃にも効くぞ」

 そう言って、梅干し坊主は梅酒をシューニャに差し出した。

 シューニャは一口、梅酒を啜った。

「ふう……確かに。少し……楽になった」

 胃が液体を潤滑油にして、胃酸を分泌し始めるのを感じた。

 シューニャは少しずつ飯を食べながら、庵の中を見渡した。

 武を感じさせるものは何もない。

 代わりに目を惹いたのは、壁にかかった一枚の絵。

 それは、梅の木に留まる一羽の鳩の絵だった。

「あの絵は……俺が描いた」

 梅干し坊主は、ぐいと酒を呷った。

「どうも俺は剣に未練はないが絵には未練タラタラなようでな。暇を見ては描いている。ま、ガンダルヴァの連中には墨で描いた絵はイマイチ評判悪いんだがよ。地味だなんだと酷評しやがって……クッソ」

 悔しげな、だが嬉しそうな語り口だった。

 現地人からの評価が芳しくないのは、文化の違いのせいだろう。ガンダルヴァ人は絵も彫刻も神像も赤青金色の極彩色を好む。

「まあ、いつかガンダルヴァ人にも分からせてやるぜ。ワビサビってやつをな~っ!」

 梅干し坊主は剣の代わりに筆を取り、絵でガンダルヴァ人の価値観と勝負しているのかも知れない。

 生者だった頃の業から逃れ、命を奪わぬ試合で人生を謳歌する……そんな生き様が、シューニャには羨ましく思えた。

「おぬしには……この地こそが極楽なのだろうな」

「極楽か地獄かは……自分次第だと思うがな」

 梅干し坊主は梅の種をゴリゴリと歯で弄んでから、皿の上に吐き出した。

 果実部分の巨大さに比べると種は小さく、指先ほどの大きさだった。

 ことん、と音を立てた種が真っ二つに割れた。

「梅の種には毒があるが……時と共に消える。荒ぶる天神も、やがては和やかな恵みの神となる。お前も執着から逃れて、自由に生きられる時がくるのではないかな」

 皿の上の梅の種は、白色の仁が露わになっていた。

 シューニャは忸怩たる思いで、唇を噛んだ。

「剣を振るい、斬れば斬るほど業が深まる。俺がいるのは修羅界だ。戦いだけの、対話のない世界だ。俺はもう……人に戻れないほど斬ってしまった」

「その果てに……極楽はあるのか?」

「あるとすれば……俺の剣への執念が消える時だろう」

 シューニャは自分の梅干しを噛みしめ、実の一片まで舐めとり、残った種も……飲み込んだ。

 選んだ生き方が違う、ということだ。

 梅干し坊主は、侘しく梅酒を啜った。

 かつて同じように剣に執らわれた人生を送った者だから分かる。

 シューニャが剣から解放される時──それは命が終わる時だと。

「いつか……お前を解放する者が現れるだろう。尤も、そりゃ俺じゃないだろうがな」

 現に、シューニャは梅干し坊主からは一切の戦意を感じなかった。

 梅干し坊主が再び剣を握ることはないだろう。

 絵に未練があると言うが、彼の生きざまは全ての束縛から解放された真の自由、真の空、真の涅槃のように思えた。

「そんじゃ……お前に俺から餞別をくれてやる」

 梅干し坊主は立ち上がると、庵の片隅の大きな竹籠を漁った。

 その中から、一着の僧衣を取り出した。

「死に装束がボロ服じゃ格好がつかんだろう? こいつを着るといい」

「その僧衣は……」

 シューニャには、見覚えのある僧衣だった。

 タジマ寺の僧侶たちが来ていた僧衣と同じ意匠だった。

「こいつは、俺がザキに貰ったもんだ」

 梅干し坊主は、ニッと笑った。

 彼もまた異界から落ちてきた存在。ザキに拾われ、彼と心通わし、自分の道を見つけたのだろう。

 シューニャは僧衣を受け取った。

 冷たい布地に、懐かしき友の体温を感じた。

 飯を食い、酒を飲んで、同類との時間は終わった。

 井戸水で体を清め、新たな僧衣に着替え、出立の時がきた。

「馳走になった。良き出会いだった……」

 シューニャは、庵の中の梅干し坊主に深々と頭を下げた。

 その別れ際、梅干し坊主は忘れ物に気付いた。

「そういや、お前の名前を聞いてないな?」

「元の名前は数多の魂と混ざりあって消えてしまった。今の俺はシューニャ……という」

「その名は……ザキがつけてくれたのか?」

「そうだ」

 返すシューニャの声色は、僅かに柔らかい人情が篭っていた。

 ほんの僅かな時間、シューニャは人として生きた。

 そしてまた、剣の亡者に、徘徊する災厄に戻っていった。

 山道を歩き出す。遥か彼方の、煩悩の陽炎を目指して。

 シューニャは背中に梅干し坊主の哀しげな視線を感じながら、二度と振り向くことはなかった。



 ガンダルヴァ中央府に新政府が樹立して、一年が経った。

 腐敗した旧政府が打倒されたとはいえ、前政権に与していた藩は少なくない。

 それらの藩の太守は大半が旧政府議員の親戚筋であり、降伏しても裁判は免れないので、徹底抗戦の構えを取っている。

 ガンダルヴァ国内を完全に平定するまでは戦時体制であり、選挙は延期された状態にある。

 ザキは臨時政府軍の司令長官に据えられたが、実態は政権のトップも同然だった。

 旧体制から寝返った議員や太守を抑えつつ、政権運営の右も左も分からない商人組合との折衝を行えるのは、強い軍権と太い人脈を持つザキしかいなかったのだ。

 自分たちの権益を広げようとする太守たちと、下卑た商人癖の抜けきらない閣僚たちを牽制し、それでいて敵愾心を煽らずに穏便に話し合いを調停するのは……凄まじいストレスだった。

「いっそのこと、ザキ先生が王になってしまわれては?」

 何かある度にサハジ副官が冗談めかして、そんなことを言うと

「はぁ~~……それは軍事独裁と言うのじゃよ」

 ザキは深く深く溜息を吐くのだった。

「人は根本的に俗物なのだ。それが気にくわないからと全員の首を刎ねて言うことを聞かせる……それは短絡的なのだ。知恵ある人の行いではない。」

 中央府庁舎内にあるザキの執務室には、乱雑に無数の本や資料が重なっていた。

 サハジ副官は新しく持ってきた資料を適当な床に置くと、ザキの講義めいた説教に反論した。

「私には、太守たちに知恵があるとは思えません。ガンダルヴァ人の悪しき部分の象徴ですよ、彼らは」

「だからといって『強き者に従え』と獣の論理で彼奴らを制しても、それは時代を巻き戻すことじゃ。わしに愚痴るか、心の中で思うだけにしとくんじゃな」

 ザキは椅子の背もたれに体重をかけた。

 高価な椅子の厚い革が、ギュム……と音を立ててザキの疲労した筋肉を受け止めた。

 そして、机に上にあった一冊の古びた本を開いた。

「必要以上に欲し、他者に怒り、無知の知すら分からぬ愚かしさを三毒という。これを説き、人に良き道を示したのは……五百年前に異界より、最初にこの地に落ちてきたシャーキャという聖人だと伝えられておる」

 ザキの開いた本には、蛇、鳥、豚が互いの尾を噛んで円環を成す三毒の図が描かれていた。

「この本はシャーキャの説法や思想をまとめたものじゃ」

「煩悩を制し、涅槃に至る……というのは、タジマ様の思想にも通じますね」

「うむ。異界から落ちてきた者たちは、どこか共通した思想を持っておる。中でもシャーキャの説法が最もシンプルで分かり易い。恐らく、思想の源流に近い御人だったのじゃろうな」

「そのシャーキャという方は、どうなったのですか?」

「世を厭うてメール山に入って、二度と下りてこなかったそうじゃ。まあ、当時のガンダルヴァ人の性質は三毒そのものじゃったからな。分からん話でもない」

 シャーキャなる聖人に多大な共感を覚えつつ、ザキは思う。

 案外、彼は生前に煩悩に満ちた世界を救済したことがあって、死後にまた地獄のようなガンダルヴァに来てしまい、うんざりして俗世を去ったのではないか──と。

「ま、二度も腐れた世界を救うなんて冗談じゃないからのう」

「はい?」

「いや、なんでもない」

 ザキは適当にサハジ副官を誤魔化して、本を閉じた。

「サハジよ、お前はガンダルヴァの現状に憤っているな」

 今更な指摘だ。

 憤ったからこそ、サハジ副官はザキに弟子入りし、兵法を学び、反乱に参加したのだ。

 しかし、その憤りは旧政府を打倒しても収まらない。

 サハジ副官は、複雑な面持ちで目を逸らした。

「ガンダルヴァ人は……無知で欲深い愚かな人間です。戦いに勝っても、また新たな俗物が世を支配するだけではないですか」

「お前が怒るのは……希望を抱いておるからじゃの」

「希望?」

「自分の人生に、世界に、未来に希望を抱いておる。本当に絶望した人間は、お前のような顔はしない。全てを諦め、全てを呪い、怨嗟を篭めて冷ややかに笑うだけじゃ」

 ザキは口角を僅かに上げて、凍りついた笑みを浮かべた。

「わしのように……な」

 それを見て、サハジ副官は背筋に悪寒を覚えた。

 師の笑みの薄皮の下に隠れた、世界と人間に対する果てしない憎悪と失望、そして諦観を覗いてしまった……そんな気がした。

「先生……?」

「ぶっちゃけた話な、わしは心の底では世界の全てを憎んでおる。わしは若い頃にクソ議員の下で働くのがイヤになって中央の軍を辞めた。田舎に帰ってからは惨めなモンじゃよ。『期待ハズレだった』と父にも妹にも好き勝手に罵られた。地元の連中からも見下されて、職にも就けず結婚もパァになった。わしを否定した世界なぞ……好きになるワケなかろうが! それで何もかもにウンザリして……隠者になった」

「でも……我々に兵法を教えてくれたではないですか!」

「お前らがあまりにも素人だったからのう。それで世話してやったが……ちょっと盗賊をブッ殺しただけで掌を水車みたいにクルクルクルクル回転させる商人どもには反吐が出たわ」

 吐き捨てるように言って、ザキは引き出しから何枚もの手紙を出した。

 半分は封が切られ、半分は未開封だった。

「地元の連中、知らん親戚、顔も忘れたガキの頃の友達、二十年前に婚約していた幼馴染、親父と妹、その他諸々からの手紙じゃ。『お前ならやると思ってた』云々の前置き『あの頃のお前は~』どうこうのしょーもない思い出話、それから本題の『金貸してくれ』『うちに仕事を回してくれ』どうのこうのと……。わしが出世した途端にコレだ! 胸糞悪いわっ!」

 手紙の半数が未開封なのは、どうせ同じ内容なので開ける必要がないからだ。

「こんなことになると分かっていたから……わしは隠者でいたかったのじゃ」

「私にも……実家から手紙が届きました。同じような……」

「そしてお前は憤った。だが、わしはただ、ただ絶望する。意地汚い人間に。頼みもしない栄光を押し売りした、この世界に」

 ザキは額を抑えて、肺腑の奥深くから冷たい溜息を吐き出した。

 人並みの幸せを求め、人生に希望を抱いていた若い頃ならいざ知らず。

 人の三毒を思い知り、全てに絶望し、若さを失い、子も成せずに朽ちていくだけの年寄りになってから、人生に成功して何になるのか。

 いや、世間から見れば成功者だろうが、実際は多大な責任と期待を押し付けられた神輿だ。

 ──俺から希望を奪っていったくせに、今さらこんなものを押し付けるな!

 ザキは心の底から、運命を呪った。

「ふ……なんなら、わしはシューニャが世界の何もかも滅ぼしてくれるのを望んでおる。それこそが真の解放じゃ。解脱じゃ。どうにでもなれば良い……というのが本音じゃな?」

「なら、どうして……先生は今でもこんな調べものをしているのですか」

 サハジ副官が持ってきた資料も、足元に積まれた本も、全ては異界からの落下者に関するものだ。

 ただの知的好奇心でここまで熱心に資料を集めるだろうか。

 サハジ副官は、ザキの本心は上辺の愚痴言葉ではなく、行動に表れていると思っていた。

「先生は……シューニャを止めるために過去の資料から真実を探っておられるのではないですか」

「フン、違うわ。見くびるでない」

 ザキは鼻で笑った。

「わしはな、二度と異界とガンダルヴァが繋がらんようにするために、調べ物をしとるんじゃよ」

 師が予想より遥かにスケールの大きい仕事を想定していたので、サハジ副官は目を丸くした。

 驚きと喜びを以て。

 そんな弟子の感情を鬱陶しく思い、ザキはまた厭そうな顔をした。

「お前……わしが世界を救おうとしてるとか、壮大な勘違いをしとるな?」

「違うのですか?」

「わしは、面倒事の元を断ちたいだけじゃ。今後もあんなのが次々と落っこちてきたら、落ち着いて隠居もできんじゃろうがっ」

 独善は真意か照れ隠しか、いずれにせよザキは集めた資料を基にして別紙に情報をまとめていた。

 ザキは引き出しから、木のペグで留められた紙の束を取り出した。

「さっきも言うたが、最初に異界からヒトの形をしたモノがメール山に落ちてきたのは五百年前じゃ。それ以前には確認されとらん」

「五百年前に何かがあった……と?」

「それはまだ分からん。そして五百年前から、我が国はたびたび異界の者たちの影響を受けている。たとえば三百年前のタジマ様はガンダルヴァ統一のキッカケを作った。我が国はガナ・サンガという寡頭制によって支配されてきたが、百年前に市民の選挙で議員を選ぶ民主共和制を導入した。これも異界の者の影響という説がある」

 一見、別の世界からの来訪者が優れた思想、技術を移入することでガンダルヴァが発展しているように見えるが──

「これは……わしらの世界が本来辿るべき発展の順序を掻き乱しておる」

 ザキは苦々しい表情で否定した。

「文明汚染とでもいうべきか。異界の異物どもが死んだ後に未練を持ちこんで、わしらの世界を掻き乱しておるのじゃ」

「しかし、国と国も文化や技術を移入して発展するものです。それが別の世界でも発生した、ということでは?」

 対して、サハジ副官は肯定的に考えた。

 ガンダルヴァも過去に幾度となく隣国の侵入を受け、国土が占領されたこともある。

 屈辱と敗北の歴史であるが……文明が混ざり合い、新たな文化が生まれた一面もある。

「渡り鳥が孤島に種を持ちこむ例もあると聞きます」

「それは自然の理じゃの。だが──」

 再び、ザキは紙を年代のページに戻した。

「異界からの侵入が……人為的なものだったら?」

「えっ?」

「誰かが召喚しているとか言っているワケではない。五百年前に、メール山に人間が何か手を加えて、自然が歪められて、こんな現象が起きるようになったとしたら……」

 ザキは、椅子の背もたれから体を起こした。

 静かな執務室に、乾いた吐息が響く。

「全ては人災……ということじゃ」

 異界からの外来種が、世界の理を歪めているとしたら──

 サハジ副官は悪寒を覚えた。

 自分たちが腰に下げる大小のタジマ刀や、それを扱う剣術や作法。人の三毒を忌み嫌う思想。そして当たり前のように享受している共和制といった政治体制までもが、異界に文明を汚染された結果だとしたら。

 いや──汚染されたことすらも自覚できずに、得体の知れない者たちに文明を凌辱されていたと思うと、これほど悍ましいものはない。

「渡り鳥……いや、迷い鳥が持ちこんだ植物が、元の草木を覆い尽くす……ということですか」

 人に直接害なすシューニャだけではない。異界の者は全てが等しく、この世界には異物なのだろう。

 サハジが異界の者たちを迷い鳥に喩えたのは、言い得て妙だとザキは感じた。

「迷い鳥か……。わしの役目は、新しい政府が独り立ちするまでの世話焼き。それと……鳥たちを在るべき場所に還してやることなんじゃろうな」

 死者の未練が還る場所は、一つしかない。

 寂しげに目を細めるザキの胸中を思うと、サハジ副官はそれ以上、何も言えなかった。

 師は──平穏のために、凄まじい難行苦行に挑んでいるのだと。


 夏のある夜、クリシュナ将軍の屋敷で宴会が開かれた。

 要は政治的な懇親会である。

 招待客は新政府のお歴々、豪農、豪商及びその家族。

 酒の席で談笑しつつ語られるのは、選挙工作、商売の談合、献金諸々の生臭い話。

 その片隅に、ザキも座っていた。

 目立たないように端の席を選んだのだが、有名人ゆえ生臭どもの魔の手からは逃れられなかった。

「ザキ先生は独身だそうで~?」

 名前も知らない太った豪商が、隣に座って馴れ馴れしく話しかけてくる。

「ええ、まあ……」

 ザキは苦笑いで受け流す。

 ガンダルヴァ伝統の弦楽器シタールが奏でる音楽が屋敷を包み、酒と香木の香りが神経を惑わせる。

 ここは正しくガンダルヴァの城。

 一時の虚構に惑わされる、あわれな人間たちの踊る舞台なのだ。

「実はうちの娘が、ザキ先生にとても憧れていましてな~~」

 豪商のおっさんが、まだゴチャゴチャと話している。

 魂胆は見え見えだ。

 ザキに自分の娘を見合いさせようとしている。あわよくば結婚を狙っている。

 ここで下手に話を合わせると見合いの言質を取られてしまうので、ザキは会話の間合を計って敬遠する。

「はは……わしは女性にょしょうに嫌われるクチでしてな~? 一人でいるのが性に合っておるのです」

「いやいや、ザキ先生には深い人生経験があります。ぜひとも、一度わが娘と会ってお話でも……」

 食い下がってくる豪商は、心底鬱陶しかった。

 この場でこいつを無礼打ちできたら、どんなに楽だろうかと思う。

 貴人の家に上がる時の作法として、今は脇差しか持っていないが、この間合なら一撃で仕留めるのは容易い。

 が、そんな物騒なことは心の中で願うだけだ。

 いっそ、自分は若い頃に患った熱病で種無しになってしまったとか適当な嘘でも言ってしまおうかと思案していると、背後から声がした。

「ザキ先生、そろそろお時間です」

 サハジ副官が良いタイミングで来てくれた。

「おお、そうか。では、これにて失礼」

 離席の良い口実だった。

 ザキの愛想笑いは、宴会場を出た瞬間に安堵の笑みに変わっていた。

「はははは……たまらんな、ああいう生臭い場所は!」

「先生はこういう場所……お嫌いですよね?」

「ああ、大ッ嫌いじゃ!」

 それなのに招待に応じた。

 俗物どもと無意味な付き合いをするくらいなら仮病を使って辞退するところだが、そもそも今回の宴会はクリシュナ将軍がザキと会談するために催したカモフラージュなのだ。

 軍部に強い影響力を持つ二人が大っぴらに話をすれば、他の閣僚に警戒される。

 いらぬ嫌疑をかけられ政府内に不和を起こすのは望む所ではない。

 なので、クリシュナ将軍は全ての要人を招待し、その中にザキを紛れ込ませた。

 後は適当に宴会に顔を出して、タイミングを見て退席したというわけだ。

 蝋燭の火が点々と灯る屋敷の廊下を曲がると、先導していたサハジ副官が女性とぶつかった。

「おっと……」

 サハジ副官は、倒れそうになった女性をとっさに支えた。

 若く、美しい女性だった。

 まだ少女のあどけなさを残す顔立ち、長く艶やかな黒髪、柔らかな褐色の肌が、蝋燭の灯りで幻想的に見える。

 サハジ副官は一瞬、見惚れかけたが彼女の上品な身なりを見て、高い身分であることに気付いた。

「これは失礼を……」

「いえ、わたくしの方こそ不注意でした……」

 女性は姿勢を正すと、会釈をして小走りに去っていった。

 ほんの数秒の出来事は嵐のようで、サハジ副官は呆気に取られた。

 甘い花の香りが、まだ体にまとわりついている。

「あの女性は……?」

「ん~……クリシュナ将軍のご息女、アビシャ殿じゃのう」

 ザキは首を猫のように捩じって、薄闇に消えていくアビシャの背中を見ていた。

「アビシャ殿は、なんであんな急いでるんじゃろうな? 自分の家なのに」

「きっと、お父上に代わって、客人の相手などもせねばならないのでしょう」

 サハジ副官の物言いに、ザキは目を細めて「フーーン……」と鼻を鳴らして呆れた。

「ボケーっとしとらんで、早く案内あないせい」

 ザキはサハジ副官の足を小突いた。

「ああ、はい。すみません、先生……」

 我に返ったサハジ副官は先導を再開した。

 廊下を曲がって少し歩くと、離れのテラスに出た。

 テラスには、クリシュナ将軍が待っていた。

「ザキ殿、良くきてくれた」

 握手を求めるクリシュナ将軍に応え、ザキは手を差し出した。

「人と会うのも一苦労ですな。将軍のお気持ちが良く分かるようになってしまいましたわ」

 お互いに苦笑いを浮かべる。

 ザキは失った自由を懐かしみ、クリシュナ将軍は同類を哀れむように。

 話を始める前に、ザキはサハジ副官を一瞥した。

「将軍、あの者も同席させたいのですが」

「ん、彼は……?」

「我が弟子です」

 ザキが極秘の会談内容を弟子に聞かせる……その意味を察して、クリシュナ将軍は頷いた。

「よろしい。それがザキ殿の願いなら」

 承諾を得て、サハジ副官は頭を下げて謝意を示した。

「ありがたき仕合わせにございます」

 テラスには、心地いい夜風が吹いていた。

 シタールの演奏が遠くに聞こえる。人目につかず、騒音もなく、存分に会話が出来る場所だった。

 ザキは、テラスの間取りを確認していた。

 大理石の床、手すり、テーブルと二つの椅子……。

 どれも上等な代物。ただそれだけだ。

 だが、それらに何かを感じるものがあったのか、ザキは視線を再びクリシュナ将軍に移した。

「クリシュナ将軍、もう一つお願いがあるのですが」

「なにかね?」

「折角ですから──チャトランガでもやりませんか?」

 チャトランガとは、駒を使って盤上で戦争を再現する伝統的遊戯のことだ。

 暫くして、サハジ副官がチャトランガのセット一式を持ってきた。

 ザキが持ってくるように命じて、屋敷の者から借りてきたのだ。

 この遊戯は軍の基礎的な教習にも使えるので、武家には必ず一つは置いてある。

「我らは軍人ですからな。チャトランガに興じながらの方が、話も弾むというもの」

「うむ、一理ある。私もザキ殿と一戦交えてみたいと思っていた。血を流さぬ盤上の戦でな」

 クリシュナ将軍は楽しげに言うが──含むところがある。

 それはザキも同じで、チャトランガは密談を隠蔽するための偽装工作であるのは明らかだった。

 ザキとクリシュナ将軍はテーブルを囲んで座り、サハジ副官は入口付近に控えていた。

 チャトランガの盤上には、各々に王と臣の駒が一騎。他に象、馬、車、兵の駒が複数用意されている。

 これらの駒を交互に動かし、戦わせ、敵の王を討ち取った側のプレイヤーが勝者となる。

「わしが呼ばれた理由。パールシー国の件……ですな」

 先手のザキは単刀直入に本題に入った。

 まず兵の駒を動かした。

「昨年、わしの反乱が成功したのに触発されて隣国パールシーでも反乱が起きた。腐敗した王政は、伝統的宗教儀礼を尊ぶ教団に打倒された。問題は……こいつらだ」

 クリシュナ将軍は険しい表情だった。

 こちらも兵の駒を前進させる。

「決して我々に友好的な集団ではない。間者によれば、民衆を扇動して即席の兵士に仕立て上げ、素手で突撃させるという。それも何万、何十万という人の津波となって……」

「人海戦術……とでも言うべきですかな。後先考えない戦術ですが、だからこそ恐ろしい」

 国の税収の元となる一般大衆を武器として使い潰す狂気の戦術である。

 クリシュナ将軍とザキは、盤上で互いに兵を潰し合わせた。

 人的資源の損耗は国力を著しく低下させる愚行だ。

 それを正規の作戦として大規模に行うのは──

「戦力不足を補うためにやむを得ず行ったか、あるいは反乱軍にマトモな司令官がいないから、こんなアホな作戦を実行したのでしょうな」

「もしくは、その両方だ。実際、この人海戦術が成功体験となっているようだ。パールシー国軍の残党は殲滅され、次に矛先が向かうのは──」

「我が国、ですな」

 ザキは淡々と空恐ろしい予測を述べた。

「なっ!」

 サハジ副官が動揺して身を乗り出そうとしたのを、ザキは右手で制止した。

 黙って話を聞いていろ、と。

「都合の良い敵を作って、民衆の不満の矛先を自分達以外にそらす。政治の常套手段ですな」

「敵勢の数は膨大だ。未だ国内を統一し切れていない我が軍に数の利はないが──」

「ま、勝てるでしょうな」

 ザキはキッパリと言った。

 チャトランガの盤上は、いつしかクリシュナ将軍の側が押されていた。

 ザキは敵の兵を巧みにかわし、馬の駒で敵王に迫りつつあった。

 確かに、ザキはこれまで数的に上回る敵軍を撃破し続けた。正規軍ですらない素人の寄せ集めに負けるはずがない。

「しかし、勝ち続けるのも問題なのですなあ~?」

 ザキの発言に、クリシュナ将軍は頷いた。

 この不可解な発言にこそ、会談の真意が秘められている。

「ザキ殿の軍は、一度の敗北も知らず戦争に勝利してしまった。この上、パールシーの軍にも勝利すれば慢心、増長は止められなくなる。おそらく、ザキ殿ですら……」

「調子こいてのぼせたアホ共には、教師の言葉も届きませんからの。かつての成功体験を愚直に信じ、勝ち目のないバクチに賭け続け……いずれ取り返しのつかない結果に至る。だから──」

 ザキは盤上の駒を巧みに動かし、敵に有利な方向に誘導していた。

「そういう軍隊は、適当な所で痛い目を見させる必要がある」

 話を聞いていたサハジ副官は、ザキとクリシュナ将軍が何を考えているか気付いて、冷や汗を流した。

 ザキは突き放すような、あるいは悲しむような冷たい目で、夜空を見上げた。

「おそらく、敵は数を頼りに多方向から我が国の領内への浸透を図る。もちろん敵の主力は撃破するが──」

 ザキは言葉を濁し、チャトランガの盤上で敵軍の抜け道を作った。

「我が王に敵勢を誘導し──」

「ちょっとした敗北……か」

 クリシュナ将軍は盤上で有利に駒を進め、王手を取った。

 つまり意図的に敵を首都に呼び込み、自軍の兵たちの血を以てガンダルヴァ軍に敗北を教育する──ということである。

 恐るべき計画だった。公にできるはずがない。他の閣僚たちにも決して理解されないだろう。これが露見すれば狂気と見なされ、ザキとクリシュナ将軍は逮捕されるに違いない。

 人を盤上の駒として扱い、命を弄ぶ鬼畜の所業である。

 傲慢なる己を、ザキは自嘲した。

「ふふ……こんなことをバラしたらチャトランガのラージャ気取りかと、軽蔑されるじゃろうなあ」

 チャトランガのプレイヤーはラージャと呼ばれ、駒を思うがままに動かし、使い潰す。

 ザキ自身、計画の傲慢さは痛いほど理解していた。

「それでも、やらねばならんのじゃ。この試練なくば、ガンダルヴァは遠からず破滅する」

「して、軍の指揮はやはりザキ殿が?」

 クリシュナ将軍の問いに、ザキは首を振った。

「いや……我が副官、サハジに一任しようかと思っております」

「ほう……」

 突然に大任を押し付けられ、サハジ副官は「うっ……」と小さく悲鳴を押し殺した。

 緊張と重責に踏みとどまり、拳を強く握っている。

 ザキは弟子の様子を横目で見て、クリシュナ将軍との会話に戻った。

「見た目こそ若いですが、わしも歳ですゆえ。病の療養で暫くラジギールの温泉にでも引っ込むつもりです」

「ラジギールといえば、シャーキャなる古の聖人が沐浴した地。パールシーとは反対側の東の地だな」

「はい。あまりに遠いですので、召集されても遅参する恐れもありますなあ」

 その後も暫く、陰謀談義は続いた。

 周囲に他人の気配はないというのに、なぜか二人とも暗号めいた回りくどい話し方を続けていた。

 宴会場から響くシタールの調べが切なげな旋律を奏で始めて、宴の終わりが近いことをザキは悟った。

「そろそろ戻らねば。長居すると怪しまれますからな」

 言いながら、ザキはテーブルの端をさすった。

「時に、良く手入れのされた家具ですな。これを用意されたのは……アビシャ殿ですかな?」

「ん、そうだが?」

 唐突に娘の話を振られて、クリシュナ将軍は呆気に取られた。

 どうして? と問い返される前に、ザキは声の先を打った。

「さきほど廊下ですれ違いましてな。こういう繊細な手入れは下女ではなく、高貴な女性ならではと思いましてな。ははははは」

 ザキは話を適当にお世辞に逸らして、席を起った。

 その後、サハジ副官と共に宴会場に戻り、宴の終わりに参加してから、屋敷の裏庭に向かった。

 ここは灯りも少なく、酔い覚ましにたむろする客もいない。

 時間つぶしと内緒話には、丁度いい穴場だった。

「──ときに、サハジよ」

 ザキは暗い庭園を歩きながら、背中越しにサハジ副官に声をかけた。

「おぬし、アビシャ殿をどう思う?」

「はい? ああ……とても美しい御方で──」

「惚けるな」

 ぴしゃり、と見た目云々の世辞をほざく弟子を叱るように言って、ザキは後に拳を突き出した。

「さっきのテーブルにな、こんなゴミが付いておった。手入れに不備あったと、おぬしからアビシャ殿に伝えておけ」

 サハジ副官が慌てて両手を差し出すと、ザキの拳がパッと開いた。

 暗がりの中で、小石のような何かがサハジ副官の掌に落とされた。

 それを受け取った瞬間、サハジ副官は酔いから目醒めた。

 先程のチャトランガの意味も、漸く理解が追いついた。

 ザキは踵を返すと、サハジ副官を置いて庭の奥へと歩き始めた。

「わしは少し散歩してくる」

「せ、先生!」

「お前はお前の仕事をしろ。女子おなごに化かされるでないぞ」

 ザキの声が、闇の中に遠ざかっていく。

 師の忠告で、サハジ副官は我を取り戻した。

 鼻の奥に残っていた甘い色香も消えた。

 今なら、鼻も良く効く。

「……アビシャ殿、夜の隠れんぼは、止めた方がよろしいかと」

 サハジ副官は背後に向けて言った。

 暫くすると観念したのか、花のアーチの物陰からアビシャが現れた。

 ばつが悪そうに、サハジ副官を睨んでいる。

「……勘の良い殿方は嫌われますよ」

「隠れんぼをするには、香水が強すぎなのですよ」

 皮肉を皮肉で返され、アビシャは顔を背けた。

 煽り合いにも穏行にも馴れていない。要するに、全ては素人の気の迷いなのだ。

 さきほどザキから渡された、この小石にしても。

「アビシャ殿、これがテーブルの裏に付いていたそうです」

 サハジ副官は小石を灯りに晒した。

 それは中身がくりぬかれた、小さな音響魔石だった。

「この魔石は魔石同士の共振で音を伝える。それを利用すれば、離れた部屋からでも会話を盗聴できます」

 件のテーブルを用意したのはアビシャであり、その後の不審な行動を見れば盗聴の犯人が誰かは明白だ。

 サハジ副官は怒るでもなく、淡々と問い詰めた。

「どうして、こんなことを? と聞いてはみますが、おおよその察しはつきます。アビシャ殿の母方のおじい様は中央政府の財務大臣でしたね。昨年の戦いで逃走中に捕捉され、一族諸共に──」

「……ええ、そうよッ!」

 図星を突かれ、もはや隠し立ては無理と思ったのか、アビシャが声を張り上げた。

「ザキは……父上をたぶらかし、おじい様を殺し、ガンダルヴァを我が者にした簒奪者! 許せるわけがないでしょうッ!」

 感情を露わにするアビシャは鬼の形相だった。

 サハジ副官は、ただ冷静に女というものを観察していた。

 美しい外面の中に、どろどろした怨念を煮えたぎらせるのが女。

 花の香りで男を騙し、我がままに食らおうとするのが女……。

「父も父です! 武人なら……どうして戦って死ななかったのですか! 我が身かわいさに生き恥を晒し、あまつさえザキと何かの謀をして……再びガンダルヴァに災いを成そうとしている! ああ、醜い醜い! 同じ家に住むのも汚らわしいッ! 気が狂いそうッッ!」

 アビシャは髪を掻きむしり、羅刹のように振り乱した。

 こんな女に一時でも惑わされた自分を愚かとは思うが、サハジ副官は同時にアビシャを哀れんだ。

「そのお父上に養われて、今のあなたがあるのではないですか」

「あなたに、わたくしの何が分かるのですかッ!」

「分かりませんなあ」

 サハジ副官は平然と、アビシャに歩み寄った。

「近寄るな下郎ッ!」

 アビシャが護身用の短刀を抜いて斬りかかってきた。

 しかし素人の斬撃。ザキに教えを受け、実戦を経験してきたサハジ副官には児戯に等しかった。

 間合を見切り、短刀を握る手首を掴んで、捩じるように背後に回った。

「い、痛い……ッ!」

「痛い? それに斬られたら、私は痛いどころでは済みませんよ?」

 素人の激情とはいえ、アビシャの無神経な発言にサハジ副官は眉をひそめた。

「あなたは人の痛みが分かっていないと見える。常に高みから民衆を見下ろし、幼き日より飢えも知らない生活をしていながら、まるで自分が世界で一番不幸だという顔をしている」

「お……お前のような平民の出に……ッ」

「そうです。その傲慢こそがガンダルヴァを蝕んだ悪なのです。あなたのおじい様も、父上も、民から搾取した金であなたを育てた。いわば、あなたの体は悪しきもので作り上げられた」

 サハジ副官がアビシャの手首を捩じる力が増した。

 アビシャの手から短刀が落ちて、甲高い悲鳴が上がった。

「いっ、痛い~~~ッッッッ! やめてぇッッ!」

 さすがに小娘をいたぶるようで心が痛む。

 騒ぎにもしたくないので、サハジ副官はやや力を緩めた。

「お父上が……クリシュナ将軍が、どうしてザキ先生に降ったのか、お分かりですか? あなた達、家族を守るために……敢えて恥をかぶったのですよ?」

「そんなこと……頼んでない……ッ! 我が家は歴史ある武人の家系です! 父は家名のために……戦って死ぬべきだったのよ……!」

戦場いくさばに立ったこともないあなたに、武人の何が分かるのか! 子を育んだこともないあなたに、親の何が分かるのか!」

 サハジ副官は思わず感情的に叫んでしまった。

 怒りよりも、哀れみを含んだ声だった。

「あなたがお父上とザキ先生を憎むのは勝手だが……大義を言い訳にされるな!」

 サハジ副官は抵抗の弱まったアビシャを、突き放すように解放した。

「ぎゃっ」と小さな悲鳴を上げて、アビシャが花壇に倒れた。

 この世間知らずの小娘から見れば、クリシュナ将軍は土壇場で転向した卑怯者に見えるのだろう。

 こんな娘でも、クリシュナ将軍は守ろうとした……。

 サハジ副官は、ザキの言っていたことを理解できたような気がした。

「歳を取ると弱気になる……か。我が子が独り立ちできねば、なおさら不安は大きくなる……。どんな猛将だろうと、人の親なのだ……!」

 守るべき者のために人は弱くなる。呪縛と幸福は表裏一体。

 故にザキは、自分には守る者がないと言ったのだ。

 人の親になれなかった師の哀しみ、人の親になったクリシュナ将軍の苦しみを……サハジ副官は理解できたような気がした。

 その親の心を知らない子が、キッと顔を上げてサハジ副官を睨んだ。

「説教したくらいで勝った気になるなよ下郎! ザキは今ごろ、我が手の者にかかって死んでおるわッ!」

 小娘が、負け惜しみのように叫んだ。

 サハジ副官は、ザキが自分を置いて立ち去った意味を悟った。

「はぁ~~……まったく!」

 呆れ果てて、大きな溜息が出た。

 アビシャの愚かしさに、こんな小娘に一瞬でも心惹かれた自分に。

 庭の奥から、水の溢れるような音が聞こえた。

 いったい何が起きているのか。

 しかし──どんな手練れの刺客が相手だろうと、ザキが負けるという結果は考えられなかった。


 クリシュナ将軍の屋敷は、ガンダルヴァ統一前の古い皇族の居城を接収して改築したものだ。

 庭園も呆れるほどに広大で、村一つ分ほどの広さがある。

 これでも現在の庭園は小さく改修したもので、かつては象や鹿が放し飼いにされていたという。

 往時の名残から、庭園内には川が流れている。

 ザキは月明かりを頼りに土手の遊歩道を歩いていたが、ふと歩みを止めた。

 水面に映る月を、ぼうっと眺める。

 ここはクリシュナ将軍の屋敷の敷地内。剣は預けてあり、身を守る武器は脇差のみ。そもそも襲撃の心配もないので護衛もつけていない。

 どう見ても、あからさまに、隙だらけだった。

 僅かに草の揺れる音がして──ザキは刺客らに囲まれていた。

「おうおう、素手同然のオッサン相手に数人がかりとはのう」

 ザキは動じることなく、敵を数えた。

 前に一人、やや斜め後方に二人。黒づくめで軽装。武器は取り回しの良い、小ぶりのタジマ刀。典型的な暗殺者のスタイルだ。

 試しにザキが動く素振りを見せると、刺客も僅かに動いた。

 鎖帷子の擦れる音がした。

「そうビビるなよ。わしがこんな脇差を持っているのが怖いのか? ん?」

 ザキが脇差に手をかけると、刺客らは身構えたが──脇差はぽい、と横の草むらに投げ捨てられた。

 理解不能の行動に一瞬、刺客らに動揺が走った。

 その僅かな隙に、ザキは前方に踏み出した。

 ザキは完全な素手である。

 刺客は困惑しつつも、自らの圧倒的有利を疑わずに斬り込んだ。

 闇中に剣が閃き、月光が反射した、次の瞬間──

「がああああああ!」

 刺客が叫びと共に転倒した。

 タジマ刀はザキに奪われていた。

 残った二人の刺客は、何が起きたのか理解できなかった。

 ザキがやったのは、タジマ寺に伝わる無刀取りの奥義だった。

 敢えて隙を見せて敵の攻撃を誘い、カウンターで敵の剣の柄を握り、下から掬い上げるようにして一拍子で奪い取る。

 ザキは無刀取りにてタジマ刀を奪ったと同時に刺客の手首を捩じって折り、足首を踏み砕いて転倒させたのだった。

「おいおい、どうしたどうした~?」

 ザキはおどけるように、ゆらゆらと体を左右に動かして攻撃を誘った。

 それなりの剣境に至った者なら、ザキの無刀取りを見て技至らずと悟り、身を引いただろう。

 しかし、刺客たちは無刀取りの視認すら出来なかった。

 わけも分からぬままザキに斬りかかり──

「のおおおおおおっ!」

 刹那の後、絶叫と共に地面に転がっていた。二人の刺客が、ほぼ同時に。

 ザキは、ほとんど動いていなかった。

 刺客たちの技の起こりと足運びから全てを見切り、相手の動く先に切っ先を置いた。

 それだけで刺客たちは自ら刃に飛び込み、手足を切り裂かれ、柄打ちと峰打ちで首を打たれて転倒した。

「ま……剣の位が違い過ぎたのう」

 刺客たちを殺さなかったのは、情けをかけるほどに余裕があったからだ。

「おぬしらは若いゆえ、まだやり直しも効く。追わぬから、とっとと去ね」

 敢えて一人になったのも、武器を持ってこなかったのも、人気のない庭園の奥に進んだのも、全てがザキの術中だった。

 敵に隙を見せ、カウンターを狙い、最小限のコストで終わらせる。

 それがザキの戦いだった。

 刺客たちが這って逃げていくのを確認して、ザキは川面に目を向けた。

 水面の月が、僅かに歪んでいる。

「わしの気のせいかのぉ~? 川底に竜が潜んでいるように見えるのは?」

 ザキが大声で叫ぶと、川面の月が大きく盛り上がった。

 月は水面を突き破り、巨大な銀色の巨竜と化して現れた。

 それは、昨年にコーチン藩で目撃された直立二足歩行の竜の魔物、地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥだった。

「チィッ……いつから気付いとった!」

 対岸の土手から、異国の魔物使いパイ・フーが顔を出した。

 ザキはやや離れた銀髪の刺客に聞こえるように、声を張り上げた。

「そんなバカでかい竜が気付かれずに移動できると思っとったのか? 川底を歩いてきたようじゃが、川に入るところをわしの兵が目撃しておるぞ~!」

 まるで子供の悪戯を笑うような口調だった。

 暗殺の現場は緊張感のない状況に一変して、パイ・フーは頭を抱えて赤面した。

「ぬぁ~~っ! せやけど! あんたを殺せば無問題やっ!」

「ふん、どうせ依頼主はアビシャ殿じゃろ?」

「知らんっ! ウチは全然知らんっ! 知らんから死ね~~っ!」

 自分の不手際と恥を覆い隠さんと、パイ・フーが地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥをけしかけた。

 もはや隠す必要もないからと、巨竜が吼えてザキに迫る。

 いかにザキが剣豪とはいえ、タジマ刀で装甲に覆われた地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥにダメージは与えられない。

 しかし──ザキは、最初から全てを読み切っていたのだ。

「ほうれ、出番じゃカメェェェーーーっ!」

 どこか脳天気な叫びを合図に、ザキの足元の土手が崩壊した。

 地中から巨大な亀型魔物、羅刹亀ルオ・シャーグィが飛び出したのだ。

 甲羅に四肢と首を引っ込め、回転しながら地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥに体当たりを食らわす。

 銀の装甲から火花が散り、のけぞる竜の絶叫が月下にこだました。

「うげっ! あの亀は、まさか……っ!?」

 パイ・フーが月明かりに人を探す。

 羅刹亀ルオ・シャーグィを操る魔物使い、ヘイ・シーグイが対岸に立って……手を振っていた。

「パイちゃ~~ん、ひさしぶり~~!」

 ヘイ・シーグイは同郷の友との再会に、空気を読まずに喜んでいた。

 羅刹亀ルオ・シャーグィの体当たりを食らった地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥは体勢を崩し、再び川の中に没した。

 大量の水飛沫が吹きあがる中、パイ・フーは対岸に叫んだ。

「お前~~っ! なんで、そこにおんねーーんっ!」

「ザキ先生が~~、ここにティーちゃんが来るから、隠れてろって~~!」

 ヘイ・シーグイの言う「ティーちゃん」とは、地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥのことだ。

 旧知の相手の間の抜けた喋り方の脱力感と、ザキに全てを見抜かれていた敗北感で、パイ・フーは戦意を喪失した。

「ああ~、もう……負けや負け! ウチの負けやっ! もう好きにせえっ!」

 パイ・フーは、その場にへたっと座り込んでしまった。

 これまでの旅の失敗もあって、半ばヤケクソになっていた。

「ほう、好きにしろと言うたな?」

 ザキはにたり、と笑ってヘイ・シーグイに目配せした。

 人材の匂いを感じたのだ。

「アレは無職なのか?」

「はい~。たぶん、パイちゃんだけでなく仲間の子たちも~~……」

 ヘイ・シーグイは不安げに、だが少し期待するような目で何かを訴えていた。

 ザキは伊達に歳を取っていない。言わんとすることは分かる。

「よかろう、そいつら全員雇ってやる」

「わぁ~~、ありがとうございます~!」

 自分と同様に仲間達をも雇用してくれるというのだから、ヘイ・シーグイは嬉しくないわけがなかった。

 感謝をこめてザキに一礼してから、パイ・フーに大きく手を振った。

「やったね、パイちゃ~~ん! 無職卒業だよ~~っ!」

「でかい声でワケわからんこと言うな~~っ!」

 パイ・フーは、まだ状況を理解していない。

 旧友にバカにされたと思っているのかもしれない。

 川の中で、二匹の魔物は主たちの奇妙な姿を見て、ぼんやりと口を開けていた。

 この時、既にザキは新しい手駒を加えた作戦を頭の中で完成させつつあった。


 クリシュナ将軍との密談から暫くして、ザキは病気療養を理由に長期休暇を取った。

 その間の司令代行としてサハジ副官を指名し、議会にも承認された。

 サハジ副官は、就任の挨拶としてクリシュナ将軍の屋敷を訪れた。

 形式的な挨拶と、ザキから引き継いだ陰謀の打ち合わせを終えると、サハジ副官は屋敷内の塔に足を向けた。

 塔の入り口の番兵には顔が効く。

 クリシュナ将軍の許しを得て、もう何度も来ているからだ。

 この塔は元々は見張り用だったが、長い年月の内に使用目的も移り変わり、その都度に改築され、今は風景を眺める展望用に落ち着いている。

 クリシュナ将軍の前の代では諸藩から招いた客をここでもてなし、高みから下界を見下ろす悪趣味な宴会を催したそうだ。

 一応の居住空間としては整っているので、貴人の幽閉には最適だった。

「失礼いたします」

 サハジ副官は塔の最上階の扉の前で、部屋の中に声をかけた。

 心なしか、声に淡い期待が込められていた。

「どうぞ、お入りになって」

 室内から、更に浮ついた女の声が返ってきた。

 このやり取りも何度目だろうか。

 サハジ副官は勢い良く扉を開けて、跳ねるような足取りで部屋に入った。

 扉を開けた瞬間、甘い花の香りが溢れ出す。

 室内は幽閉という薄暗い言葉が似つかわしくない、明るく、清潔な内装だ。

 幽閉されている貴人もまた、輝くほどに美しい女性だった。

「もうっ! 懲りずにまた来たんですのね、ザキの飼い犬っ♪」

 クリシュナ将軍の息女、アビシャだった。

 アビシャは貶しているのか冗談なのか、嬉しそうな妙な言葉でサハジ副官を出迎えた。

 彼女はザキの暗殺未遂と陰謀の一端を盗聴した件で、父であるクリシュナ将軍によって幽閉される身となった。

 その後、サハジ副官は説得も兼ねて暇を見ては訪れ、アビシャとの対話を重ねた。

 当初は敵意を剥き出しにして、ザキとサハジ副官を口汚く罵るばかりのアビシャだったが──

「サハジっ! サハジサハジサハジっ! あなたって、本ッ当に冴えない男ね! これだから平民ってイヤ! わたくしに会いにくるんだから、もっとキラキラした服を着てきなさいよ♪」

 アビシャはサハジ副官に抱きついて、くねくねと体を擦りつけた。

 それは、人懐っこい犬が大好きな人間にじゃれつく姿に似ていた。

 今やアビシャのサハジ副官に対する敵意は軟化どころか好意に反転し、この有様だった。

 対するサハジ副官も、アビシャへの感情は同様にひっくり返っていた。

「私は表向き、お父上に会いにきてるんですから。そんな派手な服を着て来たら奇異の目で見られてしまいますよ」

「じゃあ、わたくしの部屋に来る前に着替えてきなさいっ!」

「あなたと会うのに……自分を偽ろうとは思いません」

 サハジ副官の口調は優しい。

 アビシャの好意に応えて、柔肌をそっと抱きしめた。

 当初は、アビシャを説き伏せるのが目的だった。

 しかし、こういう場合は小賢しく謀略を用いるより、まず真心を以て相対すべきだ──とザキに教えられている。

 嘘偽りを以て人心を弄ぶ者は業を積み重ね、いずれ破滅するのが歴史の常である。

 なので、サハジ副官は言葉を選びつつも本音でアビシャに接した。

 その結果──今では彼女の愚かしさも軽薄さも含めて、愛おしく思っていた。

 今日もまた、口づけを交わす。

 アビシャの柔らかい唇が触れ、甘い吐息が体内に吹き込まれる。

 これで何度目の口づけなのか、もう忘れてしまった。

「んっ……好き、好きっ! サハジ……すきぃ……」

「私も……アビシャ殿のことが……」

 素直に好意を吐露しようとして、サハジ副官は声に詰まった。

 女に溺れる自分の有様をザキに見られたら──と想像してしまった。

 叱られるだろうか、呆れられるだろうか、それとも「まあ、それも良いじゃろう」と納得してもらえるだろうか、と。

 気がつけば、腕の中のアビシャが見上げていた。

「なんですの? ちゃんと言ってくださいっ!」

「ああ、はい。言います、言いますよ」

「口で言わなければ気持ちは伝わらないんです! 兵法に通じていると言う割に、こういうことは……」

「仰る通りです。愛しています、アビシャ殿……」

 愛を伝えて、また口づけを交わす。

 軽い口喧嘩をするほど気持ちが昂るのが男と女だと、サハジ副官はアビシャを通じて学んだ。

 ザキが兵法の師なら、アビシャは恋愛の師だ。

 かつては軽蔑していた彼女に対して、今では深い愛情と尊敬を抱いていた。

 今やアビシャとは無垢なる愛情で通じ合っているのだが──

「ねぇ、サハジぃ……。ザキのこと殺してくださいません?」

 遠慮なく、こんなことをおねだりしてくるようになった。

「あいつを殺してぇ……サハジが地位を奪うの! それで私と結婚すれば、何もかも幸せ!」

「ははは……それは無理です」

 無論、断固として拒否である。冗談でも拒否である。

 アビシャはサハジ副官とは相思相愛だが、依然としてザキのことは蛇蝎のごとく嫌っている。

 愛を燃え上がらせる悪女の演技なのか、はたまた本心なのか、アビシャは悪戯っぽく笑った。

「もうっ! じゃあ、もっと、もーーっとサハジをわたくしの虜にして、籠絡して……わたくしの言いなりにしてあげますわ!」

「ははは……私はもうとっくに、アビシャ殿の虜ですよ」

 サハジ副官は、アビシャに対して嘘は言わない。

 女に溺れているのではなく、泳いでいるつもりだった。

 この温かく心地良い、女という海を。

 油断すれば足を掴まれ、深みに飲まれかねない……女という海を。

 暫しの逢瀬を楽しみ、泳ぎ疲れ……つかの間の別れの時が訪れた。

「少し遠くに参りますので……暫くはお会いできません」

 サハジ副官は、遠回しに遠征を仄めかした。

 嘘は言っていない。だが真実をありのまま口にすることは出来ない。

 万一、アビシャがここを抜け出して、再び気の迷いを起こさない保障はないのだ。

 アビシャはそれとなく察して、寂しげに目を伏せた。

「わたくし……今でも全てに納得したわけではありません。でも、あなたの武運を祈る気持ちは……真実ですわ」

 アビシャは手を組んで神に祈った。

 その姿に、サハジ副官は神話の女神を見た。

 彼女のためにも、戦いに勝利したい。彼女に相応しい男になって帰ってきたいという……執着が生じた。

 だが、同時に師の言葉を思い出した。

 ──守る者を持った人間は弱くなる。

 家族を愛したゆえに降伏を選んだクリシュナ将軍のように。

 サハジ副官は己の中の愛を押し殺した。

 感情を気取られないように頭を下げ、アビシャに一礼して退室した。

 塔の階段を降りながら、サハジ副官は自分に言い聞かせるように呟いた。

「ザキ先生の代理として軍を率いる……その覚悟、我が身を以て示さねばなりません」

 この瞬間からサハジ副官は、万の兵たちの生死を背負い、戦に臨む将の顔立ちに成った。


 司令官代理に就任したサハジ副官はさっそく、対パールシーと国土防衛を想定した軍の再編成に取りかかった。

 クリシュナ将軍の精鋭部隊は、ガンダルヴァ国内の敵対的な藩に対して配置した。

 国内の反抗勢力が敵国と内通し、侵攻に呼応して蜂起するのは容易に予測できる。

 パールシーとの国境では、サハジ副官が迎撃部隊の直接指揮を執る。ここが本命と言って良い。

 一方で、中央府の首都防衛には二線級の戦力を充てた。

 指揮官は、ガルワール藩の若き太守カナク。

 ガルワール藩は昨年、土壇場でザキの率いる反乱軍側に寝返った藩だ。

 カナクは若く、優柔不断で、見栄を好む派手好きな男だった。

 ザキの軍への転向も古株の補佐官に口うるさく言われて渋々承諾し、結果的に勝ち馬に乗れただけのようなものだ。

 要するに、絵に描いたような暗愚なのだ。

 口を開けば

「今日は西の風が爽やかだから、西の村を視察しよう」

 だの

「昨日はとても月が綺麗で……朝はゆで卵が美味であった」

 だの、詩人めいた言動を公の場で繰り返し、議員や補佐官たちを困惑させるのが日常茶飯事だった。

 しかし祖父の代からの太守の家系で家柄は良く、顔は美男子で声もハキハキとしているから、民の人気は高く、選挙でも強かった。

 正しく衆愚政治の化身のような男であり──

「だからこそ、生贄に相応しいのです」

 サハジ副官は冷たい目で、カナクに指揮官就任の辞令を送った。

 カナクは辞令の真意など微塵も理解せず

「今は夏ですが、清々しい春の風が吹くのを……私は感じました」

 謎の詩を詠って、無邪気な喜びを表現した。

 それを間近で見た補佐官、部下の将校たちは暗澹たる気持ちが表情に滲み出ていたのは言うまでもない。

 ザキとクリシュナ将軍の計画では、カナクは首都防衛に失敗してもらう予定になっている。

 演習以外で軍隊の指揮経験すらない、この暗愚の坊やが率いる二線級部隊に、浸透してきたパールシーの人海戦術と、新政府に敵対的な藩軍との寄せ集め集団をぶつける。

 首都陥落寸前にまで追い込んだところで援軍を送り、増長しつつある軍と議会に危機感を持ってもらうのだ。

 カナクが戦闘中に死のうが、生き残って責任を取ってもらおうが、どうでも良い。

 一応、カナクの監視として二人の魔物使いをつけた。

 少年魔物使いホン・ニャオと、姉貴分のラン・ロウンである。

「俺は道化を演じて、あのお坊ちゃんの側につく」

「私は女の武器で、せいぜいカナク様を惑わしましょう」

 新たに雇用したこの二人を工作員として用い、カナクを制御する。

 もしカナクが想定外の悪しき行動を取った場合は、非常の処置も許されていた。

「そん時ゃ俺の魔物で、頭上からズブリさ」

 ホン・ニャオは赤い魔鷹の魔物を使う。

 高空からの急降下で、無防備な頭を刈り取るなど造作もなかった。

「私は……カナク様を夜伽に誘って毒を盛るも良し。寝込みを魔物に襲わせるのも良いですねえ?」

 ラン・ロウンは若く美しい女だった。青みがかった目と髪はカナクの興味を強く惹いた。

 魔物は青い獅子を使役する。夜闇に紛れて寝所を襲い、カナクを暗殺する最終手段も選択肢にあった。

 二人とも、もカナクのような貴族ずれの上流階級を軽蔑している。

「故郷で俺たちを差別していたのも、ああいう貴族のクソ野郎だった!」

「本当に虫唾が走りますわ。アレを殺せと命じられたら、喜んで八つ裂きにいたします」

 ──といった具合で、万に一つも情が移ることはないだろう。

 首都防衛への謀略の仕込みを終えて、サハジ副官は対パールシーの最前線に向かった。

 ガンダルヴァ西部の砂漠地帯。

 パールシー国との国境に位置するここで、敵の人海戦術を迎撃する。

 国境近くの村から住民を避難させ、そこを本陣とした。

「先ずは国境警備の部隊を後方に退かせよ」

 サハジ副官は卓上に大きな地図を広げ、ザキのように筆を振るって作戦を指示した。

「次に国境に魔力地雷を敷設する」

 地図上の砂漠に点々と墨を落とし、魔力地雷の敷設地点を指示した。

 だが、広大な国境の砂漠に対して地雷はあまりにも少なすぎた。

 数百個敷設しようとも、地雷は所詮”点“に過ぎない。

 敵軍の進行ルートを限定できる森林や渓谷ならばともかく、広大な平面の砂漠に敷設しても効果は薄い。

 軍議に参加している将校の一人が手を挙げた。

「パールシー側は数万人もの人の津波で押し寄せると聞きます。魔力地雷で密集隊形の数十人まとめて消し飛ばせるとしても、敵の勢いを止められるとは思えません」

「左様」

 サハジ副官は頷いた。

「魔力地雷の意味は二つある。一つ、敵勢の漸減。たとえ数万の敵兵でも無限ではない。それを少しでも削る」

「もう一つは?」

「二つ目は、こちらが消極的に防衛している……と敵に思い込ませることだ」

 将校たちは意味が分からず、顔を見合わせた。

 なんらかの心理戦であることは理解できたが、そこにどんな意味があるのかが分からなかった。

「サハジ司令……その心はいかなるものでしょうか?」

「敵は今まで熱狂的人海戦術で勝利を収めてきた。我々はそれに恐れをなして逃げた。形ばかりの防衛として地雷だけを置いて……と、敵に思わせる。すると、敵はどんどん我が領内に突撃してくるだろう」

「なんらかの策で迎え撃つと? しかし、この一帯は砂漠ばかりです。都市も森も山もない。罠をしかける場所など……」

 作戦を聞かされた将校たちは困惑した。

 敵を誘い込んだところで、数を減らさなければ何の意味もない。

「我が軍の手勢は二万程度です。偵察によれば、敵の一団は十万はくだらないとのこと。五倍の戦力差、どう覆すのですか?」

「嵐を用いる」

 サハジ副官の発言は、またしても不可解だった。

 将校たちは窓から外を見た。

 ガンダルヴァ西部の夏は晴天の極み。

 天地は熱され、雨雲の兆しはなく、また砂嵐の予兆もなかった。

 ただ一人、サハジ副官はニッと笑って、地図に矢印を一本引いた。

「我が国には、人の形をした嵐がいるな?」

 その一言で、将校たちの顔から血の気が引いた。

 サハジ副官が何を考えているか、理解してしまったのだ。

「シューニャなる剣術災厄を敵軍にぶつける」

「なっ……」

 絶句する将校たちを尻目に、サハジ副官は次々と地図に矢印を書き込んだ。

「既にシューニャはこの地に誘導されつつある。地雷原を抜けた敵軍は、シューニャという嵐にぶつかる。孤軍の嵐と人海の激突だ。嵐は海を砕き、大海は飛沫となって散る」

 地図上でバールシー軍の塊がシューニャ単騎に打ち砕かれて、小さい矢印となって方々に分散していく様が描かれた。

「水滴になった人海に力はない。指揮系統すらない小規模な集団に分かれた敵を、我が軍は各個撃破する!」

「しかし……そう上手く事が運ぶでしょうか?」

「うまく行くように努力するのが我々の仕事だ。諸君ら一人一人の能力が試されると覚悟してほしい」

 将校たちは身が引き締まる思いだった。

 古参の将校は、かつてのナグープル藩との戦いを思い出した。

 確実に勝てる保障などなく、我武者羅に戦った当時の緊張が蘇った。

 サハジ副官は、将校たちの表情を見て手応えを感じた。

 良い傾向だ、と。

「よろしい。では、細かい作戦を伝える。意見があれば遠慮なく言ってほしい」

 それから、サハジ副官と将校たちによって作戦の子細が整えられた。

 ガンダルヴァ領内に引き込んだパールシー軍を分散、誘導する手段の補助として大型の魔物を活用する。

 パイ・フーの地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥにヒカソウの火砲を増設しマーク・ドゥ仕様とする。

 地雷之怒マーク・ドゥの放つヒカソウの火力は面制圧に有効だが、それ以上に音と爆発で敵集団を威嚇するのが重要だった。

 素人の集まりに過ぎない敵軍はヒカソウの火力に怯え、巨竜の咆哮に慄き、統制を失って潰走するだろう。

 地雷之怒マーク・ドゥは、単騎ではなく専用の支援部隊と共に運用する。

 ヘイ・シーグィの使役する羅刹亀ルオ・シャーグィに大量の予備砲弾を牽引させ、ヒカソウを撃ち尽くす度に支援部隊が再装填と目標観測、及び射撃指示を行い、発射する。

 地雷之怒マーク・ドゥは移動砲台としてポジションを随時変更しつつ射撃を行い、また迷走する敵部隊には姿を晒すことで威嚇も行う。

 これはザキが草案を作製し、サハジ副官が完成させた戦術だった。

「名付けてこれ、ヴァジュラ・パーニ戦術なり」

 ヴァジュラとは雷帝の放つ雷のこと。

 戦場に雷火のごときヒカソウを降らせ、雷鳴のごとき咆哮を轟かせるのだ。

 果たして、サハジ副官の作戦は成功した。

 シューニャの誘導によりパールシー軍の人海戦術は崩壊し、恐慌状態に陥った寄せ集めの素人集団は瓦解。

 複数の大型集団に分かれた敵軍をヴァジュラ・パーニ戦術によって更に細かく打ち砕き、待機させていたガンダルヴァ軍が一方的に制圧した。

 パールシー軍の主力は殲滅したが、敵軍は多方向からガンダルヴァ領内に侵入した。

 二万人程度のパールシー軍が領内に浸透し、それに呼応した反政府勢力と合流。

 ザキの読み通り、ガンダルヴァ中央府へと侵攻を開始した。

「サハジ司令! 敵軍の一部が反動勢力の藩を通って中央府に向かっています!」

 勝利に喜ぶ暇もなく、将校たちは大慌てで報告してきた。

 全ては開戦前にザキが予測し、敢えて放置していたことだ。

「ふむ。では、我が軍も敵を追って中央府へ!」

 サハジ副官は冷静に追撃を命じた。

 予定では、脆弱な中央府守備の部隊は籠城で辛うじて持ちこたえる。

 そこにサハジ副官とクリシュナ将軍の主力部隊が駆け付け、中央府から打って出た守備隊と敵軍を三方向から挟み撃ちにして、これを撃滅。

 辛勝という形でガンダルヴァ軍の綱紀粛正を行う予定──

 だったのだが、事態は思わぬ方向に展開した。

 中央府首都は、散々な有様だった。

 分厚い城壁は破城槌を打ち込まれて所々崩れ、あたりには放棄された攻城具が散乱している。

 城門は焼け焦げ、敵味方の死骸が無数に転がり、戦火の煙が立ち昇る。

 炎天下に漂う濃厚な死と炎の臭いが、昨日までの激戦を物語っていた。

 予定通り、守備隊は緒戦で敵軍の数に押されて敗走。

 以後は籠城して持ちこたえてくれたのだが──

 脆弱なはずの中央府首都守備隊は、意外にも単独でパールシー軍を撃破してしまったのだ。

 サハジ副官ら主力部隊の帰還を知り、敵の攻撃に耐えてきた首都の巨大な城門が、数日ぶりに開放された。

 首都から湧きあがる歓声。

 多くの友軍がサハジ副官を出迎えた。

「サハジ司令! 我が軍は……勝ちましたァッッッ!」

 守備隊指揮官のカナクが、ぼろぼろの体で歩み出た。

 ──!?

 ほんの数日前まで虚栄の塊のようだったカナクが泥と血にまみれ、傷だらけで兵たちの先頭に立っている。

 どういうわけだろうか、他の兵たちは号泣している。

 悲しくて泣いているのではない。

 感激の涙を流しているのだ。

 ──!?

 一兵卒、士官、補佐官らは口々にカナクを称えた。

「カナク様は……ご立派でしたッッッ!」

「ズタボロに負けて籠城することになって、もうダメだと思ってたのに……」

「カナク様は兵と民を鼓舞して、自ら最前線で指揮を執られたのですッ!」

 つまり──カナクは土壇場で指導者として覚醒したらしい。

 首都を包囲されて絶望する民衆を励まし、自らの分を削って水や食料を分け与えた。

 土に塗れて兵たちと苦楽を共にし、自ら危険に飛び込み、団結して敵軍に立ち向かった。

「私は今まで、自分がどれだけ迂遠な立ち振る舞いをしてきたか思い知りました。私は追い込まれて初めて……人生の覚悟が決まったような気がします」

 カナクは飢えと心労で、やつれていた。

 いや、心と体が引き締まったのかも知れない。

 今のカナクは、多くの命と責任を背負う……男の顔をしていた。

「無力な私を……彼女は傍で支えてくれました」

 今も傷ついたカナクの傍らに付き添う女がいる。

 魔物使いのラン・ロウンだった。

 ──!?

 あの冷たい印象だった女が、鼻を真っ赤に染めて泣いている。

「若様は……こ、こんな卑しい私を信じてくださいましたぁッッッ!」

 監視役として置いたはずのラン・ロウンが、カナクのことを「若様」と呼んでいる。

 しかも重傷のカナクに自然と体を寄せて、気丈に振る舞う彼を気遣っている。

 サハジ副官は一目で理解した。

 アビシャに恋と愛と女を教えてもらった、今なら良く分かる。

 これは演技ではない。

 ラン・ロウンは……あわよくば暗殺を狙っていた男に、今では完全に心酔していた。

 彼女は心からカナクを愛してしまったのだ。

 しかしサハジ副官は、状況が全く理解できなかった。

「あの……これは、どういうことですか?」

 困惑していると、魔物使いの弟分ホン・ニャオが涙ながらに経緯を説明し始めた。

「若様は……みんなを鼓舞して、敵司令官への一点突破をかけたんです。自分が囮になるから、その隙に司令官を討てと……魔物使いの俺たちを信じて、全てを賭けたんです……ッ!」

 つまり──カナクは自分の家柄と派手な見た目を利用して敵の注意を惹きつけた。

「若様は『自分ごときが死んでも問題ないから』って……わざと派手な鎧をつけて、逃げるフリをしたんです!」

 そして名のある将軍が逃げると思った敵軍はカナクを追い、手薄になった敵の本陣にラン・ロウンとホン・ニャオが魔物で奇襲をかけたというわけだ。

「俺たちの魔物は、いざという時は合体できるんです」

「は?」

 ホン・ニャオが妙なことを言ったので、サハジ副官は思わず聞き返した。

「いま、なんと?」

「姉御の獅子と俺の鷹は、心を一つにすることで鬼舞羅きまいらという魔獣に──」

 なにやら奇天烈な内容の話が続いた。

 件の合体魔獣は、首都の城門近くで傷ついた体を休めているのが見えた。

 巨大な青い獅子の背中に赤い魔鷹がくっついている。

 なるほど、あれで敵将を討ち取り、混乱した敵軍に守備隊が襲いかかって撃破したのだろう。

 そして魔物使いの二人は、カナクの高潔さに心打たれて改心した。

「家柄だけの私ですが、皆の力で大役を果たすことが……出来ました。うぐっ……」

 カナクは血の滲む胸を抑え、立ち眩んだ。

 ラン・ロウンが、とっさにカナクの体を支えた。

「若様っ! お気を確かに! ランが、ランがここにおります! これからも! ランは若様の杖となり剣となります!」

「俺も! ホンもおります! 姉御と共に、これからも若様のために働きとうございますッ!」

 二人の魔物使いは、すっかりカナクの人柄にほだされたようだ。

 異国の魔物使いだけではない。

 ほんの数日前まではカナクを内心見下し、何の期待もしていなかった将校や補佐官たちも同様だった。

 今やカナクは、人々の尊敬の眼差しに囲まれている。

 カナク自身に能力はなくとも、指導者としての覚悟と振る舞いを得た今では、有能な部下たちが彼を支えてくれる。

 奇しくも、一種の理想が完成していた。

「うーん、なんとも予想外ですが──」

 サハジ副官は、これも良しと納得した。

 予定は狂ったが辛勝であることに変わりはない。

 兵も民も、なにより指揮官であるカナクも苦労を味わい、勝利と成功は労せず得られるものではないと学んだ。

 結果的には、ガンダルヴァ軍の慢心を打ち砕くという当初の計画は達成されたと思って良い。

「人も自然も、思い通りにはならない……ということですね」

 サハジ副官としても学ぶ所のある結果だった。

 最も傲慢だったのは自分だったのかも知れない──と。

「それとも、先生は……この結果も予想されていたのでしょうか?」

 遥か遠方の師を思い、サハジ副官は空を見上げた。

 真っ青なガンダルヴァの夏空、やけに遠くに聞こえる兵たちの歓声。

 ほんの数秒、夢心地で惚けていた。

「凱旋と……それからアビシャ殿にご挨拶に行かねば」

 すぐにサハジ副官は現実に戻って、義務である仕事と愛する女性のことを思い出した。

 その後、ラン・ロウンとホン・ニャオの二人の魔物使いに関しては、本人たちの強い希望もあって、工作員としてではなく正式にカナクの部下として配置換えを行った。

 この戦いから半年の間に、司令長官に復帰したザキは計略を以てガンダルヴァ国内の反抗勢力を懐柔、もしくは内部崩壊に導き、全土を平定した。

 戦後処理と職務の引き継ぎ、議会への根回しを済ませたのが翌年の初夏のこと。

 ザキは自分の後継にサハジ副官を指名すると──

「後は皆さまにお任せします」

 一切の地位を返上し、持病を理由にあっさりと職を辞した。


 ガンダルヴァの隣国パールシーを、災いが横切っていた。

 人の形をした、シューニャという剣術災厄がパールシーに侵入して一年が経った。

 人海戦術は孤軍には通用せず、シューニャの通った後には無数の死体が転がるのみだった。

 パールシーを支配する宗教政権は敵を作り上げ、それに勝利することで民衆の不満を逸らし、熱狂的支持を維持してきた。

 だが、その敵に敗北してしまった。

 昨年のガンダルヴァ侵攻作戦は失敗し、神聖義勇軍として送り出した12万人もの一般民衆は帰ってこなかった。

 更には国内に侵入した、ただ一体の魔性の者にすら政権は何も出来ない。

 シューニャに追い立てられるように人々はパールシー首都に向かって避難を続けた。

 それでも尚、パールシー宗教政権の革命有志隊は徴兵を続けた。

 勝つ見込みのない人海戦術に使うために。

「さあ、汝らも神の戦士となるのだ! 汝らの親のように! 子のように!」

 今日もまた、白い服装の預言者に扮した革命有志隊の一団が、馬に乗って難民キャンプを走り回る。

 それを見る避難民たちの目に、もはや信仰心はなかった。

 狭いキャンプに数万もの人口が密集し、人々は飢えと不潔のどん底で喘いでいた。

「なあ、預言者サマよ。神様の国ってなあ……そんなに良い所なのかよ?」

 誰かが言った。

 革命有志隊は馬を止め、振り返った。

「そうだ! 戦士として殉じた者には、神の世界で永遠の幸福が──」

 次の瞬間、馬上の有志の顔面に投石が食い込んだ。

 頭骨を砕かれた有志は絶命し、小汚い路上に白い服が落下した。

「そんな良い所なら……テメェが行きゃ良いだろ」

 いつの間にか、革命有志隊の一団は避難民たちに囲まれていた。

 何十、何百もの眼に浮かぶのは不平不満、怒り、憎しみ、怨、怨、怨!

「俺のオヤジもオフクロも、去年に兵隊に取られて帰ってこねぇんだよ!」

「本当にカミサマがいるならよぉ~、どぉーしてバケモノ一匹に勝てねぇんだ!?」

「なんでお前らは戦わないんだ!」

「俺たちは飢えて家もないのに、どうしてお前らは綺麗な服を着てるんだ!」

 殺気立つ民衆に、有志たちは言い放った。

「それはお前たちの信仰が足りないからだ!」

「我々のせいにするな! お前たちの努力が足りない!」

「徳を積め! 兵になれぬなら寄進しろ! 神のために財産を捧げろ!」

 特権に馴れた有志たちは、いつもの調子で言ってしまった。

 避難民たちの一線を越えた殺気が噴出し──有志隊の一団は、瞬く間に八つ裂きにされた。

 難民キャンプの出来事は局地的なものではなかった。

 パールシーのあらゆる村で、町で、そして首都で、暴動と寺院への焼き討ちが繰り返された。

 民衆の怒りと憎しみの矛先は、今や宗教政権に向かっていた。


 パールシー首都は、いたる所で煙が上がっていた。

 民衆の暴動を鎮圧しようにも、革命有志隊はあまりにも数が少なすぎた。

 王政時代の正規軍を追放してから即席徴兵の人海戦術一辺倒で、新たな国軍を編成する時間もなければ、人材もいなかった。

 革命有志隊の総員は3000名程度だったが、それもガンダルヴァ正規軍やシューニャとの戦闘で消耗し、今や1000名を切っている。

 かつての王城は、二年前に宗教政権の総本山に変わったが──それも今や、崩壊しつつあった。

 暴徒たちが暴れるのは、政権への不満だけではない。

 首都にシューニャが迫りつつあるからだ。

 彼らは逃げ場所を求めて、この元王城に殺到している。

 津波のように……。

「皮肉なものよな」

 一人の男が、テラスから下界を覗いた。

 髭を生やした三十歳前後の男だった。腰にはパールシー伝統の曲刀シャムシールが下げられていた。

 かつては王族が都を眺めるのに使っていたテラスは、今では宗教政権のスローガンの垂れ幕が掛けられている。

 偉大なる天の神と導師様に忠誠を誓おう! という、空虚なスローガンが。

「人の津波で王様を追放したのに、今度は自分らが追放されそうになってら。ハハハハ……」

 男は酒瓶を呷った。

 虚ろに笑う。

 世の諸行無常はなんと滑稽なことかと、人の愚かしき営みを肴に一時の極楽に酔うのだ。

「ファハド殿!」

 城内から、酔いの邪魔が入った。

 革命有志隊の誰か分からん男が、怒りと狼狽が混じった必死の形相でテラスに飛び込んできた。

「こんな時にあなたは、何をしているのか!」

「見りゃわかんだろ。極楽してんだよ」

 ファハドと呼ばれた男は、手すりに背をもたれて酒瓶を見せつけた。

 有志隊の男は、ギリギリと歯を鳴らした。

「あなたを高い金で雇っているのは誰だと思っているのか!」

「おお、言うね言うね~? じゃあ逆に聞くけどよ、オメーらは何してんだよ?」

 ファハドは有志隊の男の肩の向こう、城内の廊下に目をやった。

 宗教政権の高僧や有志隊の指揮官が、持てるだけの財宝を持って走っている。

「楽しい楽しい遠足の準備かな~?」

「あっ……あなたには関係ない! 剣聖と呼ばれていようが、あなたは雇われの剣士! 自分の仕事をされよ!」

 一応の雇い主に仕事を急かされ、ファハドの目の色が変わった。

「フフフ……俺の仕事、ねえ?」

 有志隊の男が殺気を感じたのは、ほんの一瞬。

 ファハドが酒瓶から手を放し、落下する前に再び掴むまで、まばたき一つ。

 僅かに遅れてヒュンっという空裂音と、チン……という納刀の金属音がした。

 有志隊の男が自分の剣に手をかけた時には、ファハドの仕事は終わっていた。

「戦場から逃げる背信者は死すべし……だったよな? ファハハハハ!」

 ファハドが酒瓶をぐい、と呷る。

 有志隊の男は首を半分まで切り裂かれ、ブッ……と血を吹き出して倒れた。

 目視不能の神速剣による斬殺だった。

 ファハドの仕事は、背信者の粛清。

 それを実行しただけだ。

「ムフフフ……どいつもこいつもこのザマだ。誰も……俺についてこれねぇんだ」

 ファハドは淋しげに呟いた。

 手すりに項垂れる。眠るように目を閉じる。

 遠くに喧噪が聞こえる。

 近くで火の臭いがする。

 夢の中に沈む気分で、ファハドは自分の人生を振り返った。

 王都の片隅で生まれ、剣士に憧れて育った。

 母が寝る前に読み聞かせてくれた古の物語、父が語った乱世の英雄譚、それらに登場する武人に憧れて、剣術を習った。

 ひたむきな少年時代。

 努力がいつか報われると信じて鍛錬を続けた青年時代。

 応援してくれた幼馴染の少女、共に剣に励んだ友人たち、彼らの期待に応えられなかった自分。

 王都の剣術大会では準優勝。

 どうして負けたのか。

 自分に何が足りなかったのか。

 考えて、考えて、研究して、ファハドは別の道に逸れていった。

 より速く、より強い剣術──それは今や失われた、三百年前の実戦剣術だった。

 戦乱期の剣術は、とうに廃れ、完全に失伝していた。

 ファハドは文献を調べ、近隣諸国の辺境部族に断片的に残る剣技を学び、数年の月日をかけて独力で伝統的パールシー剣術を復元した。

 隙のなさ、技の鋭さ、圧倒的な速度、どれを取ってもファハドの剣術は現代剣術を凌駕していた。

 技成って、ファハドは剣術大会に挑んだが──

「失格である」

 審判の裁定は、予想外に厳しかった。

「なぜですか! 俺は勝った! 完全に相手を圧倒していた!」

 ファハドは抗議した。

 事実、ファハドの剣に勝てる者はいなかった。

 対戦者は木剣の一撃でことごとく床に沈んだ。

 納得できるわけがなかった。

 審判は首を振った。

「君の剣技は凶暴すぎる」

「なっ……?」

「三百年前の大乱ならばいざ知らず。今は太平の世だ。どこで習ったか知らんが、君のその剣術は今の時代には受け入れ難い」

「時代遅れとでも言いたいのですか!」

「もしくは道から外れた……邪道の剣と言わざるを得ない」

 ファハドが心魂を傾け、人生を削って完成させた剣は……世に否定された。

 気がつけば、ファハドは三十歳近かった。

 わけの分からぬ凶剣を振り回すだけの男から、親しい人達は去っていった。

 かつて共に剣を学んだ友人たちは露骨に距離を取るか、出来損ないとファハドを罵った。

 ほんの少し前まで親身になってくれた幼馴染の彼女は、ファハドが大会に失格したと知った一月後に誰かも知らぬ役人と結婚した。

「俺の剣が……道場剣術に劣るだと? 踊りも同然の……あんなものにッッッ!」

 血を吐く思いだった。

 気が狂いそうだった。

 何が足りない? 何をすれば良い?

 考えて、考えて、ファハドは答に至った。

「俺の強さが足りんのだ……! もっと! もっと! 誰も無視できぬほどに! 俺の強さを世界に刻んでやる!」

 その日から、ファハドは更に鍛錬を重ねた。

 治安の悪い地方に赴き、用心棒や盗賊狩りをして実戦を積んだ。

 どんな相手だろうと、どれだけの手勢だろうと、ファハドの敵ではなかった。

 敵の剣は甚だ遅く、ファハドの剣は相手が抜く前に切断していた。

 いつしか、辺境でファハドは剣聖と称えられるようになっていた。

 だが、ファハドは地位にも名声にも興味はなかった。

 謙遜しているわけではない。

 清貧を好むのでもない。

「地位も! 金も! 女も! 血縁も! 全ては執着だ! 俺の足を地に縫い付ける呪縛だ! そんなもの一切から解き放たれることで! 俺の足は地を離れて天に届く! もっと速く! もっと高みに! 無限の強さの頂きに!」

 全てを捨てて剣境を高め、ファハドは更に強くなった。

 人間としての幸せを捨て、情を捨て、欲を捨て、希望すらも捨てることで、ファハドは最強の剣鬼として完成した。

 やがてパールシー国内に王政への不満が高まり、それに乗じた宗教指導者が地方の村々で民衆を扇動し始めた頃、ファハドに接触してきた者がいた。

「剣聖ファハド殿の剣技を買いたい」

 彼の宗教集団の僧兵長──後の革命有志隊の総隊長となる男が、大量の黄金を対価として提示した。

 金に興味はなかったが──

「俺の腕に……それだけの価値があるってか! ファハハハハ!」

 ようやく、自分の剣技を世に認めさせる時が来たのだと思った。

 欲しいのは名声ではない。

 かつて世に不要と見なされた自分の剣が全てを覆すことで、心の飢えを満たしたかっただけだ。

 以後、ファハドは宗教集団が王政を打倒するまで戦った。

 演武のごとき道場剣術しか知らぬ敵兵は、誰もファハドに敵わなかった。

 そしてファハドは戦いに勝利したが──

「俺は結局……満たされることはなかったな」

 目を開けると、再び燃える首都の光景が広がっていた。

「誰も俺の剣についてこれなかった。誰も俺の剣を理解できなかった。敵も味方も……だれひとり」

 脱力した手から酒瓶が床に落ちた。

 ファハドは、強くなりすぎたのだ。

 目視不能の剣は全ての敵を一方的に斬殺し、味方には魔性でも見るような目で恐れられた。

 教えを乞いにきた者もいたが、誰一人としてファハドの剣を模倣できなかった。

 全てを捨てて到達した剣境に、欲と未練だらけの俗人が近づけるわけがなかった。

 もはやファハドの剣技は剣技として認識されていなかった。

 誰にも理解されず、病のごとく避けられ、悪霊のように畏怖され、やがて無いものとして扱われ、残ったのは殺人兵器の剣鬼のみ。。

 結局……全てが振り出しに戻ってしまった。

「俺は剣士になりたかったんだ……。バケモノになりたかったんじゃねえよ……」

 研鑽の果てに辿りついたのは、絶望的な孤高だった。

 いっそどこかに消えてしまいたかったが、ここに残り続けたのには理由がある。

「俺と対等に戦える奴……ガンダルヴァのザキか、あるいは──」

 ファハドは目を凝らして、下界を見た。

 民衆が何かから逃げている。

 何かが、ファハドの渇望に惹かれてやってくる。

 黒い小さな人影が……首都の大通りに見えた気がした。

「俺と同じ奴……! きたか!」

 歓喜に目を見開く。

 ファハドが待ち望んだ唯一にして最期の対手──剣術災厄のシューニャ。

 自分に似た剣気を感じて、ファハドは仕合の場に向かった。


 いつの間にか、パールシー首都から人の気配が消えていた。

 みな逃げてしまったのか、それとも息を殺して潜んでいるのか。

 聞こえるのは、建物が焼かれる炎の音と、流れる風音。

 吹きすさぶ風の中を、シューニャが真っ直ぐに歩いてきた。

 その行く先に……ファハドが待っていた。

「よう」

 ファハドは、まるで久しい友に再会したように声をかけた。

 そして剣の柄に触れた瞬間、世界が静止した。

 ファハドの背後で燃える王城が、焼け落ちるスローガンの垂れ幕が、動きを止めて停止していた。

 シューニャが展開する異界の理。強制的な一対一の試合の空間。

 すなわち、ファハドを対手と認めたということだ。

 周囲の異常を察知したファハドは、嬉しかった。

「いいな……お前は!」

 歓喜していた。

 この人の形の災厄は、自分と同じ類のものだと本能で感じていた。

 ファハドとシューニャ、互いの距離はまだ遠い。

 シューニャが刀を抜いた。

 得物は、刃こぼれだらけの粗末なシャムシールだった。

「切り結ぶ……刃の下へ」

 シューニャは譫言のように唱えた。

 構えは中段。こちらの打ちを誘っている。

 ファハドはまだ抜かない。

 抜かぬまま、互いにじりじりと間合を詰める。

 これが並の相手なら、ファハドは一気に距離を詰めて抜刀していただろう。

 ファハドは構えを見ただけで、シューニャが対等以上の相手と見抜いた。

 ──素晴らしいな!

 感激した。

 尊敬すら抱いた。

 シューニャもまたファハドを対等な手練れと見抜いたからこそ、迂闊な動きを見せないでいる。

 この剣技を極めてから初めて出会う、互角の対手!

 ファハドは笑みを堪え、目尻には涙が浮かんだ。

 やがて二人は、一足一刀の間合に入った。

 あと一歩でも踏み込めば剣閃が飛んでくる。

 ついに──ファハドは抜刀した。

 目視不能の斬撃が空を切り、籠手を狙った!

 シューニャは神速で剣を下ろし、紙一重で斬撃を回避。そのまま刺突に繋げた。

 ファハドもまた、神速の切り返し!

 パールシー国の現代剣術は慣性による威力と見栄え重視の円を描く動きが多いが、ファハドのそれは直線的だった。

 慣性を無視したかのような高速一直線の──流星のごとき返し技に、シューニャの剣が弾かれた。

 キンッッッ……と甲高い金属音が響き、刃が微細な火花となって赤く咲いた。

 再び、互いの間合が開いた。

「フフフ……最高だな、あんた」

 ファハドはもう感情を隠せなかった。

 真剣勝負で感情を出すのは素人か、あるは小賢しい心理戦の時くらいだが、今は違った。

 今まで虚ろだったシューニャの表情にも、驚きが浮かんでいた。

 自分の手元と、ファハドの剣を交互に見て、感嘆の息を吐いた。

「ここに来て初めて……そなたのような剣者に出会った」

 その短い言葉に、ファハドは無限の共感を覚えた。

「ああ、俺もだ。本当の剣士に出会えた。本当の戦いが出来た。俺はもう満足だ……!」

 ファハドは、ずっと澱のように溜まっていた心残りが消滅していくのを感じた。

 最初から勝ちも負けもどうでも良いのだ。そんなことに拘るのは悪しき執着である。

 全てを捨てて剣に生きた空しい人生の終わりに、こんな花道を用意してくれたシューニャに感謝していた。

 命という最後の執着も投げ捨てて、己が剣技を十全に振るえる対手と……ようやく出会えたのだ!

「俺はファハドという。あんたの名を……冥土の土産に持っていきたい」

「名を……俺に捨てて逝くのか」

「ああ! だからくれ。あんたの名を!」

 ファハドの切なる願いを、シューニャは飲み込むように目を細めた。

「名は執着。俺をこの身に縛る執着。だが、敢えて名乗ろう。無数に溶け合った魂の中で、いま最も強く輝きを放つ……俺の名を」

 シューニャの唇が動き、己の真実の名を紡いだ。

 一際大きい風が吹き、声は風音に掻き消されてしまった。

 それでも、ファハドはシューニャの名前を確かに聞いたのだ。

「ありがとう……異界の剣士よ」

 ありったけの感謝を込めて、ファハドは剣を構えた。

 刺突、凪ぎ、斬り上げ、いかようにも千変万化できる自在の構えだった。

 奇しくも、シューニャもまた酷似した構えを取った。

 猿真似などではない。

 剣の道を極めた者が至る収賄進化的な近似性だった。

 ファハドとシューニャが、滑るように間合を詰めた。

 同じ構え、同じ得物、振るう速度も一撃も同じだった。

 虚空にて、二つの流星が走った。

 剣と剣がぶつかり、鍔迫り合いの形になった。

 ファハドの烈火の視線が、シューニャの凍れる炎の瞳と交錯する。

 その一瞬──二人は全てを理解し合った。

 実戦剣術が太平の世に不要とされる悲しみ。

 至高の剣術は常人には理解されず、また真似も出来ない。

 剣術として余人に教え、伝えるために劣化させねばならないのだ。

 伝位だの印可だの免許皆伝だの、全て惨めな妥協でしかない。

 劣化した剣術は往時の輝きを失い、いつしか形式を尊ぶスポーツと化していく。

 だから……もうファハドの実戦剣術は存在を許されない。

 この世界に居場所はない。

 自らが心血を注ぎ、人生をかけて創意工夫した剣術が世に認められるのと引き換えに、本来の輝きを失っていくのは地獄だ。

 シューニャを形成する魂たちは、その絶望を生前に味わった。

 江戸でも、尾張でも……。

 弘流されて平凡な剣術に成り果てるくらいなら、自分の一代で孤高の剣として終わらせるのが幸福なのだ。

 人の世は夢。己を映す剣もまた幻。

 朝に生まれ、夕に死す。

 夢幻のごときもの。

 酔生夢死

 ファハドは酔うように生き、夢の中で死んでいくのだ。

 何も残せなかった。何も成せなかった。

 だが──

 最期のこの刹那に、ファハドの剣術は確実に此処に在った。

 シューニャが僅かに脱力し、ファハドの剣が押した次の瞬間、勝負は決まった。

 ファハドの剣は僅かに逸れ、シューニャは横に体移動しつつ、そのまま押し切った。

「ぐ……」

 小さな呻きと共に、ファハドは肩から胸を切り裂かれ……血の海に沈んだ。

 僅かに受けの技に長けた、シューニャの剣術の勝利だった。

 それでも、ファハドは満足だった。

 流星は墜ち、燃え尽きた。

 満ちたりた表情で地に抱かれ、天を仰いでいた。

「俺は……俺の剣を刻んだぞ……この世界……に」

 ファハドの剣が天を突き、ころんと地に落ちた。

 止まった世界が動き出す。

 シューニャは大いなる尊敬を込めて、ファハドの遺体に一礼した。

「ファハド……。そなたは紛れもなく……最強の剣士であった」

 強い風がパールシーに吹く。

 やがて炎が風に巻かれて旋風となり、虚飾の首都を焼きつくしていった。


 俗世の汚濁は──火傷のように心身を長く苛む。

 二年の宮勤めを終え、ザキはあっさりと職を辞した。

 政府と軍の実権はほぼザキが掌握していたが、己の権力基盤を固めようとはしなかった。

 議員と軍の綱紀粛正を行い、可能な限り政府を健全化し、民主的選挙の再開を見届けると

「悪しき歴史を繰り返さぬよう」

 それだけ言い残して、ザキは議会を去った。

 表向きの辞職理由は、加齢による持病の悪化ということになっていた。

 一切の我欲のない水鳥のごとく清廉な出立に、人々はザキを称えた。

 だが、ザキを知る者は本当の理由に察しがついていた。

 彼は俗世に嫌気がさして、隠者の生活に戻ったのだと。

 ザキは一切の見送りを断り、馬に乗って未明の早朝に城門を出た。

 中央府の裏手にある、小さな搦め手門だった。

 出立は誰にも伝えなかったが、一人だけザキの行動を読んだ男がいた。

「先生! ザキ先生!」

 弟子のサハジだった。

 彼は先日、ザキの後任として正式に軍の司令長官に就任した。

 そんな男が、荷物を括り付けた馬に乗って、朝靄の中を駆けてきた。

「先生! 私もお供させてください!」

 サハジは本気だった。

 それを見て、ザキは大きな溜息を吐いた。

「あのなぁ……わしはお前が苦労せんようにお膳立てしてやったんじゃがのお」

「分かっております! 先生の代理として軍を指揮した実績があるからこそ、議会も私を司令長官として認めてくれました!」

「アビシャ殿との婚約もスンナリ通ったじゃろ?」

「反対する者など……おりませんでした。全てはザキ先生のおかげです!」

「そこまで分かっとんなら……帰れっ!」

 ザキはしっしっとサハジを追い払って、馬の歩みを速めた。

 サハジまで辞職しそうな勢いだったので、ザキは溜息交じりに首を振った。

「わしは心底、俗世が煩わしくなったのじゃよ。何もかもウンザリじゃ。クソくらえじゃっ」

 ザキは、サハジにだけは本心を明かした。

「生臭い人付き合い、腹の探り合いも飽き飽きじゃ。いまさら嫁もガキもいらん。戦を起こした責任は取った。後はお前らの好きにしろ。もう知ったことかっ!」

 駄々をこねているわけではない。

 人の裏表を知り尽くしたザキは、最初から表舞台に立つ気はなかった。

 ザキに責任を押し付け、苦労を与えてしまったのはサハジ達だ。

「それにな、病気というのもあながち嘘ではない。目は遠くを見るとボヤけるし、徹夜も辛くなった。あまり年寄りに……頼ってくれるな」

 見た目は若いが、ザキの実年齢は四十も半ばにさしかかろうとしている。

 ガンダルヴァ人の平均年齢は五十歳。

 それを考慮すれば、ザキは老齢と言って良い。

 サハジは何も言い返せず、沈んだ表情で馬を止めた。

 朝靄の中に、ザキの乗った馬が消えていく。

「わしは……子は残せなんだが、お前という弟子を残せた。それが……唯一の慰めじゃよ」

 ザキの声に、サハジがはっと顔を上げた。

「先生!」

 もはやザキの姿は見えなかった。

 地平線に太陽が顔を出し、光が朝靄に乱反射している。

 サハジの視界は眩い光に埋め尽くされ、聴覚だけが師の叫びを聞いた。

「達者でなーっ! 我が弟子よ!」

 夜と朝の曖昧な境界の彼方に、ザキは消えていった。

 群青の空と赤い大地の間の現実にサハジは一人、取り残された。

 その日はガンダルヴァに新政府が樹立して、ちょうど二年目の夏の朝だった。


 ザキは故郷のアワド藩に帰って、再びタジマ寺で隠遁生活に入った。

 当初は、ザキにタカりにくる親戚や友人がいたが──

「わしはもう金なんかないぞ?」

 と、小銭もほとんど入っていない侘しい財布の中身を見せたり

「おうおう、若いころにわしを散々罵ったクソ野郎が掌大回転させてきやがったのぉ~? あそこの水車でも回してみっか? お?」

 と、本気の言葉の暴力で殴り倒したり

「あ? 『ダンナと別れたい』だ? そんなことわしに言われても困るんだがのぉ~~? まあ、ハッキリ言わせてもらうとだな~、メスブタは死ねっちゅうこっちゃのぉ~~?」

 と、二十年前に自分を捨てた幼馴染に唾を吐いて追い返したりと氷点下の対応を続け、半年後には誰も訪ねてこなくなった。

 ザキは勝手に人々が作った英雄としてのイメージを破壊することで、俗世との縁を断ったのだ。

 尤も、言ったことは全て本心なのだが──。

 ザキは日中、寺内やメール山を散歩して過ごしていた。

 傍から見れば老人の和やかな余生に見えたが、ザキはいつも何かの書物を持っていて、調べ物をしているようだった。

 ある日、百年ぶりにタジマ寺の霊廟を開いて掃除をすることになった。

 これはザキが言い出したことだ。

 霊廟の地下に清掃具を持った僧たちがぞろぞろと入り、その中にザキもいた。

「ふん、タジマ様の棺……これもか」

 かつてガンダルヴァ統一に寄与した異界の者は、天寿を全うして棺に収まったという。

 その棺は、真っ青な氷のような石で出来ていた。

 棺の表面に触れると、一気に体温の全てを奪われるような錯覚に、背筋がブルッと震えた。

「むうっ……矢張りか」

 棺の放つ冷気に、ザキはある確信を得た。

 更に半年が経ち──

 ガンダルヴァ国に、暗雲が立ち込め始めた。

 シューニャという災厄が、国境を越えてパールシーから帰ってきたのだった。

 季節と共に風雨が巡り、嵐が吹くように、人の形の災いが還ってきた。

 対処法はザキが文書にして残してきたので、各藩はそれに従った。

 シューニャは災害と同じであるから、距離を取って避難せよと。

 文字にすれば簡単だが、現実はそうはいかない。

 シューニャの進路上にある全ての村、町、そして都市からの一斉避難は困難を極めた。

 人々は混乱し、世は混沌とし、経済も政治もひび割れていった。

 ついには禁忌を破り、シューニャに戦いを挑む者まで現れたが、屍を増やすだけに終わった。

 新政府は、藁にもすがるを通り越し、崖っぷちで枯草を掴む気持ちでザキという英雄に頼った。

「ふ……お前ら、わしをなんだと思っておるのだ?」

 寺内にある庵を訊ねてきた使者たちに、ザキは呆れ笑いを浮かべた。

「わしはただの人間じゃ。嵐を鎮める方法など知らぬ。ただ、安全に逃げる方法を教えてやった。後はお前たちの仕事じゃ。英雄の幻にすがるのは止めろ。愚かしきことよ……」

 どうすることも出来ないし、どうする気もなかった。

「俗世の揉め事などわしの知るところではない。去れ」

 ザキは使者を冷たくあしらって追い返した。

 それから更に数か月が過ぎて──冬になった。

 ガンダルヴァ国は更に乱れた。

 秋ごろにシューニャの通った地域では収穫が出来ず、家も畑もなくした避難民がアワド藩都の路上にも溢れていた。

 北方のテングル山脈からの雪風が舞う頃、再びザキの庵に使者がやってきた。

「ザキ先生……お久しぶりです」

 かつて副官だったサハジだった。

 今のサハジは、中央政府の要職に就いている。

 そんな男が、自ら出向いてきたのだ。

「先生! どうか知恵をお貸しください!」

 サハジはザキの庵に上がって、深々と頭を下げた。

 もうどう仕様もないから、ザキを頼ってきたのだ。

「フン……テメーらで考えろっつーの……」

 ぼやきながら、ザキは卓上に筆を置いた。

 卓上には、真新しい一冊の本があった。

「──アビシャ殿とは、結婚したのか」

 ふいに、ザキは別の話題を振った。

「はい。昨年……私が婿入りいたしました」

 サハジは頭を下げたまま答えた。子が親に、気恥ずかしく報告するように。

 ザキは小さく溜息を吐いた。子を思う親のように。

「名実ともにクリシュナ将軍の跡継ぎというわけか。めでたいことじゃ。子供は……出来たのか」

「まだ……生まれてはおりません。妻の胎内におります」

「そうか……」

 しみじみと、溜息を吐く。

 ザキは一冊の本を書き終えていた。

 綴った文字の墨が乾いているのを確認して、ザキは本をそっと閉じた。

「顔を上げて、近う寄れ」

 言われて、サハジは膝を擦ってザキの近くに寄った。

 ザキは、先程の本をぐいっと差し出した。

「この本をくれてやる」

「それは? もしや、シューニャに勝つ術が……」

「兵法書ではない。戒めの書じゃ。人間が人間である限り、どんな国家でも三代目で腐敗する。俗世の呪縛からは決して逃れられぬ。驕れる者よ、いつかくる滅びの日を忘れるな──という年寄りの説教本じゃ」

 とん、とザキは本の角をサハジの腹に押し付けた。

 仮にも新政府の高官をしているサハジは困惑した。

「しかし……我々は旧政府とは違います!」

「みんなそう言う。わしらの先祖、何千、何万人と繰り返し言ってきた。『俺たちはあいつらとは違う』『同じ失敗はしない』と。何を根拠にそう言う?」

「人は失敗から学ぶ生き物です! それは……ザキ先生に教えて頂きました!」

「そして忘れる生き物でもある。お前らは苦労を知る世代だ。その次の世代も親の辛苦は分かるだろう。だが孫の世代になれば、そんなものは昔話だ。知ったことじゃない。親の経験なぞ子には引き継がれんのだよ。歴史など都合よく忘れるし改竄される。人の世とは忘却と滅びと再建の繰り返しでかない。神話の時代からな」

 久方ぶりの弟子との議論で、ザキは熱く饒舌だった。

 俗世への辟易、人の愚かしさへの怒りが滲んでいた。

「我が国も五百年前は一つの大きな帝国だった。それが腐敗し、瓦解し、数多の藩王国に分かれた。それが三百年前に再統一され、また腐敗し、わしらに打倒された。こんな歴史があるのに、人は何も学んでおらん」

「では本なぞ……」

「意味はない。戯れでしかない。わしという人間の、ちっぽけな遺言でしかない」

 突き放すようなザキの物言いに、不穏な言葉が混じった。

「遺言……? 先生! いったい何を!」

「フン……」

 ザキは厭世の感たっぷり皮肉の鼻息を吐くと、すっと立ち上がった。

「妹がな……寺に来た」

「妹御様が……?」

「お前らと同じことを言ってきおった。災厄を鎮めてほしい……とな」

 サハジに背を向けて、ザキが肩を落とした。

 縁側に向かい、庵の外を眺める。

 ザキが霜降りの竹林に向けた表情は、サハジからは見えなかった。

「わしはもう俗世との縁は切った。妹が何を言おうと聞く義理はない……んじゃがのう」

 竹林が風に揺らいだ。

 肩を落としたザキが、「はぁぁぁ……」と苦悶の溜息を吐いた。

 情と無情の狭間で悩む、哀れな俗人の呻き声だった。

「あやつめ……自分の子を……姪と甥たちを連れてきおった」

「はい?」

「わしの情に訴えかけてきおったんじゃよ! 押し売りの手口なんじゃよ、子連れは……!」

 言われて、サハジは得心した。

 確かに子連れで物売りに来られると断り難い。流石にザキの妹といったところか。

「まあ、妹に悪気はなかったんじゃろうて。妹は言っておった。『この子たちが生きられる世の中がほしい』と。姪は……わしの辛苦など知らずに、ニコニコと笑ってな。無邪気に……わしの膝の上で寝転がって……」

「先生……」

「末の姪は……まだ三才じゃ」

 ザキは、地に視線を落とした。

 自分の影を見る。

 決して逃れられない、人の情という呪縛を幻視する。

 それを捨てれば、きっと今よりも強くなれるのだろう。

 だが死ぬまで後悔し続けることになる。

 人生の苦しみも幸せも知らぬ幼子と、まだ太陽すら知らぬ胎内の赤子から未来を奪うなど……ザキには出来なかった。

「わしも結局……俗世からは逃れられなかった、ということじゃ」

 ザキの声は、諦めのようであり、覚悟のようでもあった。

 その日、ザキは別の本を持って寺の奥院に向かった。

 奥院には、法師が三年前と変わらぬ姿で待っていた。

「殿下、お別れに参りました」

 ザキは床に坐して、深く頭を下げた。

 法師はザキの真意を悟って、暗澹たる面持ちになった。

「お前だけ……私を置いて行ってしまうのか」

「それが運命でございます。山に入って仙人にもならず、半端に俗世と関わり続けた者の……」

 ザキは脇に抱えていた一冊の本を差し出した。

「世の乱れを抑える術を書き残しました。象徴として王が君臨し、人心の拠り所となる。しかし統治はせず……という政治の形でございます。先人の知恵を、私なりに解釈したものです」

「私に……還俗しろと言うのか」

 ザキは頷いた。

「五百年前にガンダルヴァを統治していた帝国は滅んでも、その血筋は未だに強い権威を持っております。伝統と血統……これほど人心掌握に使いやすいものはありません」

「だから太守を選ぶ選挙でも血統が重んじられる。結果が、とっくに滅んだ帝国の子孫同士の跡目争いだ。そんなもののために身内が憎み合い、兄弟が殺し合う……。バカげている。何もかもバカげている! 私は……それがイヤになった」

 法師は頭を抱えた。

 彼は、アワド藩に残る帝国の血脈の末端にいた。

 しかし政治の世界に嫌気がさし、権力争いから自ら身を引き、このタジマ寺に篭った。

 結果としてアワド藩は暗愚の太守に支配され、ガンダルヴァを揺るがす反乱の遠因になった。

 自らの選択の正否に、法師は今も苦しんでいる。

 そして、市井の現状から目を背け続けている。

「殿下にも順番が回ってきたのです。どうか衆生を救うためにお立ちくださいませ。殿下は年に一回か二回、議会で挨拶したり、大臣を任命したり……少し我慢するだけで良いのです」

 ザキの射抜くような真っ直ぐの視線の先で、法師は顔を覆って悲嘆に暮れていた。

 これから人の上に立つ者としては、あまりにも頼りない。

 法師が現実から逃げようと耳を塞ぐ素振りを見せたので

「それが、私の最後の願いでございます」

 ザキは少しだけ呪いの言葉を刻み付けた。

 今生の別れを終えたザキは立ち去り、奥院には法師と本だけが残された。

「あぁ……やりたくない。やりたくないというのに……。ザキめ……! これでは逃げられんではないか! 私はもう逃げられんではないか……っ!」

 運命に対面させられた痛苦と、ザキとの永訣の悲しみに焼かれる男の咽び声が、いつまでも響いていた。

 同日、シューニャがこちらに向かっているという情報がサハジを通じて届いた。

「して、シューニャの装備は?」

「相変わらずの僧衣とタジマ刀が一本。装備は我が国に帰ってきてから変化がありません。かなり使い込まれている様子です」

「ふむ」

 相変わらず、サハジは良くできた弟子である。

 斥候を用いてシューニャを逐一偵察していたようで、欲する情報を的確に伝えてくれた。

「これは孤軍との戦じゃ。そして自然を鎮める工事でもある。事前の準備で勝敗が決まる。よいな?」

「はっ。心得ております」

 それからザキの指示でサハジが必要な道具を揃えて、全ての準備が終わったのは一週間後。

 アワド藩都から人の姿は消えていた。

 シューニャの襲来を恐れて、数万人の住民が避難したのだ。

 季節は冬。山野の獣も息をひそめる季節である。

 世界は生命が生まれる以前の原始を思わせる静けさだった。

 雪の気配がないのは幸いだった。

 時たま塩辛く凍える北風が吹きつける夕刻──

 ザキとサハジは、メール山の中腹にある洞窟を訪れていた。

 そこは、かつてシューニャが篭り、嵐へと変わった場所だった。

 日の暮れた世界に、地下へと続く蒼い穴がぱっくりと口を開けている。

「あそこに……本当にいるのですか?」

 サハジは不安げにザキを見た。

「ああ、いる。あやつはこの奥で……わしを待っておる」

 ザキは戦装束にて、静かに佇んでいた。

 長袖の厚着に二刀。腰に携えるのはタジマ刀と、長い大脇差の二本差し。袖から覗く手首には、厚い手甲が見える。

 殺気も緊張もない自然体で、ザキはシューニャの気配を感じていた。

「わしなりに……色々と調べた。なぜ異界から人の怨念や未練が形を成して落ちてくるのか。始まりは500年前、このメール山の魔消石が掘り尽くされた頃と重なる」

「魔消石と何か関係があるのですか?」

「恐らくは……大地の磁場の乱れじゃろう。魔消石の発する磁場が減り、それが異界の何かと干渉して偶然……落ちてくるようになった」

 ザキは懐から一冊の本を取り出した。

「わしの家に伝わる異界の者たちの記録じゃ。落ちてきた時に頭を打って死んだり、行方不明になった者を除けば、全てこの山に帰ってきている」

「山に帰って……どうなったのですか?」

「二度と姿を見せることはなかった。おそらく……無に還ったのじゃ」

 アワド藩で隠者の生活に戻りながらも、ザキは常にシューニャのことを考えていた。

 異界の者たちが自然現象ならば、何らかの法則性があるのではないか──と。

「渡り鳥が故郷に帰るように、彼らは未練を果たし終えると、ここに帰ってきたんじゃろう」

「でも、タジマ様は霊廟に葬られたと……」

「タジマ様は遺言で……自分の棺を魔消石で作らせたのじゃよ」

「あっ……」

 サハジは、師の辿りついた真実を理解した。

 異界の者たちがメール山で二度目の死を迎える理由を。

 何の痕跡もなく無となって消えてしまった理由を。

「魔消石は全ての魔力を吸収する。だから……ですか?」

「正確には物体の熱を奪い停止させるんじゃろう。故に人ならざる者は魂の最後の余熱を魔消石に捧げ、無に還る。おそらくタジマ様の棺も空っぽじゃろうて」

 ザキは、洞窟の上に目をやった。

 岩肌の色が蒼から黒に変わる境目の亀裂に、ヒカソウに用いる火薬が大量に仕掛けられている。

「──磁場の流れを再び乱す。魔消石の洞窟を地下深く埋没させることでな。魔消石は全ての熱を奪うが、物理的な衝撃は吸収できぬ。崩れる岩の重さで、全てを打ち崩す」

 ザキはサハジの背後に視線を映した。

 そこには、火薬に点火するための大量のヒカソウ砲台、そして召集された二人の女魔物使いがいた。

 地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥを使うパイ・フーと、羅刹亀ルオ・シャーグィのヘイ・シーグイである。

 二匹の魔物もまた、全身に火砲を取り付けたマーク・ドゥ仕様だった。

「お前たちにも……苦労をかける」

 ザキの命令に従い岩山を爆破し、洞窟を埋める──それが何を意味しているのか、二人の魔物使いは理解していた。

 パイ・フーとヘイ・シャーグイは、共にザキに恩義を感じている。

 食い詰めた異国の魔物使いたちを偏見の目で見ず、その力を活かし、生業を与えてくれたのは他ならぬザキだ。

 二人は悲痛な面持ちで片膝をつき、深く一礼した。

「ザキ先生……ウチは、こないな仕事はやりとうありません……!」

「でも~……やらなきゃなんですよね~……?」

 ザキは僅かに口角を上げて微笑んだ。

「気にするでない。わしが望んだことじゃ」

 どこか寂しげに、ザキは皮肉っぽく「ふっ」と息を吐いて、洞窟に向き直った。

 その表情は死期を悟り、群れから離れた孤狼のごとく。

 たった一人で死地に赴く師を前にして、サハジは耐えられなくなった。

「ならば先生! このまま爆破してしまえば!」

 サハジが声を荒げると、ザキはその口を閉じるような仕草をした。

「荒ぶる自然を鎮めるには、古来より生贄が必要なのじゃよ」

「そんなのは迷信です!」

 哀しみに顔を歪ませるサハジを諭すように、ザキは首を横に振った。

「あの男は……心ある嵐なのじゃ。きっと最初から人間ですらない……数多の剣者たちの無念の集合体なのだろう。親も子も友もなく、一人ぼっちなのじゃ。だからな、共に逝ってやるのが慰めなのじゃ。あやつの未練を消してやる……この役目は、わしにしか務まらぬ」

 ザキは死を覚悟した者とは思えぬ、穏やかな表情だった。

 その言葉に一切の偽りはない。

「さらばじゃ、我が弟子よ。世の理を元に戻すのだ。こんなことが二度と起きぬように、な」

「先生……!」

 サハジは涙を堪えて歯を食いしばった。

 それが最後の別れだった。

 師が洞窟の入り口に消えていくまで、サハジはザキの背中を見つめていた。


 ザキは洞窟の中に踏み入った。

 吐息が白く凍りつく極低温の内部は、青白く発光していた。

 洞窟の壁に描かれたガンダルヴァの壁画が虚空に浮かんで見えた。

 おかげで、友の姿はすぐに見つけられた。

 冷たい岩の上に、ガンダルヴァの幻影の下に、あの日のように座していた。

「来てくれたか……ザキ」

 先に声を出したのは、シューニャの方だった。

「お前なら……来るという予感があった」

 掠れたシューニャの声は、消えかけた人間性の最後の足掻きのようにも聞こえた。

 ザキは抑揚の薄いシューニャの声に、確かな情を感じ取った。

「そなたの道連れが務まるのは……わしくらいしかおらぬものな?」

 ザキは親しげに笑いながら、腰のタジマ刀を抜いた。

 抜刀の気配を感じ、シューニャは瞬時に立ち上がり、同時に抜いていた。

 常人ならば目視不能の速度だが、ザキには見えていた。

「さあ、共に逝こうか……我が友よ」

 ザキは霞構えを取った。

 最も小さな動作で攻撃に繋げられる構えである。

 シューニャもまた、自然と霞構えで相対していた。

「いざ……刃の向こうの極楽へ。いざ……!」

 二者が音もなく地を滑り、間合いを詰める。

 互いに生も死も敗北も勝利もなく、水面に映る月のように、静寂から自在に変化していく空の境地に達していた。

 一呼吸の瞬きで間境を超え、二人は同時に刃を振るった。

 音もなく、二つの刀身の蒼い残光が虚空に走った。

 僅かに……ほんの僅かに、シューニャの刀の切っ先がザキに触れるのが早かった。

 刃がザキの右腕に触れて──ガキン!

 と、不自然な音を立てて砕け散った。

 ザキはこれを予測して、長袖の下に鋼の手甲を付けていたのだった。

 人体を切断する以上の余力はこめないシューニャの剣戟は鋼を切り裂けず──酷使による金属疲労が限界に達して刀身が砕けたのだ。

 敵を知り、万全の備えを以て戦に臨むがザキの兵法。

 だが、シューニャの反応は神速だった。

 その身を構成する数多の剣豪の技量がなせる技か、流れるような体移動でザキの剣戟をかわし、腕をねじり上げて刀を奪おうとする!

 シューニャにとっては体に染みついた技だった。

 かつての自分が流浪の剣豪から学び、どこかの自分が父から受け継ぎ、いつかの自分が主君の前で披露し、もしもの自分が悪党たちに叩き込んだ──新陰流奥義・無刀取り!

 それは刀を失った時に、ほとんど自動で発動する技だった。

 シューニャは対手の刀の柄を掴み、体移動でザキの側面に回り込んだ。

 この体制からでは、ザキは残った脇差を抜いての刺突も不可能! 刀を手放さなければ手首をねじ切られる!

 しかし──ザキは、それすらも予測していた。

 無刀取りはタジマ寺に伝わる技でもある。

 シューニャとタジマとは何らかの関係があると、察しがついていた。

 故に、対応は出来る。

 なにより、無刀取りはザキの得意とする技でもある。

「ふっ……」

 ザキの顔に一瞬、哀しげな笑みが浮かんだ。

 刀を手放し、シューニャに背中を向けて押し当て、大脇差を抜刀して──

 ザキは我が身もろとも、シューニャを貫いていた。

 相打ち狙いの一刺し。

 長い大脇差は、密着した互いの胸を貫き……致命傷に至っていた。

「フフフ……死合は相打ち。しかし勝負は……わしの勝ちじゃぞ……!」

 ザキの吐血混じりの呟きと共に、凄まじい爆音と震動が洞窟を襲った。

 サハジが最後の仕事をやり遂げたのだ。

 天井が崩れ、上層の岩盤ごと洞窟が崩落していく。

 シューニャはザキを受け止める形で、どさりと床に崩れ落ちた。

「そうだな……お前の勝ちだな。ザキ……」

 その声は穏やかで、満足げだった。

 シューニャは剣者として敗北し、災厄として埋葬されるというのに、生まれて初めて何かを達成した、満ち足りた顔をしていた。

 洞窟に描かれた、ガンダルヴァの壁画が崩れていく。

 虚空に映る女神の幻へと、シューニャは手を伸ばした。

「色即是空……」

 壁画が崩壊すると共に、シューニャの手の中でガンダルヴァは砕け散った。

 そして魔消石の岩盤が、全てを闇の下に埋めた。

 青い煩悩の炎は熱を奪われ、蝋燭の火のように……ふっと消えた。

 奇縁で結ばれた男と災厄は、共に無へと還っていった

 全ての執着からの……解放であった。


 あれ以来、ガンダルヴァ国に空から人の形をした異界の者が落ちてくることは、二度となかった。

 サハジは中央府に戻り、ザキの後継者として大いに手腕を振るった。

 ガンダルヴァに亡命していたパールシー王族の生き残りを手厚く保護し、恩義を売って、混乱するパールシーに戻した。

 復活したパールシー王家はガンダルヴァに友好的で、隣国との諍いはなくなった。

 当面の内は──であるが。

 ザキの提唱した立憲君主制の成立に力を尽くし、時には計略を以て国内の腐敗の芽を摘み、ガンダルヴァの安定と発展のために、サハジは人生を捧げた。

 そして、五十余年の時が流れた。

 サハジは政界を引退し、晩年に入っていた。

 しかし、穏やかな老後とは言い難い。

 真っ昼間だというのに、屋敷の部屋の外からは馬鹿笑いが聞こえてくる。

「ハハハハハハ!」

「ギャハハハハ!」

 また──孫が頭の悪い友人たちを呼んで酒を飲んで酔っ払っているのだ。

「はぁ……」

 サハジは溜息を吐いて、書斎に向かった。

 途中の鏡から目を逸らす。自分の白髪頭など見たくもない。人生の残り時間が少ないなど考えたくもない。

「よい……しょ」

 鈍い動きで、やっと椅子に落ち着く。

 机の上には、二冊の本があった。

 一冊はサハジが自分で記している、書きかけの本。

 もう一冊は、五十年前にザキから渡された戒めの本だった。

「この歳になって……先生の仰っていたことが良く分かりました。国も人も時と共に腐る……それは逃れられない。生ある者の定め……なのですね」

 人の世は繁栄と忘却と滅亡の繰り返しに過ぎない。

 事実、クリシュナ将軍から継いだサハジの家も、孫の代で傾き始めていた。

 サハジの孫は生まれた時から苦労を知らない。飢えも知らず、自ら戦って手を汚したこともない。

 自分は選ばれた特権階級であり、血統で将来が約束されていると思っている。

 だから昼間から酒を飲み、バカ騒ぎをして、時には街で狼藉を働いては、親の権力で揉み消している。

 孫は……絵に描いたような愚物に育ってしまった。

 サハジが咎めても、息子は孫を甘やかし、孫は祖父の言うことなど聞きもしない。

「これでは……私達が倒した俗物そのものではないですか」

 我が家だけではない。他の要人たちの家も同様だ。

 今やガンダルヴァ中央政府は根腐りしつつあった。

「もって、あと一代か……」

 こうして自分たちの築いた国が腐っていくのを見るのは辛い。

 子や孫が過去を忘れて過ちを繰りかえそうとするのは耐え難い。

「私があと三十歳若ければ……先生のように世直しの軍を起こしていたかも知れません」

 だが、もはやそれも無理な話だ。

 サハジは老い過ぎた。もう体力も気力もない。

 ゆえに、恨み節のように本を記すのだ。

「私は記す……若き日の戦いを。世を厭うたザキ先生の悲しみを。先生と共に無に還った、シューニャという災厄を……」

 皺だらけの萎えた指で、辛うじてペンを握る。

 目がかすむ。体はやけに冷える。命の火が消えていくのを感じる。

 この本を書き終えたら、サハジは俗世から離れるつもりでいた。

 ザキのようにアワド藩のタジマ寺にこもって、二度と中央府に帰らないつもりだった。

「青春と繁栄は記憶の中で輝く夢に過ぎず、永遠にあらず。虚構の城はいつか幻と消える。人の世は夢幻なり。ガンダルヴァの国もまた儚きもの……」

 サハジは、師の教えと戒めを込めて、文を綴る。

 自分たちが人生をかけて築いた城が消える日は、そう遠くないと──痛切に感じた。

「シューニャとは、虚ろなるもの。陽炎の如く、水月の如く、虚空の如く、響の如く、ガンダルヴァの城のごとく……」

 本の結びの一文である。

 ガンダルヴァ国の由来は、幻術を用いる女神の名前。

 彼の女神の居城は在るようで無く、近づけば消えてしまう。

 転じて、ガンダルヴァとは蜃気楼のことを云う。



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