友よ、自由なる無に還れ
同日、シューニャがこちらに向かっているという情報がサハジを通じて届いた。
「して、シューニャの装備は?」
「相変わらずの僧衣とタジマ刀が一本。装備は我が国に帰ってきてから変化がありません。かなり使い込まれている様子です」
「ふむ」
相変わらずサハジは良くできた弟子であると、ザキは感心した。
サハジは斥候を用いてシューニャを逐一偵察していたようで、欲する情報を的確に伝えてくれた。
「これは孤軍との戦じゃ。そして自然を鎮める工事でもある。事前の準備で勝敗が決まる。よいな?」
「はっ。心得ております」
それからザキの指示でサハジが必要な道具を揃えて、全ての準備が終わったのは一週間後。
アワド藩都から人の姿は消えていた。
シューニャの襲来を恐れて、数万人の住民が避難したのだ。
季節は冬。山野の獣も息をひそめる季節である。
世界は生命が生まれる以前の原始を思わせる静けさだった。
雪の気配がないのは幸いだった。
時たま塩辛く凍える北風が吹きつける夕刻──
ザキとサハジは、メール山の中腹にある洞窟を訪れていた。
そこは、かつてシューニャが篭り、嵐へと変わった場所だった。
日の暮れた世界に、地下へと続く蒼い穴がぱっくりと口を開けている。
「あそこに……本当にいるのですか?」
サハジは不安げにザキを見た。
「ああ、いる。あやつはこの奥で……わしを待っておる」
ザキは戦装束にて、静かに佇んでいた。
長袖の装束は白一色。それはタジマ寺に伝わる、戦士の死に装束であった。
腰に携えるのはタジマ刀と、長い大脇差との二本差し。袖から覗く手首には、厚い手甲が見える。
殺気も緊張もない自然体で、ザキはシューニャの気配を感じていた。
「わしなりに……色々と調べた。なぜ異界から人の怨念や未練が形を成して落ちてくるのか。始まりは500年前、このメール山の魔消石が掘り尽くされた頃と重なる」
「魔消石と何か関係があるのですか?」
「恐らくは……大地の磁場の乱れじゃろう。魔消石の発する磁場が減り、それが異界の何かと干渉して偶然……落ちてくるようになった」
ザキは懐から一冊の本を取り出した。
「わしの家に伝わる異界の者たちの記録じゃ。落ちてきた時に頭を打って死んだり、行方不明になった者を除けば、全てこの山に帰ってきている」
「山に帰って……どうなったのですか?」
「二度と姿を見せることはなかった。おそらく……無に還ったのじゃ」
アワド藩で隠者の生活に戻りながらも、ザキは常にシューニャのことを考えていた。
異界の者たちが自然現象ならば、何らかの法則性があるのではないか──と。
「渡り鳥が故郷に帰るように、彼らは未練を果たし終えると、ここに帰ってきたんじゃろう」
「でも、タジマ様は霊廟に葬られたと……」
「タジマ様は遺言で……自分の棺を魔消石で作らせたのじゃよ」
「あっ……」
サハジは、師の辿りついた真実を理解した。
異界の者たちがメール山で二度目の死を迎える理由を。
何の痕跡もなく無となって消えてしまった理由を。
「魔消石は全ての魔力を吸収する。だから……ですか?」
「正確には物体の熱を奪い停止させるんじゃろう。故に人ならざる者は魂の最後の余熱を魔消石に捧げ、無に還る。おそらくタジマ様の棺も空っぽじゃろうて」
ザキは、洞窟の上に目をやった。
岩肌の色が蒼から黒に変わる境目の亀裂に、ヒカソウに用いる火薬が大量に仕掛けられている。
「──磁場の流れを再び乱す。魔消石の洞窟を地下深く埋没させることでな。魔消石は全ての熱を奪うが、物理的な衝撃は吸収できぬ。崩れる岩の重さで、全てを打ち崩す」
ザキはサハジの背後に視線を映した。
そこには、火薬に点火するための大量のヒカソウ砲台、そして召集された二人の女魔物使いがいた。
地雷之怒を使うパイ・フーと、羅刹亀のヘイ・シーグイである。
二匹の魔物もまた、全身に火砲を取り付けたマーク・ドゥ仕様だった。
「お前たちにも……苦労をかける」
ザキの命令に従い岩山を爆破し、洞窟を埋める──それが何を意味しているのか、二人の魔物使いは理解していた。
パイ・フーとヘイ・シーグイは、共にザキに恩義を感じている。
食い詰めた異国の魔物使いたちを偏見の目で見ず、その力を活かし、生業を与えてくれたのは他ならぬザキだ。
二人は悲痛な面持ちで片膝をつき、深く一礼した。
「ザキ先生……ウチは、こないな仕事はやりとうありません……!」
「でも~……やらなきゃなんですよね~……?」
ザキは僅かに口角を上げて微笑んだ。
「気にするでない。わしが望んだことじゃ」
どこか寂しげに、ザキは皮肉っぽく「ふっ」と息を吐いて、洞窟に向き直った。
その表情は死期を悟り、群れから離れた孤狼のごとく。
たった一人で死地に赴く師を前にして、サハジは耐えられなくなった。
「ならば先生! このまま爆破してしまえば!」
サハジが声を荒げると、ザキはその口を閉じるような仕草をした。
「荒ぶる自然を鎮めるには、古来より生贄が必要なのじゃよ」
「そんなのは迷信です!」
哀しみに顔を歪ませるサハジを諭すように、ザキは首を横に振った。
「あの男は……心ある嵐なのじゃ。きっと最初から人間ですらない……数多の剣者たちの無念の集合体なのだろう。親も子も友もなく、一人ぼっちなのじゃ。だからな、共に逝ってやるのが慰めなのじゃ。あやつの未練を消してやる……この役目は、わしにしか務まらぬ」
ザキは死を覚悟した者とは思えぬ、穏やかな表情だった。
その言葉に一切の偽りはない。
「さらばじゃ、我が弟子よ。世の理を元に戻すのだ。こんなことが二度と起きぬように、な」
「先生……!」
サハジは涙を堪えて歯を食いしばった。
それが最後の別れだった。
師が洞窟の入り口に消えていくまで、サハジはザキの背中を見つめていた。
ザキは洞窟の中に踏み入った。
吐息が白く凍りつく極低温の内部は、青白く発光していた。
洞窟の壁に描かれたガンダルヴァの壁画が虚空に浮かんで見えた。
おかげで、友の姿はすぐに見つけられた。
冷たい岩の上に、ガンダルヴァの幻影の下に、あの日のように座していた。
「来てくれたか……ザキ」
先に声を出したのは、シューニャの方だった。
「お前なら……来るという予感があった」
掠れたシューニャの声は、消えかけた人間性の最後の足掻きのようにも聞こえた。
ザキは抑揚の薄いシューニャの声に、確かな情を感じ取った。
「そなたの道連れが務まるのは……わしくらいしかおらぬものな?」
ザキは親しげに笑いながら、腰のタジマ刀を抜いた。
抜刀の気配を感じ、シューニャは瞬時に立ち上がり、同時に抜いていた。
常人ならば目視不能の速度だが、ザキには見えていた。
「さあ、共に逝こうか……我が友よ」
ザキは霞構えを取った。
最も小さな動作で攻撃に繋げられる構えである。
シューニャもまた、自然と霞構えで相対していた。
「いざ……刃の向こうの極楽へ。いざ……!」
二者が音もなく地を滑り、間合いを詰める。
互いに生も死も敗北も勝利もなく、水面に映る月のように、静寂から自在に変化していく空の境地に達していた。
一呼吸の瞬きで間境を超え、二人は同時に刃を振るった。
音もなく、二つの刀身の蒼い残光が虚空に走った。
僅かに……ほんの僅かに、シューニャの刀の切っ先がザキに触れるのが早かった。
刃がザキの右腕に触れて──ガキン!
と、不自然な音を立てて砕け散った。
ザキはこれを予測して、長袖の下に鋼の手甲を付けていたのだった。
人体を切断する以上の余力はこめないシューニャの剣戟は鋼を切り裂けず──酷使による金属疲労が限界に達して刀身が砕けたのだ。
敵を知り、万全の備えを以て戦に臨むがザキの兵法。
だが、シューニャの反応は神速だった。
その身を構成する数多の剣豪の技量がなせる技か、流れるような体移動でザキの剣戟をかわし、腕をねじり上げて刀を奪おうとする!
シューニャにとっては体に染みついた技だった。
かつての自分が流浪の剣豪から学び、どこかの自分が父から受け継ぎ、いつかの自分が主君の前で披露し、もしもの自分が悪党たちに叩き込んだ──新陰流奥義・無刀取り!
それは刀を失った時に、ほとんど自動で発動する技だった。
シューニャは対手の刀の柄を掴み、体移動でザキの側面に回り込んだ。
この体制からでは、ザキは残った脇差を抜いての刺突も不可能! 刀を手放さなければ手首をねじ切られる!
しかし──ザキは、それすらも予測していた。
無刀取りはタジマ寺に伝わる技でもある。
シューニャとタジマとは何らかの関係があると、察しがついていた。
故に、対応は出来る。
なにより、無刀取りはザキの得意とする技でもある。
「ふっ……」
ザキの顔に一瞬、哀しげな笑みが浮かんだ。
刀を手放し、シューニャに背中を向けて押し当て、大脇差を抜刀して──
ザキは我が身もろとも、シューニャを貫いていた。
相打ち狙いの一刺し。
長い大脇差は、密着した互いの胸を貫き……致命傷に至っていた。
「フフフ……死合は相打ち。しかし勝負は……わしの勝ちじゃぞ……!」
ザキの吐血混じりの呟きと共に、凄まじい爆音と震動が洞窟を襲った。
サハジが最後の仕事をやり遂げたのだ。
天井が崩れ、上層の岩盤ごと洞窟が崩落していく。
シューニャはザキを受け止める形で、どさりと床に崩れ落ちた。
「そうだな……お前の勝ちだな。ザキ……」
その声は穏やかで、満足げだった。
シューニャは剣者として敗北し、災厄として埋葬されるというのに、生まれて初めて何かを達成した、満ち足りた顔をしていた。
洞窟に描かれた、ガンダルヴァの壁画が崩れていく。
虚空に映る女神の幻へと、シューニャは手を伸ばした。
「色即是空……」
壁画が崩壊すると共に、シューニャの手の中でガンダルヴァは砕け散った。
そして魔消石の岩盤が、全てを闇の下に埋めた。
青い煩悩の炎は熱を奪われ、蝋燭の火のように……ふっと消えた。
奇縁で結ばれた男と災厄は、共に無へと還っていった
全ての執着からの……解放であった。




