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天の妄者と地の陰者

 ガンダルヴァ国の北方に位置するアワド藩に、メール山という山が在る。

 さして大きい山ではない。

 山道も整備されており、2時間もあれば麓から山頂まで徒歩で簡単に到達できる。

 特に霊峰というわけでもなく、猟師が狩りや山菜取りに頻繁に出入りしている。

 しかし、山頂に雲がかかると──メール山は禁足地となる。

 山門は閉ざされ、神官の家系の者だけが立ち入りを許される。

 メール山の頂に雲がかかると、必ず“上”から落ちてくるからだ。

 もう何百年も前から決まって、“上”から落ちてくるのだ。

 その日も、メール山には朝から雲がかかっていた。

 ただ一つ、いつもと違うのは──真っ黒な雲であったこと。

 そして──それは“上”から落ちてきた。

 それは声も上げず、もがきもせず、ただあるがままに落下を受け入れていた。

 生も死も関係ない。元から生があるのかすらも分からない。仮に死するとして、それは無から生じたものが無に還る、自然の理なのだろう。

 だが、地表との衝突の寸前、それは自然と受け身を取っていた。

 メール山の頂には、開けた場所がある。

 そこだけ木は切り取られ、岩は除けられ、代わりに砂が厚く敷かれて、大きな網が仕掛けられている。

 受け身と仕掛けの二つによって、それは落下による死を免れた。

 砂を転がって衝撃を逃がし、網に捕まって、それはようやく停止した。

「おお、きよったか」

 男の声がした。

 それが声の方向を見ると、異様な光景が広がっていた。

 二人の男が対峙している。

 かたや褐色の肌をした、若作りの男。

「おお、いやだいやだ。客人が落ちてきたというのに……」

 肩をすくめて、おどけている。

 対するは、刀を振り回す上半身裸、禿げ頭の巨漢。

「だからザキよ! ソレを渡せと言うておるんじゃあ!」

 語気荒く、巨漢は鞭のようにしなる二刀を振り乱している。

 空裂音が威嚇するように鳴り響き、銀色の刀身が光を乱反射していた。

 ザキと呼ばれた若作りの男は薄く笑いながら、一定の間合いを保っていた。

「そなた、立てるかな?」

 ザキが声をかけると、それはすっ……と流れるような動作で立った。

 体幹にズレのない、まっすぐな立ち方だった。

「ほう、その身のこなし……」

 ザキは尋常ならざる何かを感じた。

「そなた……アレをどう見る?」

 ザキは、二刀の鞭剣を振り回す巨漢に対する感想を求めた。

 それは巨漢の方に目を向けると、虚ろな表情のまま口を開いた。

「鞭のごとき奇なる得物だが……威嚇以上の意味はない。戦場いくさばでは邪魔になるだけ……。武術ではなく大道芸の類と見る」

「はははは! 聞いたか、ラーマよ! おぬしのソレは大道芸だとよ!」

 ザキは大声で、巨漢のラーマを煽るように言った。

 ラーマは遠目にも分かるほどに禿げ頭を真っ赤にした。

「おい! 腕の一本でも斬り落としてやろうか、そこの!」

「おいおい、太守さまはコレをご所望ではなかったのかな?」

「天からの客人が使えるかどうか、俺が見定めでやるというんだ!」

 頭に血が上ったラーマは、更に鞭剣の速度を上げてジリジリと迫ってくる。

「ま、このように……そなたは天上からの果実と思われておる。そなたが甘いか辛いかを、あやつは知りたがっておるのだ。甘い果実なら、ここの太守に献上しようとな」

 ザキは、落ちてきたばかりの男に簡潔に事情を説明した。

 そう──それは男だった。

 乱れた黒髪、傷痕の残る左瞼、薄汚れた異国の僧衣、歳の頃は30半ばの、筋肉質の男。

 肌の色は薄く、ガンダルヴァの人間でないことは明らかだった。

 男は無表情だったが、己に迫りくるラーマの剣を見て、俄かに変化が顕れ始めた。

「剣……剣か」

 ぼつり、と呟く。

 男の周囲の大気が、蜃気楼のように揺らいだ。錯覚ではない。明らかに一瞬、ぐらりと揺れていた。

 ザキは厭な気配を感じた。

「んー……?」

 何か……とてつもなく厭な予感がした。

 武芸者、兵法者の勘とでもいうべきか。

 ザキは大山が崩れるような予兆を感じ、それと知らず麓で暴れる子供を避難させるための一計を案じた。

「わしは兵法を齧っておってな。頭に血の昇った阿呆に効く薬も持っておるのじゃ」

 ザキは懐から小さな袋を取り出すと、ポイとラーマに向けて投げつけた。

 袋は鞭剣に触れるや切り裂かれ、中に入っていた粉末が周囲に拡散した。

「むほっ! なんじゃこりゃぁ……ザッ……ザキィィィィィィ! うおおおおおおお!」

 粉末を吸いこんだラーマは両目を抑え、呼吸困難になって転倒した。

「アレの中身は料理に使う辛味の粉じゃよ。クマでも魔物でも暫くは動けん。なので……この隙に逃げる!」

 ザキは男の手を取って、一目散に山道を駆け下りた。

 暫く走って、ラーマを完全に撒いた頃には、男から異様な気配は消えていた。

 かなりの距離を走ったというのに、男に呼吸の乱れはなかった。

「はぁ、はぁ、はぁ……そなたの身のこなし、武芸者のそれじゃな?」

 息を切らすザキの言葉に、男は答えなかった。

「名はなんと?」

 男は黙していた。

 無表情のまま口を結んで、暫くしてから

「名は……執らわれであると思う」

 ぼそり、と奇妙なことを言った。

「ふむ」

 ザキは興味深そうに腕を組んだ。

「確かに、名は自己を定義する呪縛であろうな。だが形ある限り──」

「そうだな。執らわれがあるから、俺は人の形をしている」

 つくづく、妙なことを言う男だった。

 寺の問答のようでもあり、ザキは興味を惹かれた。

「人間というのは、生きている限り……何かに執らわれるものじゃ」

「俺の名前なぞ……どうでも良い」

「しかし無名というのもな」

 ザキは首をぐぅーーっと横に倒して、名もなき男の顔を見た。

「無名とするのも芸がなし。そなたのことは、シューニャと呼ぼう」

「シューニャとは」

「虚ろなもの、欠けたもの、空しきもの。在るようで無く、無いようで有るもの」

 ザキの説明に何か感じるものがあったのか、男は虚ろな目でどこかを見ていた。

「色即是空……」

 聞き馴れない異国の言葉は譫言のようで、ザキは敢えて意味を問わなかった。

 問答もまた、この男──シューニャにとっては、呪縛の因であろうから。

 ザキとシューニャが山を降りて、山門を出る頃には、日が暮れていた。

「わしの実家はそなたのようなモノを世話する神官の家でなぁ。本当なら今日は妹が来るはずじゃった。だが具合が悪いと言うんで、わしが代理で来て……まあ結果的に妹が来なくて良かったというワケじゃ」

 黙っているのも何なので、ザキは自分の身の上を話していた。

「わしは若い頃は中央で軍人をやっておったが……何もかもアホらしくなって職を辞して郷里に戻って、それから20年近く隠者のごとく生きておる。この歳で妻も子もおらぬハズレ者じゃて。ははははは」

 ザキは今年で42歳になるが、独身だった。

「だから10歳も離れた妹にも嫌われとる。顔を合わせる度に『私は子供が三人もいるのに、あにさまはいつまでもガキみたいに! 無責任だ!』ってな。はははは!」

 血脈を残すのも神官の仕事も全て妹に押し付けた結果、実家からは勘当されていた。

 それがザキの望みであった。

「わしの住む小屋は寺領の内にあってな。そなたも暫くはそこに住むと良い」

 歩きながらザキが話しかけても、シューニャは口を閉ざしていた。

 天から落ちてきたばかりのモノは、意識が曖昧なことが多い。

「シューニャよ。そなたは自分の国のことは憶えておるか? ここに落ちてくる前にいた世界のことを」

 ザキの後を歩くシューニャは、暫く黙っていたが、十歩ほど進んで口を開いた。

「憶えているような気もするし、忘れているような気もする」

「奇なことを申すな? そなたのような物言いをする者は初めてじゃ」

「ここに落ちる前は夢を……見ていたような気分だ」

 日の暮れた青い小道の途中で、シューニャは幽鬼のごとく呟いた。

 面白いことを言ったので、ザキの歩みが俄かに止まった。

「そなたが元いた世界が夢ならば、ここは夢から醒めた現ということかの?」

「夢という割には生々しく、辛く、あらゆる執着に縛られた世界であったように……思う」

「ならば、そこもまた現。ここもまた現。極楽ではないということじゃの」

 メール山から、びゅう……と生温い夕風が吹き下ろした。

 土臭い風に顔を背けながら、ザキは続けた。

「そもそも、じゃ。煩悩から解放された極楽浄土というのは、魂が天に昇るものではないか? だが、そなたは落ちてきた。そなたのようなモノは、元いた世界で死してこちらに落ちてくるという。ならば、ここは──」

「地獄なのかも知れんな」

 シューニャの答は的を射ているように思えた。

 とんだ皮肉にザキは吹き出した。

「ぶははは! 左様。上も下も同じように人間が生に執らわれ、悩み苦しむのなら現の続き。すなわち地獄じゃ。ま、神話では死後に地下に落ちるともいうがの」

 問答に気を良くして、ザキはまた歩き始めた。

「わしは、そういった執らわれから逃げ続けている。故に、隠者をしておる」

「地位も名誉も捨てて、か」

「そう。だから金にも女にも縁がない。税を払うのもイヤだから、寺の中で世話になっておる。貧乏だが楽な生き方じゃて。情愛も欲望も全てが執着。呪いと同じじゃ……」

 寺につく頃には、すっかり夜になっていた。

「ここはタジマ寺という」

 ザキは懐から鍵を取り出した。

 寺の門は閉ざされているが、ザキは鍵を使って勝手口からの出入りが許されていた。

 シューニャは、門の様式を見て目を細めていた。

「タジマ……」

 シューニャは、譫言のように呟いた。

 ザキは、それが気になった。

「ここは異国の様式の寺じゃ。ガンダルヴァ国は石造りの寺ばかりじゃが、ここは木と瓦で作られておる。タジマ様という……そなたと同じような方が300年ほど前に建立されたのじゃ」

 ザキは勝手口を開けると、シューニャを招いた。

「タジマ様は武人であると同時に、宗教家でもあった」

 シューニャは無言で勝手口をくぐり、タジマ寺の内に入った。

 タジマ寺は、竹園の寺院だった。

 竹林の道を進みながら、ザキはタジマ寺の歴史を語った。

「タジマ様が来られる前は、ガンダルヴァは多くの藩国に分かれていた。そこにタジマ様は武と精神の道を弘流され、このアワド地方の太守に力添えして、ガンダルヴァを統一された。この寺は、タジマ様の武道の精神を今に伝える聖域というワケじゃの」

 寺内には、木造の修行場があった。

「ここは道場じゃ。朝になれば僧侶たちが棒や竹刀を振って修練に励む」

「竹刀……」

「竹を割って、獣の皮で包む用具じゃな。木刀よりも安全に試合が出来る。これもタジマ様が伝えた道具らしい」

 シューニャは道場を見ていた。

 その顔は無表情のようだが、ザキは僅かな感情の揺らぎを感じた。

「そなた……タジマ様の名を知っているのか?」

「いや……」

「だが、そなたは──」

 言いかけて、ザキは口を噤んだ。

「否……どうでも良いことじゃの」

 あまり自分から他人に深入りするのは、慎みのない行為に思えて自重した。

 ザキは道場の前から離れて、シューニャもその後に続いた。

 少し歩くと、派手な装飾の御堂に差し掛かった。

 月明かりを反射する金箔の堂の奥には、色鮮やかな等身大の立像があった。

 ガンダルヴァの素材で再現された異国の甲冑をまとった、いかつい顔の武人像だった。

「アレがタジマ様じゃよ」

 ザキはシューニャがどう反応するか試した。

 タジマ様に縁がある者なら、何か自発的に話してくれるかも知れないと……少し期待していた。

「タジマ様は、ここに落ちてきたのは30歳ほどで……80歳まで生きたそうじゃ」

 ザキはシューニャの表情を伺った。

 無表情のまま、御堂の奥のタジマ像をじっと見上げていた。

「暫く……ここに残る」

「左様か。では、わしは奥の庵にいるでな……」

 ザキはシューニャを御堂に残して、静かに立ち去った。

 足音を立てず、気配を消して、遠くの声に耳を澄まして。

 虫の鳴き声、風に擦れる木々の音、それらに混ざってシューニャの小さな独白が、かすかに聞こえてきた。

「なぜ……タジマなどと名乗った……。こんな所まで来て……名前だの……剣だのに……執らわれて……あんたは……満足したのかよ……」

 感情を殺した声が、微かに震えているように聞こえた。

 嘆きのような、怒りのような、あるいは愚かな身内に呆れ果てるような……複雑に入り混じった木霊を、ザキは確かに聞いたのだった。


 シューニャが落ちてきてから、一ヶ月が経過した。

 彼は放っておくと一日中、寺内の竹林で野禅をしている。

 ザキが食事を持っていっても食べた気配がなかった。

 たまにザキと散歩をすることもあるが、道場からは距離を取っていた。

「なにゆえ?」

 ザキが問うと、シューニャは虚ろに俯いて

「心が剣に執らわれてしまう」

 とだけ言った。

 タジマ寺は、タジマ刀と呼ばれる片刃の刀剣の製造販売を収入源としている。

 ある時、ザキとシューニャは、鍛冶場で作られた刀の納品に所に出くわしたことがあった。

「この刀もタジマ様が伝えたものでのう。一万人斬っても切れ味が落ちぬ! というのをウリにしておる。ま、実際に一万人も斬った奴はおらんがの」

 ザキは冗談めかして言ったが、シューニャを見て言葉を失った。

 タジマ刀を見るシューニャの目は、飢えた獣に似ていた。

 飢え果て、乾き果て、肉と水を得るためなら親すらも殺しかねない無言の殺気が放たれていた。

「おぬし……」

 ザキが声をかけると、シューニャは我に返って顔を背けた。

「ああいうものは……御免こうむる」

 それ以来、シューニャは二度とタジマ刀のある場所に近づかなかった。

 ザキは、暫くは寺の外に出ないようにと、シューニャに忠告した。

「アワドの藩都は目と鼻の先。ラーマの奴がお前を狙っとるからの。ま、ほとぼりが冷めるまでは……な」

 初日に会った鞭剣の使い手のことだ。

 ラーマと遭遇すれば、否応なくシューニャは剣に触れてしまうだろう。

「あの鞭剣は、本来は盾を持つ相手に使う武器じゃ。使い手もまた盾を持って戦う。なのに、ラーマの奴は我流で二刀を使うようになった」

 ザキは「はあ……」と溜息を吐いた。

「二刀の鞭剣なぞ虚仮脅しに過ぎぬ。だが、脅しで相手が引くのなら血を見ずに済む。その分別がつけば、ラーマも一皮剥けるのだが……己の力量も分からずに剣を振り回していては、遠からず死ぬだろう」

「やけに……気をかけるのだな」

 ぼそり、とシューニャが口を開いた。

「ラーマというの……お前に剣を向けた相手だろう」

「人生は短い。それを理解せず貴重な時間を無駄に浪費する若者とは……哀しいものであろう」

 ザキは憂いを帯びた表情で、寺内の竹林に目を向けた。

 青々とした若竹が、風にさやさやと音を立てて揺れていた。

「このアワド藩の太守は……はっきり言ってしまえば暗君でな。悪政を働く傍ら、ラーマのような見せかけの武芸者を集めて、民草を威圧しておる」

 生臭い俗世の話題を切り出して、ザキの表情が沈んだ。

「100年前にガンダルヴァは共和制になった……が、人間が統治する以上は必ず腐敗する。選挙で選ばれるはずの議会はいつしか世襲化し、一握りの貴族ずれどもが牛耳る寡頭制に成り下がった。この地方だけの話ではない。今やガンダルヴァ全てが……そんな具合じゃ」

 ザキは、政治の腐敗と圧制の始まりを感じていた。

 今はまだ末端の緩やかな膿でも、やがて国という体全体が腐っていく。

 そして、天下は再び乱れるだろう。

 シューニャは敏感に、歴史の常を憂れうザキの心の内を見抜いた。

「お前が軍を辞めた理由も……それか」

「まあな。わしの人生を俗物のために浪費したくないし、連中から給料を貰って……自分まで腐っていくのは我慢ならなかった」

 ザキは「はっ」と自嘲気味に笑った。

「わしはハズレ者じゃ。世渡りが出来なかった。世間に自分を合わせられんで……何もかも捨てて隠者になるしかなかったのじゃよ」

 ザキの笑いは、風にカサカサと揺れる林の青竹のようだった。

 俗世の一切が空しかった。

 それから一週間が経過した。

 ザキは世捨て人の隠者であろうとしているが、彼の願いとは裏腹に──人望のある男だった。

「ザキ先生! なにとぞ御指導を、お願いいたします!」

 タジマ寺の坊主たちは、ザキに武術の教導を乞うことが多かった。

 ザキは渋々ながらも承諾して、彼らに槍の使い方を教えた。

「全員で横一列に並んで槍を構えよ。そのまま一直線に突っ込む。これだけでいかな武芸者とて一貫の終わりじゃ。簡単じゃろう?」

 槍衾──集団戦において無類の強さを誇る基本戦術だ。

 もっぱらザキが教えるのは個人の技量を高める武術ではなく、短期間の修練でも集団で敵を圧倒できる戦術だった。

「ザキのアニキ! 北方の連中が魔消石を売りにきたようだが言葉がわかんねぇ! 通訳してくだせぇ!」

 町から若い商人たちがザキを頼って来ることも多かった。

「おうおう、分かった分かった」

 そうして寺から出ていって、夕方に帰ってくると──

「ああ、たまらん……。若い連中の相手は堪えるわ……」

 ザキはヘトヘトに疲れていた。

 シューニャは疲労の原因を聞くつもりはなかったが、ザキを送ってきた若い商人が勝手にアレコレと喋った。

「ザキのアニキには色々と稽古をつけてもらってるんでさぁ」

「稽古……?」

「へぇ。街道には今でも盗賊がいますし、山ん中には魔物もいる。護身のために、俺たちゃ兵法を仕込んでもらってまさあ」

 物言いからして、剣術などを習っているワケではなさそうだった。

 危機を回避するための逃走術、交渉術。そして有利に戦うための兵法、集団戦法などであろう。

「ザキのアニキには昔から世話になってまさぁ。魔物退治も、アニキの兵法で何百匹もいる群れを駆除できましたし、一番すごかったのは山賊に出くわした時で──」

 軽薄な商人は、聞きもしないのに自慢げにザキの武勇伝を語った。

「──で、山賊の親分ってのが、でっかい刀を持ったクマみたいな大男でしてねえ! そいつが刀をブンブン振り回して『ナマスにされてぇのかよオッサン?』とイキリ散らしてたのを、ザキのアニキはタジマ刀の短剣だけでスイッ……とやっちまったんですよ」

「スイ……」

「へえ。何が起きたのかは良く見えなかったんすが、気付いた時には山賊は手首を切り落とされてまして……」

「身の丈に合わぬ大刀を振り回しても、相手に付け入る隙を与えるのみ……ということだ」

 商人は「へぇ?」と首を傾げた。

 シューニャは詳しく説明をする気はなかった。

 己が剛力に慢ずる愚か者が力量の差を読めずにザキを侮り、更には無駄な動きで大刀を振り回して威嚇をしたことで致命的な隙を作り、間合いの内に踏み込まれて小手を打たれたというわけだ。

 ガンダルヴァの一般的な剣は質量で叩き切るタイプの刀剣であり、それを筋力で振り回そうとすれば技の起こり──即ち事前動作が大きくなる。

 ある程度の剣者が見れば避けるのは容易く、先の先を取るも、後の先を取るもまた容易。

 剣の大きさや体格など、見せかけの虚仮脅しに過ぎず──

 ザキは最小にして最速の初撃で相手の戦闘能力を奪い、二の太刀でトドメを刺したのだろう。

 常人が目視できぬほどの速度で……。

 シューニャは、ザキの剣境の深さを知った。

 そして、商人たちが兵法の教導を受けている本当の理由も察した。

 日が落ちて、月がメール山の上に昇り、夜になって──ザキが寺内の井戸での水浴びを終えた頃、シューニャが音もなく現れた。

 ザキは筋肉質の上半身を拭っていた。

「なんじゃ、珍しいのう。そなたも汗を拭いにきたか?」

 とは言うが、シューニャが汗をかいた姿など見たことがなかった。

 相変わらず、シューニャは生者とも死者ともつかない虚ろな顔をしていた。

「ザキ、お前は隠者だというが……他人と関わってばかりだ」

「うむ……それこそが、わしの執らわれじゃの」

 ザキは溜息がちに、夕闇の空を見上げた。

「わしは……連中を放っておけんのじゃ」

「お前が兵法を教えなければ、あいつらは──」

「出来もしない戦争を起こして……無駄死にじゃのう」

 ザキは、井戸端の石に腰を下ろした。

「俗世とは、ままならぬものよ。商人連中は税への不満。坊主どもは寺の自治権を奪おうとする太守への怒り。ぐつぐつと煮え立った鍋は、もう溢れる寸前じゃ」

「反乱を起こすつもりか」

「乱とは、起こすのではなく起きるものじゃ。世の必然よ。イナゴが畑を食い荒らすように。魔物が山野に生じるように。台風が吹くように」

自然じねんの理というなら、なぜお前が関わる」

「わしという人間が情に流され、加勢するのもまた自然の一部。わしが俗世から逃れ切れぬのも……運命なのじゃろうな」

 暮れの闇の中で……ザキは悟りか、あるいは諦めのように語った。

「本当に人の世から逃れたいのなら……山奥に篭って仙人にでもなれば良いのじゃ。わしは結局、それも出来なんだ。若い連中も、妹も、この国も……見捨てられなんだ」

「やはり……ここは地獄のようだな」

 執着から逃れようとしても、人としての情がある限り業に縛られる。

 シューニャは、それを痛感しているようだった。

 ザキはシューニャの無表情の奥に、どうしようもない煩悶の蒼炎を感じた。

「シューニャ。そなたは一体、どんな人生を送ってきたのだ?」

「曖昧……なのだ」

「まだ記憶がハッキリしないと?」

「いや……。ずっと僧院の中で暮らしていたような気もする。諸国を放浪していたような気もする。全てを縛られた人生の中で、剣だけが自由だったような気もする。地獄のような炎の中で、誰かと斬りあっていたような気もする。全てが他人の人生のような、夢と幻が混ざり合って……俺という人間は最初から存在しなかったような気さえするのだ」

 起きながらに夢の中を生きる、病者のごとき物言いだった。

 しかしザキは、シューニャが狂っているとは思えなかった。


 翌日──ザキは、タジマ寺の奥院にいる法師に会いに行った。

 お香の香りが漂う奥院に座敷に、法衣を着た禿頭の中年男性……法師がいた。

「殿下、久しぶりですな」

 ザキは改まった態度で、法師を殿下と呼んだ。

 法師は、そういう身分の人間だった。

 本来の名前も捨て、俗世を捨てた人間だった。

 だからザキも名前は呼ばないが、一方で法師ではなく殿下と呼ぶ。

「ザキよ。私を殿下と呼んでくれるな……」

 法師は苦笑いを浮かべて、ザキから目を逸らした。

 彼もまた、俗世のしがらみから逃げている人間なのだ。

「法師、今日はシューニャという男について話に参りました」

「あの落ちてきたという者か。して、悪しき者か善き者か」

 ザキの神官の家系は、異界からの来訪者を保護し、その正邪を吟味する役目も担っていた。

「シューニャと名付けた通り、あの者は空であり無です。自然そのもの。善きも悪しきもありませぬ」

 ザキの奇妙な物言いに、法師は怪訝な目を向けた。

「古来より、上から落ちてくるのは異界の英雄、あるいは羅刹の類といわれておるが?」

「それは我々の都合で勝手に定義したものです。たとえば、タジマ様は己の身の上について書物を残されました。『元の世界では老い、病を得て死んだが、こちらの世界では若い体に戻っていた』『これにて未練を果たす余生を得たり』と。果たして……タジマ様は本当に人間だったのでしょうか?」

「何が言いたい?」

「上から下に落ちてくるのは……異界の人間が死した時に生じた未練や怨念の澱。彼らは人の形をしていても人ではない。ただ、生前の記憶に縛られて人の形になっただけのモノ。私には、そう思えてきたのです」

 ザキは、既存の価値観を覆すような推論を静かに語った。

 メール山よりガンダルヴァに降りたつ者たちは、悪しき者もあれば善なる者もいる。

 たとえばタジマのように英雄となり、歴史に名を残す者さえいた。

 彼らが人ならざる者だったなど……。

 法師は、ごくりと息を呑んだ。

「それでは、まるで魔物ではないか……! 我が国は魔物たちに弄ばれてきたというのか?」

「そういう自然現象なのです。魔でも神でもありませぬ」

「では、シューニャという男も……自然として何かを成すために落ちてきたのか?」

「でしょうな。しかし、彼はそういった執着から逃れようとしている。無へと還ろうとしている。いや……」

 ザキの目が、複雑な感情で重く沈んだ。

「シューニャは、己の煩悶の炎を消そうとしている。荒ぶる魂を鎮めようと……足掻いているように思えます。今の彼は、意思を持つ嵐のようなものです」

「人に害をなさないために、自ら消えようとしている……と?」

「はい。それが彼の望みなら、私は手助けをしてやりたいのです」

 ザキは明確に意思を表示して見せた。

 荒ぶる自然を鎮めようとする強い意志が、そこにあった。

 心通わせた友を、穏やかに彼岸に送り出してやりたいという、慈悲の心があった。

 結局、また他者に関わるザキを見て、法師は暗澹たる表情を浮かべた。

「ザキよ。お前は……執らわれてしまったな」

「人の縁とは、そんなものかも知れません。殿下……」

「私は……やりたくないのだ。人に縛られて、引っ張られて、己の人生を危険に晒すなぞ……。何千、何万という人間の生殺を握るなぞ……」

 法師は自分が酷く惨めな気分になって、両手で顔を覆った。

 同じく隠者の生活をしていても、自分とは真逆の鏡のようなザキを……直視できないのだ。

「ならば寺から出て山に篭り、仙人になると良いでしょう」

 ザキは皮肉ではなく真心から助言した。

 法師は、本来なら人の上に立つ人間だった。

 権力争いに嫌気がさして、全てを放棄して寺に逃げ込んだ……そういう人間だった。

 その日の昼過ぎ、ザキはシューニャをメール山に誘った。

「メール山には、篭るのに良い洞窟がある。たとえばタジマ様以前に落ちてこられたチェン・ゴンという方は乱世を生きたが、最後は俗世を厭うてこの洞窟に篭り、仙人になったという言い伝えがある」

 山道から逸れた山の中腹に、青々とした岩肌が開けていた。

 周囲に草木はなく、初夏だというのに冷たい空気が漂っていた。

「ここは大昔の魔消石の採掘跡らしい」

「魔消石……?」

 以前に寺に来た商人の話の中にも出てきた単語だが、シューニャはどんなものかは知らない。

 ザキは、足元に転がる青い小石を拾って見せた。

「魔消石とは、天地のあらゆる魔力を吸い取る性質がある。稲妻を当てれば雷を宿し、火山に投げ入れれば火を宿す。それを利用して魔力地雷や城攻めの砲弾に使われる。だが、わしは真の性質は別にあると思う」

 ザキが小石を、小さな泉に投げ入れた。

 すると、泉の水面が一瞬にして薄い氷に覆われた。

「都の魔術師どもは『これは水の魔力を奪ったから凍る』とか言っておったが……恐らく魔消石の本質とは物体の熱を奪い、全てを停止させることにある。これを利用すれば──」

 言いかけて、ザキは口を覆った。

 己の執らわれを口にすれば、ここに俗世の毒を引き込んでしまう。

「いや、こんなことはどうでも良いな。そなたには関わりなきこと」

 薄い氷の水面が、バキリと音を立てて溶けて砕けた。

 ザキは、洞窟にシューニャを案内した。

「ここならば、そなたの願いも叶うだろう。存分に空に至り、全ての執着から解き放たれると良い」

「かたじけなし……」

 シューニャは、洞窟の奥へと踏み入った。

 何の照明もないのに壁面が青白く光っている。これも魔消石の性質の一つなのだろう。

 奥の壁面には、鮮やかな衣装をまとった半人半鳥の女神の絵が描かれていた。

「これは……?」

「ガンダルヴァの絵じゃの」

 それは、この国と同じ名前の女神だった。

「音楽を奏で、歌い舞う幻の女神ガンダルヴァ。元は歌の女神と音楽の男神だったが、いつしか一つの神に混ざり合ったそうな。その女神は砂漠の中に幻の城を立て、旅人を惑わす。そんな蜃気楼の城が本物になったのが、この国の始まりだという神話じゃ」

「幻の女神……」

 青い光に照らされるガンダルヴァの壁画は、じっと凝視していると虚空に浮かび上がって見えた。

 ザキは虚空に浮かぶ女神に手を伸ばしたが、何も掴めなかった。

「古の画家は、この洞窟を利用してガンダルヴァの幻を表現したんじゃろうな。在るようで無く、無いようで在る。絵は実際にそこにあっても、美しい女神には決して手が届かない。見る人の心の中に残るだけじゃ」

「人の世のようだな……」

「いかにも。故に、ここはいつしか修行の場になった。禅を組んで悟りに至る者もいれば、お主のように一切合切から解脱した者もいる」

 ザキは、寂寥とした語り口だった。

 シューニャは暫くガンダルヴァの幻を見つめて、冷たい洞窟で禅を組んだ。

 ここで瞑想の果てに、己を人の形に留める煩悶の炎を消し、無に還るのだ。

「ザキよ。俺はあなたに感謝する。良き……出会いだった」

 シューニャは最後に人としての情を以て、去りゆく縁者に別れを告げた。

 ザキは無言で微笑みを浮かべて、友の涅槃を祈った。

 それより三日の間、シューニャは座したまま動かなかった。

 無心。

 ただ無心。

 次第に呼吸の回数が減り、体温が下がり、やがて実体すらも薄まっていく。

 ザキが一日に一度、洞窟に様子を見に来るのは感じた。

 だが互いに何も言わない。別れはもう済ませたのだから。

 このまま何も起きなければ、シューニャは一月と経たずに真の空へと至っただろう。

 然し──人の世とは無常。

 ここもまた安寧なる極楽ではなく、現の続きであり地獄でしかなく……

 災禍とは起きるべくして起こるものだった。

 シューニャが洞窟に入って四日目。

 朝か夜かも分からぬ時に、洞窟の外から人の声がした。

「お前が山に入るってことは、また誰か落ちてくるんだろう! 分かってんだよ!」

 乱暴な男の声。

 ラーマとかいう巨漢の声だったと、シューニャは思い出した。

「違います! 私は山菜を採りにきただけで……!」

 若い女の声がした。

 知らない女だ。

「お前の兄貴がよォ! ナメた真似してくれやがったんだからよォ! お前が埋め合わせをしろってんだよ!」

「兄がなにをしようと、私には関係ありません!」

 何か言い争っているが、シューニャには関わりの無いことだ。

 動かず、考えず、座していたというのに、二つの足音が洞窟に侵入してきた。

「誰か! 助けて!」

 女の悲鳴と

「あぁっ! テメェ! テメェは……ザキと一緒に逃げた野郎じゃねぇかよ!」

 無駄な殺気に満ちたラーマの声が、凍った洞窟に踏み入ってきた。

 シューニャの目が、うっすらと開いた。

 女は身重だった。大きな腹を庇いながら、岩陰に隠れていた。

 ラーマが腰に下げた刀を、シューニャに向けて投げたのが見えた。

「刀を取れ! 丸腰の野郎を斬っても名折れだからな!」

 しゃん、と軽い音を立ててシューニャの足元にタジマ刀が転がってきた。

 消そうとした蒼い炎が、シューニャの内で立ち昇る。

「やめよ。俺に関わるな」

 冷たく気を込めて警告するが、ラーマには伝わらなかった。

「腰抜けが! やっぱりテメェはハズレだ、ハズレ! もぉぉぉぉう! いらねぇ!」

 賢も技も至らぬ愚か者が、二刀の鞭剣を振り回した。

 洞窟の岩肌を削り、空を切ってシューニャに迫る鞭剣は……あまりにも稚拙だった。

 シューニャの虚ろな目の奥に、蒼い炎がゆらりと揺れた。

「バカが……。せっかく、俺は消えようとしていたのに……」

 嘆くような掠れ声で呟き、嵐が炎と共に回天する。

 一瞬、世界が静止した。

 凍った洞窟の中で、時間の停止を知覚できた者はいなかった。

 シューニャとラーマ、二人の剣者のみが動くことを許された、別の世界の理が働く空間。

 時間の流れが再開するのは、二人の内のいずれかが倒れた時のみ。

 死合は一瞬で終了した。

 ラーマは両腕を切断され、首の動脈を切り裂かれて絶命していた。

 シューニャが刀を抜いたことも、いつ立ち上がったのかも、自分がどうやって斬られたかも、彼は知覚できぬまま死んだ。

 鞭剣の動きは直線的で制御は効かない。

 シューニャの使う剣術では、刀以外の得物を「外の物」と呼ぶ。

 腕力で振るい、慣性に頼る外の物の武器など見切るのは容易く、シューニャは神速の体捌きで間合いの内に入り、ラーマを切断したのだった。

 ラーマは相対したのが自分を超えた遥かな高みに在る剣者であったことも、己の愚かしさと無力さも知らぬまま、幸福の内に散華した。

 時間の流れが戻る。

 物言わぬラーマの死体が洞窟に転がり、少し遅れて出血が広がった。

「きゃあああああああ!」

 女は突然の惨劇に悲鳴を上げて、そのまま失神した。

 シューニャは女のことなど眼中になく……己の内なる炎に煩悶していた。

「執らわれてしまった……。もう、ダメだな……」

 苦しげな声だった。

 人の形に留まっていた心が、燃え落ちる最後の苦痛だった。

 ゆらりと空気が流れる。

 脱力した右手に握られたタジマ刀の切っ先から、僅かに血が滴る。

 シューニャは僧衣の裾で刀を拭い、鞘に納めた。

 過去に何百人と人を斬った達人のごとく、馴れた手つきだった。

 凍った洞窟の外へと、熱い空気が移動を始めた。

「ああ……ザキよ。すまぬ、すまぬ……」

 友への謝罪を譫言のように唱えながら……シューニャは別のモノへと変貌していった。

 シューニャには、世界の全てが陽炎のように見える。

 強い煩悩に捉われた人間たちは、常に青い炎に身を焼かれ、その熱が世界の風景をゆらめかせているのだ。

 人の心を焼く青炎──すなわち煩悩なり。

 陽炎が濃い方向に、シューニャは自然と引きずられていく。

 煩悩の根源、人間が多く住む場所に。

 そこは欲望と悪意、憎しみと怒り、嫉妬と狂気の渦中──争いが起きる火宅であった。

 いつの間にか、シューニャはメール山から四里ほどのアワド藩都に来ていた。

 アワド藩都となれば外国人の姿も珍しくない。

 都の往来でシューニャを気に留める者はいなかった。

 人の群れの隙間を縫って、幽鬼のように歩いていった先に……酒場があった。

 シューニャの目には、酒場の建物全体が青く炎上しているように見えた。

 酒場を見る虚ろな目が、真っ青に染まっていた。

 怒声が聞こえた。

「なあ! オヤジよォ~! 俺ァそ~んな難しいこと言ってねぇよなあ? なあ!」

 開店前の酒場の中で、店の主人が屈強な男たちに囲まれていた。

「我がアワドの太守様はよォ~~、お前ンとこの娘を大層気に入ったんだとよォ~~?」

「娘のことは……道で見かけただけでしょうが!」

「だーかーらー、ひとめぼれなんだとよォ~~? ヒャハハハハ!」

 五人の男が、背の低い主人をぐるりと囲んで、頭上から下卑た声を浴びせていた。

 男たちの頭目と思しき者は、やや落ち着いた調子で主人の肩を叩いた。

「なあ、オヤジよ。悪い話じゃねぇだろ? 太守様のハーレムの中に加えて頂くんだ。ただの町娘よか、よっっぽど良い暮らしが出来る。かわいい女の子だけの特権だ。羨ましいくらいだぜ」

「ハーレムだって? 変態太守の慰み者にされるだけだろうがっ」

「あ~~ん?」

「うちの娘の友達もお前らに攫われて……三ヶ月前に死体で帰ってきた! 二度と見られぬ姿になって……!」

 主人が必死に反抗するのは……シューニャにも分かる。

 頭では理解できるが、もうそんなことはどうでも良かった。

 人としての理性はぼんやりと薄まり、夢の中にいる。

 生も死もない、青い炎の地獄の夢だ。

 音もなく、シューニャは店の中に入っていた。

「オヤジよぉ……ちょーーっと、今のはダメだなぁ? 太守様をヘンタイ野郎たぁ、ちょーーっと不敬罪だわ」

 頭目の男が、腰の剣を鞘から抜いた。

 主人である太守を侮辱された云々は、抵抗を排除して手っ取り早く娘を回収するための口実もとい難癖でしかない。

 続いて、他の四人も剣を抜く。

 傷だらけで雑な手入れをされた刀身ばかり。だが頭目の男だけは少しマシだ。

「オヤジよ……お手打ちだ。ま、娘のことは、俺らに任せな」

「ひえっ……」

 狼狽える主人に向かって、頭目が剣を振り上げた。

 抵抗できない相手の恐怖を煽るだけの、くだらない動きだった。

 だが、明確な殺意があった。

 シューニャには、頭目の全身が青く燃えるように幻視できた。

「ああ……」

 店に入って、初めて声を出した。

 歓喜とも苦悶ともつかない、呻き声。

 そこで男たちはシューニャに気付いた。

「なっ、なんだぁ、テメェはっ!」

「どっから入ってきたぁっ!」

 狼狽する男たちも青く燃えている。

 怯えと驚愕からくる敵意を受けて、シューニャはぶるっと震えた。

 熱く冷たい血流が背骨に沿って逆流する、久方ぶりの武者震い。

 頭の中で初陣の記憶、初めて人を斬った記憶、討ち死にした記憶、顔も背丈も全てが違う別人の自分たちの感情が混ざり合い、砕けて消えた。

「い・ざ……!」

 シューニャは抜刀した。

 もはや彼の者は人ではなく、生者でもなく死者でもなく、ただ殺意に反応する嵐と化していた。

 時が止まる。

 人の発する青炎と陽炎以外の全てが静止した空間。

 そこに、シューニャと頭目との死合が開始された。

「む!」

 頭目はシューニャの剣気に反応して構えを取った。

 周囲の異常ではなく、自分に襲いくる死に反応できたのは、この男が比較的上澄みである証拠だ。

 だが、そこまでだった。

 頭目の男が構えた時には、シューニャが一刀の間合に入り、下段から小手を払っていた。

 ヒュンッ、と金属質の空裂音が響き渡る。

「おおおおおおお!?」

 剣を握っていた男の手首が宙を舞い、ごとりと床に落ちた。

「う、ぉ、ああああああああ!」

 何が起きたか理解できぬ男の絶叫は、すぐに止んだ。

 次の瞬間には頸動脈を切断され、全てが終わっていた。

 時が動き出す。

 両手と首を斬られて倒れる頭目の死体を見て、四人の男と酒場の主人が同時に絶叫した。

「うああああああああ!」

 恐怖と殺意の炎が弾ける店内は、血風の瞬獄と化した。

 店内の叫びが外に漏れ、武器を持った男たちが集まってきた。

「あンだこの野郎ォ!」

「俺たちを何だと思ってんだ貴様――!」

 虎の威を借るなんとやら。

 太守に雇われた三流のゴロツキどもが、三重にシューニャを取り囲んでいた。

 何やらゴチャゴチャと悪態を吐いているが、シューニャの耳には雑音にしか聞こえなかった。

「切り結ぶ……刃の下こそ地獄なれ……」

 ぼそり、と記憶の底にこびりついた剣術歌を謡う。

 誰が作ったかも憶えていない。

 自分だったような気もするし、父だったような気もするし、祖父だったような気もするし、共に同じ剣の高みを夢見た強者ともだったかも知れない。

「踏み込みゆけば、あとは極楽……」

 ぼんやりと謳いながら、再び時が止まった。

 酒場は、手首足首臓物が飛び散る地獄絵図と化した。


 ザキは毎日一回、昼過ぎにシューニャの様子を見に行く。

 瞑想の邪魔をしないように洞窟の入り口から中を覗いて、異常がなければ帰るだけだ。

 しかし、その日は異常があった。

 洞窟の中にシューニャの姿はなく、気を失った身重の妹と、斬殺されたラーマの死体が転がっていたのだ。

「ム……なんとしたことか」

 ザキは強く後悔した。

 何が起きたのかは、状況を見ればおおよそ分かる。

 ラーマの気性を考えれば八つ当たりや復讐に出るのは当然といえる。

 妹と出くわしたのは偶然であり、こうなってしまったのも偶然の果てであろうが──

 ザキの才覚ならば予測できたはずだ。

 否、敢えて楽観視していたのだ。

 未然に事態を防ぎたいなら、ラーマを早々に始末しておくのが最善だった。

 なんならシューニャが最初に落ちてきた時に、ラーマを殺してしまえば良かった。

 だが、それは出来なかった。

 暗愚のアワド太守の威を借りるチンピラ同然のラーマにすら情けをかけてしまった、ザキの甘さが間接的にこの結果をもたらしたのだ。

「これもまた……運命というものか」

 ザキは重く沈んだ表情で、妹を介抱した。

 抱き起し、「ふんっ」と首へ気合を打ち込むと、妹は意識を取り戻した。

「あぁ……あにさま!」

 普段は気丈でザキを嫌う妹も、この時ばかりは恐怖の表情で兄にもたれかかった。

 妹が説明した状況は、ザキの予想した通りだった。

 自ら無に還ろうとしたシューニャは、剣という執着に存在を縛られてしまったのだ。

「こうなってはもう……誰もあの者を止められぬ……」

 後悔と悲しみがザキの心を覆った。

 そして個人の意思では抗えない流れが起こり始めたことを……すぐに思い知ることになった。

 夕刻──妹を家に送ってから寺に戻ると、伝令の者が来ていた。

 ザキが日頃から軍事教練を施している、商人組合の伝令だった。

「ザキ先生! アワドの街でえらい騒ぎが起きてます!」

「不明瞭な……報告はするな」

 常日頃からそう教えている。

 一人前に軍隊を名乗りたいなら、不明瞭な報告は厳禁であると。

 しかし、騒ぎの内容についてはザキも察していた。

「シューニャが原因だな……」

「あっ……はい! あのシューニャという御仁がふらりと現れて、太守の雇ってるチンピラと酒場で揉めて……」

「何人……斬られた」

 ザキは目を細めて、顔を覆った。

 太守が民と議会を恫喝するために雇った半端な腕のヤクザ者どもでは、シューニャに敵うはずがない。ラーマのように力量の差すら理解できずに挑みかかり、屍を晒すだけだ。

 伝令は一瞬、呆気に取られてから慌てて報告を続けた。

「あの、ええと……数えられるだけで20人はやられたと……」

「多勢相手にか」

「最初はタイマンだったみたいですが、5人ほど斬られたあたりでぐるりと取り囲まれたそうで……」

 伝令は言葉に詰まった。

「あの、その……なんと言いますか……凄くボヤけた報告になってしまうのですが……」

「どうなったのだ」

「次の瞬間には一人が斬られて、また次の瞬間には一人斬られて、瞬きをする内にシューニャさんを囲んでた連中が一人ずつ順番に死んでいったそうです。始終見てた店のオヤジは、何が起きたのか全く分からなかった、と錯乱してて……」

 正気を疑うような報告だった。

 一般的に、一対多の戦闘は包囲された時点で極めて不利となる。

 シューニャほどの剣者ならば、走り回って包囲されることを未然に防ぎ、乱戦に持ち込んで各個撃破するといった戦術は知っているはずだ。

 だが報告を鵜呑みにすれば、まるで魔術を使ったように包囲した連中が順に斬殺されたという。

 普通なら疑うところであるが──

「シューニャは……この世とは別の理を持っている。故に、我らの理は通用せぬのだ」

「はあ……?」

「して、シューニャはどうなった」

「そのまま太守の屋敷に向かっていったと……」

 報告を聞き終えて、ザキは地面に向かって「はぁ~~……」と深い溜息を吐いた。

 シューニャと自分の運命を悟ったのだ。

 俯いて、顔を上げるまで、ほんの五秒ほどの間があった。

 五秒間──ザキが全てを諦め、全てを受け入れるのに要した時間だった。

「ああ……やりたくないのぉ……」

 口の中で誰にも聞こえぬように告白して……ザキは決心した。

 この混乱の嵐に乗じる。時の運きたり、と。

「立つ時が来たのじゃ。この機に太守を討つ」

「えっ、い……今ですか?」

「戦を起こす時期が来たのじゃ。この日のために練磨してきたのだろうが。各部隊の長に伝えよ。『南西の季節風が吹く』とな」

 ザキの声は凛と張り詰め、既に隠者のそれではなかった。

 将として、男は煩悩の満ちる俗世に還る決意をした。

 日が落ちる。

 夜が訪れる。

 ザキと彼の部隊は、慌ただしく行動を始めた。

 彼らは常日頃から暗愚の太守を倒し、アワド藩都を制圧する計画を立てていた。

 ザキは街の中央にある商人宅を指揮所とし、各方面に走らせた斥候からの情報を集め、指揮を出した。

「太守の屋敷はどうなっておる?」

「シューニャという男が正面から門を破り──」

「ならば捨て置け。じき太守はくたばる。我が主力は南の兵舎に『季節風を吹かせる』」

 ザキは確信していた。

 シューニャの剣技と異界の理の前には、どんな武芸者も数も無意味であると。

 あれはそういう存在なのだと、おおよその察しはついていた。

 制御の効かぬ嵐を戦術の一部に組み込むのである。

 戦力で劣るザキ達には、情報と兵を展開するスピードこそが肝要。

「季節風を吹かせる」とは、夏の嵐のように早く、騒々しい軍事行動を指す暗号だった。

 アワド藩都の南に位置する軍の兵舎を、ザキの部隊は松明を掲げて取り囲んだ。

 商人の協力で祭事に使う篝火を改造し、一人で五人分の松明を持てるようにした。

 そして軍旗は十倍の数を用意し、声を大きく拡声する筒を持たされて、部隊が一斉に鬨の声を上げた。

「ウオオオオオオオ!」

 夜間では正確な数も計れず、兵舎の見張りは自分達が大軍に囲まれたと錯覚した。

 ザキの部隊の実数は200人程度だったが、それを十倍以上の数に見せかける幻術を用いたのである。

 アワド藩軍の士気が低い、ということもザキは知り尽くしていた。

 給料は100年前から変わらず、兵たちは常に困窮し、賄賂が横行する原因になっていた。

 まともな糧食も配給されず、兵舎の内外に畑を作って屯田紛いの有様が見て取れる。

 彼らも太守への不満と不信が溜まっていた。

 そこに外からの連絡を断ち、孤立させることでアワド藩軍の不安を煽る。

 市街では火を焚き、炎上しているように見せかける。

 心理戦で血を見ずに勝てるのなら、それに越したことはない。

 更に夜が更け、兵舎の中から打って出てくる気配がないのを見計らって、ザキの部隊は降伏を勧める使者を送った。

「我らは暗愚の太守を討ち、正常なアワド議会を取り戻すのが目的であるから、諸君らが抵抗しなければ危害を加える気はない。事態収束までの武装解除と、この場での拘留を受け入れて貰えるなら、身の安全は保障する」

 かなり穏便な要求だったので、兵舎の指揮官は容易くこれを受け入れた。

 彼としても太守に思う所があったのだろう。

 給料もロクに払わない太守に忠誠心などあるわけがない。

 太守が征伐されて藩政が改善されるなら願ってもないことだ。

 夜が明ける頃には、勝敗は決していた。

「ザキ先生! 太守の屋敷が……」

 斥候からの報告は困惑気味だった。

 どうなったかは予想がつく。

「うむ。陥落したか。我らの勝ちと見て良いだろうな」

 ザキは将として、静かに勝利を宣言した。

 指揮所の幹部たちから歓声が上がったが──

 ザキは無表情のまま感情を硬直させていた。

 議会の掌握は幹部たちに任せ、ザキは副官及び少数の護衛らと共に太守の屋敷に視察に向かった。


 人の抗争など知らぬ小鳥たちが、屋敷の庭園で囀っている。

 爽やかな晴れの朝だった。

 そんな自然とは不釣り合いに、豪奢なる白亜の屋敷は血まみれだった。

「まあ……こうなるであろうな」

 ザキは諦めたように呟いた。

 太守の屋敷は、死体の山だった。

 まず門番の死体がザキたちを出迎え、屋敷に続く回廊に雇われゴロツキ十人分の死体。

 玄関には斬殺された死体の血がべったりと張りつき、屋敷内は死臭が充満していた。

「むっ……きついですな」

 ザキが護衛に連れてきたサハジ副官が、思わず鼻を覆った。

 それなりに場馴れした男だが、屋内に圧縮された血と臓物の臭いは耐え難いものがある。

 屋敷内は、そこら中に食客として飼われていたチンピラ紛いの武芸者たちが斃れ、相当な手練れと思しき者も驚愕の表情のまま絶命していた。

 二階の奥の部屋では、豚のように太った太守が死んでいた。

 護身用の短剣を握ったまま、頸動脈を突かれて、豪奢な絨毯の上で死んでいた。

「ザキ先生、これは一体……」

 サハジ副官が困惑していた。

 この惨状、どう見ても人の技ではない。

「我らが触れて良い存在ではなかったのだ。しかし触れてしまった。起こしてしまった。もう止められんだろう」

 ザキは息を吐いて、屋敷を見渡した。

「ここのクソ太守、女子おなごらをハーレムに飼っていたそうだが?」

「人の気配はありませんし……逃げ出したのでしょう」

 サハジ副官は「おい」と護衛の兵を呼んで、屋敷内に人が残っていないか一応の探索を指示した。

 だがいずれにせよ、もうシューニャはここにはいない

 ザキは窓から外を眺めようとしたが、挿す光が存外に眩しく、目を細めた。

「時は動き始めた。もう止められん。各部隊に伝えよ。シューニャという男には絶対に近づくな。そして斥候に彼の者を追わせ、監視させよ」

「監視……ですか?」

「いかにも。あれは人ではない。自然現象だ。魔物が山野を歩むように、夏に嵐が南から吹くように。行動に何かの法則性があると見た。それを……見極めねばなるまい」

 ザキは、シューニャという歩く災厄を戦略に利用する算段をつけていた。

「驕れる魔法使いは、自らが使役する魔神に食われる──というのが昔話の定番じゃ。だがこれは天候を読むようなものじゃて」

「天地もまた人に御せるものではありますまい」

 サハジ副官は遠慮なくザキに言葉を挟んだ。

「驕れる者は、人知を超えた自然に押し潰されるものです」

 こういう男だから、ザキは傍に置いている。

「潮の満ち引きの周期は分かる。天地の理を知るのもまた兵法なり」

 それから、ザキはサハジ副官を介して斥候と伝令を放った。

 ガンダルヴァ国は複数の藩王国を統一した国家であり、各藩には中央政府と地方議会から承認を得た知事が置かれる。

 知事を太守と呼ぶのも、藩王国だった頃の名残だ。

 統一国家となって300余年が経過しても尚、各藩に恭順の意識は希薄だった。ガンダルヴァ人の数千年に渡る民族性とでもいうべきか。

 各藩はそれなりの自治が認められており、軍の指揮権も太守が持つ。

 つまり極論、中央から派兵の要請があっても太守が突っぱねることも可能なのだ。

 尤も、そうなると反乱とみなされ別の藩から攻撃される危険性も孕んでいる。

 なので、ザキは先手を打って工作を仕込んだ。

 ザキは各藩の商人組合と強いパイプを持っている。

 組合に弟子たちを軍事顧問として送り込み、訓練を施し、自衛用という方便で武装化していた。

 彼らは藩と藩との交通の要所である駅家の運営に関わり、馬という最速の交通手段と情報伝達を抑えていた。

 この強力な商人ネットワークで情報戦を制するのだ。

 各藩の太守に

「此度の騒乱は、かの高名なザキ先生の率いる藩軍が悪政極まるアワド太守を成敗し、議会を正したものである」

「中央への叛意はない。また、他藩への攻撃の意思はないと確約するものである」

「だが我々への敵対行為に関しては、その限りではない」

 と、虚実織り交ぜ、脚色を加えて伝えた。

 ザキは、この日のために不本意ながら名声を高めていた。

 師を尊敬するあまり過分に持ち上げる弟子や商人たちは、勝手にザキを肥大化させて各地で講談師のごとく触れ回った。

 ザキ先生こそ腐敗した中央政府軍の職を自ら辞して、困窮する地方の人々と共に生きることを選んだ傑物。偽りの名誉を捨てて野に潜んでいた孤高の剣豪であり、類まれなる将器を持つ侠──という些か脚色された、しかし民衆の好みそうな宣伝を方々に広めていたのだ。

 文字を読める知識層のために、ザキは本も書いていた。

 思想書、歴史書、兵法書などなど、それらも商人によって各地に流通し、将校クラスの軍人、議員、太守たちが手に取った。

 各藩には、中央に不満を持つ太守もいれば、ザキに心酔する太守もいる。

 また太守とは別に、商人組合が議会を掌握している藩もある。

 そういった藩は味方にならずとも中立でいてくれれば良い。

 中央は表向きザキたちの反乱を黙認するだろうが、いずれ時期を見て軍を差し向けてくるだろう。

 こんな国盗り紛いの行為を認めてしまっては、国家としての統制が乱れ、ゆくゆくは自分たち中央政府も打倒されることくらい、平和ボケした世襲議員どもでも想像がつく。

 だから先手を打って──

「こちらから打って出るのだ」

 ザキは、速攻をかけて中央を落とすつもりだった。

 アワド藩の議会を掌握し、藩軍を指揮下に置き、再編成し、一気にガンダルヴァ中央府を叩く。

 その戦略の内に、シューニャという人の形の災厄が組み込まれていた。


 ザキたちがアワド藩を制圧して半月後──細かい事務処理は残っているが、議会はほぼ掌握していた。

 前太守の下で利権を貪っていた議員らは、事前に商人組合側に寝返っていた者を除いて、財産没収の上で追放とした。

 彼らは他藩の親戚を頼って逃亡するだろうが、その道中で恨みを抱く市民の報復に合っても、それはもはやザキ達の関知するところではない。

「大衆が憎しみをぶつける生贄が必要なのじゃよ。クソ太守を公開クビチョンできれば手っ取り早かったんじゃが、シューニャにブッ殺されてしもうたからの。だから、太守のお友達の皆さんに代わりをやって頂いた」

 テントの下で、ザキは淡々と残酷な仕置を説明した。

 サハジ副官は、温厚な師の別の顔に寒気を覚えた。

「既に街道で何人か吊るされているようですが……」

「ん、誰も降ろさないようなら腐る前に適当な墓に埋めてやれ」

 さらり、とザキは死体の処理について指示した。

 既に大した関心事ではないが、衛生上の問題もあるし、新政権の寛大さを宣伝するのに利用できる。

 ザキは今、遥かに大きな問題と苦労に直面していた。

「はぁぁ~~……やりたくないのぉ……」

 心底、うんざりした溜息を吐いて肩を落とす。

 ザキとサハジ副官の待機するテントの前方には、ずらりと藩軍の部隊が整列していた。

 再編成を完了したアワド藩軍の歩兵、弓兵、騎兵、将校諸々、総勢約5千人。

 まだ夏の日差しは厳しく、兵たちの額には汗が浮かび、苛立ちがつのり始めていた。

「夏の集会っちゅーのは本当にムカつくよなぁ~? 学校でも軍隊でも、無駄に待たせて何十分もくだらん話を聞かせる校長だの将軍様だのマジでブッ殺したくなるわ」

 ザキは本音まじりの愚痴をぼやくが、今の彼こそが殺意を向けられる当事者なのだ。

「待たせてるのは将軍でも校長でもない。成り上がりの良く分からんオッサン……つまりわしじゃ。叛意反感殺意はムッキムキじゃな?」

「なら、早く演説やっちゃいましょうよ……」

「ふふふ、演説だと? わしはこれから、演習を装った他藩への侵攻作戦をぶっちゃけるんだろうが」

 ザキの不敵な笑み。

 真実を知らされているとはいえ、サハジ副官は真っ青になった。

「この状況でそんなことを言ったら……!」

「それを言い包めるのが、戦争始めたわしの責任なのじゃよ」

 半ば諦め、半ば決心し、ザキは断崖に身を投げる気分で席を起った。

 議会は買収や裏取引で懐柔できても、ザキは軍を掌握しているとは言い難かった。

 軍人たちから見れば、ザキは太守から藩を乗っ取った簒奪者でしかない。

 ザキが元軍人といっても、二十年も前の話だ。しかも中央政府軍勤務だったので、当時の知り合いは田舎のアワド藩軍には皆無。コネがないのだから根回しなど出来ない。

 テントから一歩出ると、5千人の視線に全身を撃ち貫かれるのを感じた。

 肌がピリピリと痺れるのは……日差しのせいではあるまい。

「まさしく、針のむしろじゃな」

 敵意、不信、不安、軽侮、負の感情がチクチクとザキを刺す。

 勝負馴れした剣者は、対手の心理を読むのにも長けている。

 兵たちが自分をどう思っているか、ザキには手に取るように分かった。

「一人で5千人を相手せにゃならんとはのぉ」

 心底、嫌気がさす。

 だから──戦争はやりたくないのだ。

 彼らを言葉で説き伏せ、真に配下としなければ戦争は出来ない。

 これが責任だ。人と関わり、人を見捨てられず、世を変えるために立ってしまった者の責任だ。

 ザキの一世一代の孤独な大勝負が……始まってしまった。


 アワド藩は起伏が小さい土地だ。

 少し高台に昇れば、遥か地平線の彼方まで見渡せる。

 ザキは演説のために用意された台に昇った。

 荒涼とした大地と夏の乾いた青空の間に、5千の兵が並んでいた。

 一旦「ふう……」と息を吐いてから、ザキは拡声用の魔石に顔を近づけた。

「あー……端の方まで聞こえておるかな?」

 魔石は内部を集音に適する形で切り抜かれている。

 内部に入った声が共振し、兵たちの四方に配置された同一形状の魔石から、山びこのようにザキの声が響いた。

 四方の魔石を担当する兵士から、動作良好を示す旗が上がった。

「うむ。では──」

 ザキは、はぁーっと息を吸い込んだ。

 魔石で拡声されるとはいえ、ベースとなる声は大きくなければならない。

 檀上でのスピーチなぞ中央政府軍の教練所以来だが、緊張も恥も死ぬよりはマシだと思えば何も怖いものはない。

 命を失う真剣勝負、部下を死なせる実戦に比べれば、5千人を騙す芝居なぞ屁でもない!

「──諸君! わしはこの度、新たな太守より藩軍の司令官に任命されたザキじゃ。要するに諸君にとって、一番偉い上官というわけじゃ」

 さっそくの詭弁である。

 新太守は副知事が繰り上がりで就任したが、その実態は商人組合の傀儡である。

 傀儡に任命された司令官など、彼らが上官と認めるわけがない。

 事実、何人かの士官級の人物が皮肉っぼい苦笑いを吹き出す様が見て取れた。

 ──まあ、想定の内じゃ。

 ザキは構わず、演説を続けた。

「これから総軍の演習──ということになっておるが……わしらは隣接するナグープル藩との国境くにざかいまで進行する。そして、そのままナグープル藩内に侵入する。この意味が分かるか?」

 発言の真意を理解した士官と将校らの顔に動揺の色が見えた。

 ザキは反論の隙を与えず、一気に畳みかける。

「まず言っておくが、わしは前太守とは違う! 諸君らも既にちゃんとした給料を受け取ったであろう? その手に持っている槍も、身にまとう鎧も新品を支給した。諸君らはもはや、民に盗賊まがい、汚職兵隊と蔑まれることはない! このわしが、子や親に胸を張って誇れる真の軍人にしてやろう!」

 ザキは兵士たちに待遇の改善という目に見えた実利を与え、これからもたらされる名声と尊敬という餌をぶら下げた。

 檀上でパン、と両手を叩く。

 それを合図に、ザキの後方で配下の事務官たちが机と椅子を持って現れた。

「わしに不満を抱く者、ついてこれないと思う者はこの場で除隊して構わん! すぐさま手続きをせよ! 退職金も手配しよう! わしは一切、それを責めようとは思わん。諸君らの心の自由を尊重する!」

 これが、ザキの心理戦だった。

 まず誠実さをアピールし、選択を兵個人の自由意思に任せる──ように見せかけた。

 現実として、一般の雑兵はこういう場で自己主張できるような訓練はされていない。逆に命令に従順になるように、徹底して個を殺す訓練を施されるのが末端の兵卒だ。

 彼らは前に出て除隊の手続きをしろ、と言われても出てこられない習性を持っている。

 そんな兵隊アリから脱して自己判断を出来る意思と決断力を持った者が、士官や将校になれる。

 仮に誰か一人でも士官級が除隊手続きに出れば、堰を切ったように除隊者が続き、この場でアワド藩軍は崩壊しかねない。

 ──だが

 そんな勝算の低い分の悪い賭けをするほど、ザキは愚かではなく若くもなかった。

 夏の熱気に蒸された兵たちの頭上には、蒸発した汗で靄がかかっていた。

 彼らの意識もまた、長い整列と小難しいザキの演説で朦朧とし始めていた。

 隊列の中央付近から、声が上がった。

「──俺は! ザキ先生についていくぞッ!」

 一人の中隊長級の士官が槍を持ち上げて叫んだ。

「俺は軍人だ! このままアワドの田舎に一生篭っていて、何の栄光が得られる? 何もせず給料を貰って腐っていくより、ザキ先生の下で一花咲かせたい! これは大いなる機会だと思うッ!」

 それに続いて、別の隊からも声が上がった。

「ザキ先生は兵法を以て、我らの血を流さず太守を打ち倒した! 仁義と知恵のある御方だ! この方の下でなら、俺たちは存分に戦える! 決して無駄死になどしない!」

 ざわめきが兵たちの間に広がっていった。

「世直しのために命かけるは武人の誉よ! タジマ様の時代のように、我がアワド藩は世直しに立ち上がるのだッ!」

 その後も、兵たちを鼓舞する声が相次いだ。

 これこそがザキの仕込んだ策であった。

 ザキはアワド藩軍にコネを持っていないが、士官や将校の中にはザキの本を読んで感化された者も少なくない。

 彼らに事前に接触し、タイミングを見てザキに賛同する声を上げるよう命じていたのだ。

 その他に、単に金を渡されたサクラもいる。

 原始的な手段だが、人間とは群れの生き者。軍隊ならば尚のことだ。

 朱に交われば赤くなる──ということわざの通り、5千人の兵士はザキに同調する色に染まっていた。

 もちろん、不承の将校もいる。だが、彼らとて流れには逆らえない。

 人流と炎天下の熱は、兵たちから正常な判断力を奪っていた。

 この暑苦しさと汗から逃れられるのなら、もうどうなっても構わない。なるようになれば良い……という諦めから、ザキに同調する者も多かった。

 話術、サクラ、そして夏場の野外、全てはザキの策略だった。

 ザキはしたり顔を自信ありげに見せかけて、檀上で高らかに謳った。

「ありがとう、諸君! わしは諸君らに誓おう! 戦をするなら必ず勝つ! 二度と諸君らに惨めな思いはさせん! 我らを苦しめる諸悪の根源たる者どもを成敗するのじゃ!」

 5千人の兵がザギを見る視線は、演説前とは一転していた。

 賞賛、憧憬、尊敬、崇拝。それらがザキの肌にまとわりつき、ヒリヒリと焼け付いた。

 兵士たちはザキに心を読まれ、利用され、自分の自由意志で戦争参加を選択してしまった。

 ──だから、戦争なぞしたくないのだ。

 歓声を浴びながら壇上から降りたザキは、心底うんざりした顔だった。

「ああ……人を騙すのは最悪の気分じゃ。それも、罪もない味方の兵たちを……」

 迎えるサハジ副官は、喜ぶべきか嘆くべきか困惑していた。

「ザキ先生……これで、絶対に……負けられなくなりましたね」

 サハジ副官は熱狂に飲まれない賢い男だ。

 これからの困難を理解している。

「一度でも負ければ兵たちの熱は冷めるどころか……反転しますよ」

「分かっておるわ。あやつらに必要なのは成功体験じゃ。わしについてきたのは間違いではない。自分たちは正しかった──と確信できる、完全な勝利……」

 ザキはテントに入って、椅子にどっと腰を下ろした。

 周囲に兵たちの目がないことを確認してから、両手で顔を覆い……深く疲労した溜息を吐いた。

「はぁぁぁぁ……。きっついわ……」

「勝てますか? ナグープル藩に?」

 サハジ副官が冷水の入った壷から手ぬぐいを出して、ザキの顔にかけた。

「勝つのが、わしの責任じゃ」

 手ぬぐいの下から、ザキのくぐもった声がした。

 サハジ副官は、手ぬぐいに覆われたザキの顔を覗いた。

「先生にしてみれば、負ける方が難しいのでは?」

「驕るな。いかに知恵と策を凝らしても、勝負とは……最後は時の運じゃ」

 買い被りの過ぎるサハジ副官を窘めるように、手ぬぐいの下でザキは続けた。

「勝利の女神とは……気まぐれな悪女よ。調子に乗り過ぎた奴は簡単に見放す。それを忘れるな」

 ザキの短い説教は、自分に言い聞かせるようでもあった。

 百戦錬磨の名将を装っていても、軍隊同士の大規模な会戦はザキも未経験であり、

 それはナグープル藩も中央政府も同じだった。


 ザキが兵を率いてアワド藩を発った数日後──帰還した斥候の報告から、シューニャの行動の法則性が、おおむね判明した。

 彼は武器を持つ者──正確には、戦意を持つ者を追う習性があった。

 事実、太守の屋敷で斬殺されていたのは全て武器を持つ男ばかりだった。

 シューニャは屋敷から逃走した武芸者を追って行った。

 ザキ達の部隊が無事だったのは、単純に相対的に距離が離れており、尚且つ既に戦闘が終了していたからに過ぎない。

 斥候に追わせたところ、シューニャは逃げた武芸者たちを斬殺後も徘徊を続けているという。

 ザキは本陣とした地主の屋敷で、サハジ副官ほか将校たちと作戦を練っていた。

 シューニャへの対応も、その内に入っている。

「ザキ先生、これは一体……?」

 サハジ副官は不可解な報告に首を傾げていた。

「シューニャなる者、なぜ歩き続けているのでしょう?」

 彼は弟子の中では最も優秀なのでザキの手元に置いているのだが、まだまだ読みが浅い。

「渡り鳥は大地の磁気を読んで迷わず飛ぶという。それと同じで、シューニャも目に見えぬ気を読んでおるのだ」

「つまり、どこか遠くの敵意に向かっていると?」

「左様。これを利用する」

 ザキは指揮所の卓上に、ガンダルヴァの地図を広げた。

「シューニャが進む先には、ナグープル藩がある。ここは我が国の中央府首都に至る要衝となっておる。ナグープル太守は中央議員の親戚筋なので、この藩を説き伏せるのは……ま、無理じゃな」

「一戦は避けられないとして、ナグープル藩軍と我が方との彼我戦力差は大きすぎます。我々が正規のアワド藩軍を再編成した数は五千といったところ。対する敵方は少なく見積もって三万」

「だから頭を使うのが兵法じゃよ」

 ザキは筆を取って、朱色の染料に漬けた。

「シューニャに関しては各藩に『我が領内に落ちてきた魔性の者。人知の及ぶ者ではないので決して手を出すなかれ』と通達してある。だがナグープル藩内の商人組合に命じて、それとなく噂を流す。『あれはザキが兵器として放った魔物だ』と」

 ザキは淡々と物騒な内容を口にしながら、地図上に筆で赤い線を引いた。

「ナグープル藩の連中は殺気立つ。そこにシューニャが真っ直ぐ突っ込む。彼の者に対しては何万人ぶつけようと無意味じゃ」

「まさかナグープル全軍を彼に始末してもらうのですか?」

「な、ワケないじゃろう。シューニャは一人ずつ斬っていくから、マトモな軍隊なら異変に気付けば退却する。だが無視するワケにはいかない。対処のしようのない魔物を警戒し、大軍を割いて防御線を敷くことになる」

 ザキは空いてある手に別の筆を取って墨を付けると、防御線を意味する黒線を引いた。

「この防御線に一万を割くとする。それでもナグープルはまだまだ優勢。だから──」

 何を思ったか、ザキは赤い筆で四方八方から線を引いて見せた。

「『ザキの送り込んだ魔物は一匹ではない』という偽情報を流す。圧力をかけて敵戦力を分散させまくって、我らは最も手薄な部分をブチ抜く」

「そんな簡単に……」

「いくワケないだろう。難しいから、わしらは頭と足を使って成功させなきゃならんのだ」

 ザキは筆を振るって、読みの浅いサハジ副官に次の行動を指示した。

 ナグープルに続く街道に設置された駅家を黒い丸で囲んだ。

 これらを抑えよ、という意図をサハジ副官は理解した。

「なるほど。駅を抑え、敵方の伝令を捕えるのですね」

 藩と藩とを行き来する伝令は必ず駅家で馬を休める。

 そこを抑えるのは情報伝達を制するのと同意であった。

 現地の駅家の管理を委託されている商人組合の手引きで、ナグープル藩軍の伝令を拘束、あるいは殺害して入れ替わり、また連絡の内容もこちらに都合良く書き換えた。

 中央政府軍は平和と怠惰に溺れきり、もう何十年も暗号を更新していない。

 制圧したアワド藩軍の資料からも、それは明らかだった。

 ガンダルヴァ中央府首都には

「ザキの軍は寡兵であり、士気も低く、反乱の制圧は順調。心配は無用」

 と平和ボケした議員たちを安堵させる文を送った。

 ナグープルの太守には、中央議会の名義で

「じき援軍を送るので到着を待て」

 と手紙を偽造して送った。

 これを待機命令と解釈して、ナグープル太守は大将でありながら居城から動こうとしなかった。

 ナグープル藩軍の各指揮官には

「ザキのアワド藩軍が魔物を複数投入しているのを確認した。未知の攻撃方法を使う。最低でも一万の兵で対処せよ」

 と偽の命令文を回した。

 実戦馴れした指揮官なら命令文に疑問を抱いたろうが、ガンダルヴァ国の藩軍は長い平和の中で官僚化し、上からの命令通りに働いて給料を貰うだけの仕事に馴れきっていた。

 結果、ナグープル藩軍は愚直に命令に従って東西南北に戦力を分散し──二日後の早暁、最も厚い防御線と、最も薄い防御線に同時に攻撃を受けることになった。

 最も薄い箇所にはザキの軍が。

 そして、最も厚い箇所にはシューニャが一人。

 ザキはシューニャという嵐の到達と共に、軍を動かしたのだった。


 ナグープル藩はガンダルヴァ国の平原地帯にある。

 ぐるりと周囲を見渡せば、どこまでも大地が続いている。

 夜と朝の狭間、早暁の世界は蒼く冷たい。

 ガンダルヴァの夏は寒暖差が大きい。朝は肌寒く、見張りの兜には露がしたたるほどだ。

 見張りの兵が、黄金に輝く東の空と、真っ暗な大地との境界に……一人の影を発見した。

「なんだ……アレは?」

 遠眼鏡を覗いて、見張りの兵は異様さに息を呑んだ。

 薄汚れた僧衣の男が、タジマ刀を手に歩いている。

 虚ろな表情で、シューニャが荒涼とした大地の上を歩いてくる。

 狂人のごとき装いだが、足取りは地を滑るように早く、背筋は真っ直ぐで乱れることがない。

 早暁の静寂に、魔性襲来を知らせる法螺貝の音が響いた。

「ザキの魔物じゃああああ! あれに向けて矢を放てぇい!」

 大柄な鎧をまとったビパル指揮官が叫んだ。

 すぐさま、弓兵隊による足弓の攻撃が始まった。

 足弓とは足で抑えつけて強く弦を引き、高速で矢を発射する正規軍の兵器である。

 殺傷力は高く、直撃すれば鎧も容易に貫通する。

 弓兵隊は横並びに一斉発射。

 目標は徒歩で真っ直ぐ向かってくるだけの一人。外すわけがなかった──

 が、矢は一つとして当たらなかった。

「どうした! しっかり狙え!」

「狙っております!」

「なら、なぜ当たらんのだ!」

 ビパル指揮官の怒号と矢の空裂音が飛び交う。

 矢の装填を終えた兵と交代して次々と足弓を発射するが、シューニャには一発として当たらない。

 その間に、シューニャは悠然と弓兵陣地に迫っていた。

「騎馬隊! あの魔性を踏み潰せ!」

 ビパル指揮官は焦りの表情で突撃を指示した。

「ラァァァァァァァァ!」

 雄叫びと共に槍を構えた騎兵らが突進した。

 大地を揺らす戦馬の蹄。朝靄を貫く槍の穂先。

 それらがシューニャ一人を飲み込んで──

 音もなく、一頭の馬の首が宙を舞った。

 続いて、騎乗していた兵士が足を切断されて地に転がった。

「ああ! あああああああ!」

 何が起きたかも分からず、兵士は地面をのたうち回っていた。

 彼は足からの大量出血で、じきに死ぬ。

 更に一頭、馬が足を切断されて転倒した。乗っていた騎兵は鎧の隙間から首を突かれて死んでいた。

 シューニャは何の感情も表さず、自然な動きで刀を振るい、己と対峙した騎兵を一人ずつ斬殺していた。

 異界の理により生じた、時の止まった一対一の戦斗空間は他者に認識できない。

 一秒ごとに死合が決し、騎兵は一人、また一人と斬殺され、地面に人と戦馬の死体が散乱した。

「うあああああああ! なんだ! なんだこれぇぇぇぇぇぇ!」

 部隊の半数が壊滅した三分後に、騎兵たちは漸く異常に気付いた。

 戦場の熱狂の中にあっても、一方的に殺されていく友軍の死体を見れば目は醒める。

 既に騎兵隊の隊長は亡く、騎兵たちは蜘蛛の子を散らすように潰走した。

「ええい! 魔物め!」

 業を煮やしたビパル指揮官は、ついに大刀を手に前に出た。

「あれに大軍をぶつけても意味がない! 古来より、魔物とは剛の者が打ち倒すものじゃ!」

「ああ! お待ちくださいビパル様!」

「ええい、うるさい腰抜けども!」

 部下の制止を跳ね除け、ビパル指揮官はシューニャと対峙した。

 ビパル指揮官は、己が肉体と武芸に自信を持っていた。

 他の兵より一回りも大きな体躯に分厚い鎧をまとい、愛刀は身の丈ほどもあるタジマ刀だった。

「逆賊ザキの放ったバケモノが! 我がマハー・ダンピーラの露と果てるがいい!」

 ダンピーラとは、幅広のタジマ刀のことをいう。

 マハーとは、ガンダルヴァ語で大きいモノ、偉大なモノを指す。

 その名の通り、マハー・ダンピーラは巨大な刀だった。

 ビパル指揮官の膂力を以てすれば、象の首すら一撃で切断するであろう。

 いつの間にか──シューニャは異界の理にビパル指揮官を飲み込んでいた。

 二人の武芸者以外の、世界の全てが静止する。

 ビパル指揮官は、ダンピーラを担ぐように構えた。

 この構えから放たれる一撃は刀勢凄まじく、たとえ受けても刀身ごと相手を両断する。

 しかし──

「切り結ぶ……刃の下こそ地獄なれ……」

 シューニャは虚ろな表情、呆けたような目で、ぬるぬると迫ってきた。

 構えすらない。どこからでも切ってくれと言わんばかりの、自殺志願のごとき隙だらけの姿!

「バカが! すぐに冥土に送ってくれるわ!」

 ビパル指揮官は勝利を確信した。

 シューニャのタジマ刀は厚みも長さも一般的な代物だ。業物どころか安物の数打ちと見た。

 あの刀ではビパル指揮官の鎧を一撃で断ち切るのは不可能。

 力と勢いをつけて鎧を斬ろうとすれば技の起こりがあからさまとなり、そこをビパル指揮官がマハー・ダンピーラで両断するだろう。

 速度に勝るシューニャが鎧に刀を当てたとしても、ビパル指揮官は装甲で耐え、受け流し、そのまま相手を両断する。

 いずれにしても、勝ちは揺るがぬ! 

 ビパル指揮官は自信と殺気と共に踏み込み、ダンピーラを振り下ろそうとしたが──

 背筋に冷たいものが走った。

 シューニャの目はどこを見ているかも定かではない。

 手にも足にも体にも、動作の起こりが見えない。

 すなわち、次の行動が全く読めないのだ。

 正中線から外れた刀にしても、まるで体の中心を狙ってくれと言わんばかりの隙──敢えて作られた罠の誘いのように見えた。

「ま、まずい──!」

 ビパル指揮官は斬撃の瞬間、己の誤りに気付いた。

 シューニャは底知れぬ魔性であり、剣境において到底及ぶ相手ではないのだと。

 その逡巡がダンピーラを打ち降ろす速度に僅かな鈍りを与えた。

 もはや、全ての後悔は遅すぎた。

「踏み込みゆけば……後は極楽」

 シューニャが譫言のように謡い、ビパル指揮官の横を通り過ぎていた。

 ダンピーラの切っ先を僅かな体移動で避け、大柄なビパル指揮官の腕を潜り抜ける形で、鎧の隙間である脇の下を胸まで切り裂いていた。

 ぬるり、するり、と垂れる涎を拭き取るような一撃だった。

「うおおお……」

 ビパル指揮官は脇の下から大量出血し、地を転がった。

 動脈と神経を切断され、もはや命脈は尽きていた。

「うう……と、トドメをくれぇい……」

 ビパル指揮官は己の命運を悟って懇願するも、シューニャには聞こえていなかった。

「あ、ぅぅぅぅ……」

 ビパル指揮官は血だまりでもがき、やがて死んだ。

「幾度、刃の下を潜り抜けても……極楽は見えん。見えんのだ……」

 次の極楽、涅槃を求めて、シューニャはナグープル藩軍の防御陣へと進んでいった。


 日が昇り切る頃には、戦の勝敗は定まっていた。

 ザキの軍勢は最も薄い防御陣を切り裂き、そのままナグープル藩都に突入。

 事態が分からず呆然と佇む藩都の市民たちに、サハジ副官は馬上から拡声器の筒を使って叫んだ。

「我らは市民に危害を加えるものではない! 案ずるな! 大人しく家の中におれば、何も心配はいらぬ!」

 市内を駆け抜けながら、サハジ副官は叫び続けた。

 ザキの部隊は城内に浸透させていた内通者の手引きで開門し、ほとんど無血で太守の城を制圧した。

 兵の大半は前線に出払っており、城内は閑散としていた。

 居残りの兵は二線級の若造か事務方ばかりで士気は低く、敗北を悟って奥に引っ込んだ。

 もはや番兵すらいない司令室の扉を、ザキの兵が蹴破った。

「我らの勝ちですな、太守殿」

 ザキは兵と共に小太りのナグープル太守を取り囲んだ。

「ひ、卑劣なり! ザキ!」

 ナグープル太守は負け惜しみとばかりにザキを詰った。

「これが戦というものです。あなたがたは戦を知らな過ぎた。敗軍の将が責を負うのも、また戦です」

 ザキは淡々とした口調で、静かにタジマ刀の鯉口を切った。

「せめて、最期は潔く。勇者にはヴァイタラニを渡る船が用意されますゆえ」

「分かっておるわ! そこまで恥知らずではないッ!」

 武人としての最後の矜持を示し、ナグープル太守は床に坐してザキに背を向けた。

 ヴァイタラニとは冥界に流れる川のこと。

 罪人でも善き行いがある者ならば、安全に渡る船が用意されるという。

「さあ、斬れ!」

「良き旅を、太守殿」

 ザキは抜刀し、上段に構える。

 狙うは頸椎の隙間。

 ナグープル太守の肉付きの良い首の下、骨の位置を見切り……振り下ろす一閃。

 空裂音。肉の断ち切れる音。

 ザキは一撃で太守の首を切断した。

 首が絨毯の上に落ちる音に続き、太守の体が崩れる鈍い音がした。

 鮮やかな斬撃だった。血もほとんど飛び散っていない。

 自軍の大将の剣境を目の当たりにして、兵たちは息を呑んだ。

「すごい……」

「ザキ先生は知恵だけでなく、武芸も神業だ……!」

 兵たちの尊敬と驚嘆の眼差しは……決して気分の良いものではなかった。

 謙遜などではない。照れ臭いなどという、青い感情などあるわけがない。

 ザキは天井を見上げて、掠れるような息を吐いた。

「だから……やりたくないのだ。戦など……」

 人殺しで賞賛されて酔えるものか。

 業の深みに己を捉える現世を厭う。

 窓の外からは、自軍の勝利の歓声が聞こえてきた。

 将としての表情が一瞬崩れ、全てが煩わしく思えた。

「わしは戦に執らわれ、お前は剣に執らわれ……行き着く果ては同じかも知れんな」

 ザキは戦場のどこかを彷徨うシューニャに向けて、哀しげに呟いた。


「兵法とは、人心を掴むことが真髄なり」

 ザキは常々、弟子たちにそう教えている。

 ナグープル藩攻略後の采配に関しても、人心掌握を第一とした。

 まず、藩都占領後に議員や将校に対する処罰は無いとした。

 大将であるナグープル太守に全ての責任があるとして誅殺したから──というのが表向きの建前だが、その実は精神的な貸しを作ることにある。

 太守に与していた議員たちは反抗の意思を挫かれ、恭順せざるを得なくなる。

 将校たちも義のない太守に忠誠を誓っていたわけでもなく、ザキの寛大な処置で緊張を緩和させた。

 第二の手として、ザキは自軍の兵たちに報奨を与えた。

 それにはナグープル太守から接収した財産を充てたわけだが、ザキはサハジ副官に命じてこれを大々的に宣伝させた。

「見よ、この金銀財宝を! 中央府の走狗である太守は領民に重税を敷く一方で、私腹を肥やしていたのだ!」

 サハジ副官はザキが作製した台本通りに、大衆の前で芝居がかった大仰な仕草を演じてみせた。

「我らは領民からは一切奪わない! なぜなら! ザキ先生は、世直しのために軍を起こしたからだ!」

 さすがに芝居が過ぎるので、サハジ副官は半笑いになっていた。

 しかし、大衆には分かり易い勧善懲悪の物語が必要なのだ。

 前の太守は腐敗した中央政府の象徴であり、それを倒したザキのアワド藩軍こそが正義であると。

 これは効果を発揮し、人々は口から口にザキの軍を称え始めた。

「ザキの軍は大したもんだ。略奪や狼藉は一切やらん!」

「太守の野郎と違って、ザキ先生の軍はちゃんと給料が貰えるらしいぜ!」

「うちの叔父さんが商人組合とコネがあるんだ。仲介でザキ先生の軍隊に入れてもらおうぜ!」

 といった具合に、少し手を加えてやることで民衆の支持と戦力増強を得られるのだった。

 無論、敵軍から降った将兵や現地徴用兵は容易に信用しない。能力的にも劣るので、主に後方任務に充てる。

「軍隊も国も動物も、図体がデカくなると小回りが効かなくなる。デカい図体はあくまで脅し。敵を討つのはハチの一刺しじゃ」

 ザキは精鋭戦力による高速一点突破の戦術を重視した。

 ナグープル藩攻略後、ザキは素早く軍を進めた。

 その途上、斥候からの報告でシューニャの現在位置が分かった。

「はぁ~……コーチン藩に行ってしもうたか」

 ザキは休息の折に、斥候が地図に記したシューニャの足取りを見た。

 コーチン藩は、ナグープル藩から更に西に向かった沿岸部に位置する。

「シューニャとやらがコーチンに行くと……何か都合が悪いのですか?」

 サハジ副官が横から地図を覗いた。

「コーチン藩にはのう……魔物使いがおるのじゃよ」

 ザキは溜息混じりに呟いた。

「果たして、シューニャの剣術は魔物に通用するのか……些か不安だの」

「負けるかも知れないと? あんな、歩く災厄が……」

「あやつの剣術は人斬りの技じゃ。魔物を斬るための技ではない。しかし、前例のないことであるから──」

 ザキは顔を上げ、西の空を見上げた。

「勝敗は……誰にも分からん」

 シューニャは友であり戦略の一部であるが、斃されるならそれまでのこと。

 戦いの果てに消えるのもまた、彼の者にとって幸福なのかも知れない。

 ザキは友人の情と、戦略家の非情、二つの相容れぬ感情で憂鬱な気分だった。

 空は雲一つなく、熱い大気が滞留している。

 いまだ秋遠い、ガンダルヴァの乾燥しきった青空だった。


 シューニャはナグープル藩の部隊を壊滅させた後、ザキ配下の斥候に誘導される形で戦線を離れていた。

 飢えた獣の鼻先に肉をぶらさげるように、武器を持ってシューニャの前方を馬で走るのだ。

 いかに人理から外れた剣者だろうと、歩く速度は人間と変わらない。

 間合に入らず一定の距離を保ったまま馬で走れば、追いつかれることもなく誘導できる。

 そして、ザキに敵対する中央政府軍や敵側の藩軍になすりつける。

 ザキの行く先には、中央政府側についたコーチン藩の軍が布陣していた。

 小山に築かれたコーチン藩軍の本陣では、太守が遠眼鏡でシューニャの姿を覗いていた。

「あ~れがザキの使う魔物でおじゃるか~? ただの乞食坊主にしか見えんがの~~?」

 顔面に白塗りの化粧を塗りたくり、無駄な派手な鎧をまとったのがコーチン太守だった。

 本陣にしても料理に果物、酒を大量に用意した宴会のような有様だった。

「大軍を当てても魔性には勝てぬのが物語の常じゃ。麿が求めるのは絵物語に語られるような、ただ一人の英雄! それが見た~~いっ!」

 戦陣にありながら、コーチン太守はもりもりと葡萄を貪った。

 残った種は兵に持たせた皿に吐き出す。

 太守といっても従軍経験はなく、ただ中央政府の大臣の親戚というだけで太守に収まった男だ。

 絵に描いたような暗愚に、周囲の将校は眉をひそめた。

 だが、何も言えない。

 機嫌を損なって更迭された軍人と官僚は数知れず。

 失職を恐れて、今や太守に意見する者は誰もいなかった。

「あの乞食坊主を殺した者には金一万両を褒美にとらす! ……と、麿は言うたのじゃがの~?」

 コーチン太守は遠眼鏡から目を離して、大きく溜息を吐いた。

「はぁ~~っ……。何人も武芸者が挑んだそうじゃが……そいつら全員くたばって、未だにあやつはピンピンしとる! やる気あんのかい!」

 コーチン太守は急に癇癪を起して遠眼鏡を投げ捨てた。

 遠眼鏡が警護の兵士の兜に当たって、コンと跳ね返った。

「で、此度は麿がじきじきに観戦するわけじゃ。麿の御前で勝つ自信がある強者……顔を見せい!」

 コーチン太守がポン、と手を叩くや陣幕が開いた。

 幕内に現れたのは、黒い服をまとった老婆と、

 それとは対照的な、服も髪も肌も全てが白い異国の女だった。

 老婆の方には、コーチン太守も見覚えがあった。

「ほーう、我が藩お抱え魔術師のチャヤ婆か」

「おひさしゅうございます、太守様……」

 チャヤ婆は曲がった腰を更に曲げて深く頭を垂れた。

 もう一方の女も膝をつき、コーチン太守に頭を下げた。

「ウチは北方から参りました、パイ・フーと申します」

 パイ・フーは名前からしてガンダルヴァの人間ではなかった。

 言葉の訛り、顔立ちも肌の色も異国人のそれであり、なにより若く美しい風貌がコーチン太守の興味を惹いた。

「して、パイ・フーよ。そちは何が出来るのじゃ?」

 コーチン太守はチャヤ婆を差し置いてパイ・フーに訊ねた。

 露骨にチャヤ婆の機嫌が悪くなる。

 パイ・フーは横の老婆を一瞥すると、勝ち誇った表情で答えた。

「ウチの得意とするのは魔物の使役でございます」

「ハッ!」

 横のチャヤ婆が、わざとらしく鼻で笑った。

「魔物使いなぞ珍しくもないわえ! 我がコーチン藩では、古来より魔術師たちが魔物を飼い慣らしておるわ!」

「……と、言われましても、せいぜい魔狼や魔鷹くらいでしょう?」

「侮るな! 一つ目魔象もおるわ!」

 魔狼は集団攻撃、魔鷹は偵察、魔象は攻城戦などに用いる魔物である。

 どれも家畜化には向かず、野生体を捕獲して術を施して使役する。

 今も陣の外には、術布で封印を施された魔狼の群れが檻の中で待機していた。

 パイ・フーは、侮り笑った。

「ほほほほ……お可愛い動物園ですこと」

「なんじゃとォ!」

「おっと、太守様の御前で出過ぎた真似をしてしまいました」

 パイ・フーはチャヤ婆を煽るだけ煽ってから下がった。

 コーチン太守には、この二人の魔術師は道化のように見えていた。

「ははははは……女の喧嘩は良き余興じゃ。して、チャヤ婆よ。そちはいかにして、あの坊主を仕留めるのか」

「はっ!」

 チャヤ婆は再び腰を折り、コーチン太守を見上げた。

「まず魔狼をけしかけまする! あやつは剣術使いのようですが、それも所詮は人を斬るためのもの。狼の群れには通じませぬ!」

「フム、『まず』と言うたな? 失敗した場合の第二弾もあるとな?」

「ははあ! 第二に一つ目魔象で鉄球を蹴り込みまする! 細い剣では鉄球を断ち切るは不可能!」

「それも失敗したら?」

 太守の更なる問いに、チャヤ婆の濁った眼がカッと開いた。

「最後の手段がありまする! それは秘でございます!」

「秘? この麿にも言えぬとな?」

「はっ! このチャヤ婆の命懸けだと申しておきまする……!」

 コーチン太守は、チャヤ婆の気迫を心地よく思った。

 忠誠心のある部下だから、というワケではない。

 格闘家が試合の前に威勢の良いパフォーマンスを披露したのを見物した時と、同じような気分だった。

「ヨシ! では、存分に術を披露するが良いぞチャヤ婆!」

「はっ! そこな小娘の出番などありますまい!」

 チャヤ婆はパイ・フーに一瞥もくれず、遥か彼方のシューニャの方向に向き直り、その場に腰を落とした。

 目を瞑り、両手で印を結び、術を仕込んだ魔物に思念を送る。

「檻をあけぇぇぇぇぇぇぃっ!」

 チャヤ婆が、血を吐くような気合で叫んだ。

 陣の外で檻が開き、魔狼の群れが一斉に飛び出す。

 黒い疾風がぞろぞろと山肌を駆け下り、シューニャに向かって殺到していく。

 辺り一帯は草原地帯だ。隠れる場所はない。

 見晴らしは良く、コーチン太守は遠眼鏡で存分に観戦が出来た。

 ──が、

「あぁ~~ん?」

 コーチン藩主は遠眼鏡を覗きながら、あんぐりと口と開けた。

 魔狼の群れが──素通りしている。

 群れはシューニャをまるで岩でも避けるようにかわして、遥か彼方へと走り去っていく。

「おい~! どうなっとんじゃコレは!」

 コーチン太守が訊ねる足元のチャヤ婆は、脂汗を流して錯乱していた。

「みっ、見えぬ! 見えませぬ! あの坊主の姿が……見えませぬ!」

「魔狼は闇夜でも人の臭いを嗅ぎ当て、食い千切るのではなかったのか!」

「それが……見えぬのですぅぅぅぅぅっ!」

 魔狼と魔術で繋がったチャヤ婆は、完全にシューニャを見失っていた。

「ええい! 魔象じゃあ! 一つ目魔象を出せぇぇぇぇぇぇぇぇッッッ!」

 血管が切れるような勢いで、チャヤ婆が叫んだ。

 巨大な檻から、一つ目の魔象が雄叫びを上げて出撃した。

 一歩踏み出すごとに土煙が舞いあがり、地面が震える。

 更に兵たちが鉄球を魔象の前に押し出した。

「蹴りとばせぇぇぇぇぇぇッッッッ!」

 チャヤ婆の気勢が魔象に乗り移り、ゆったりとした動きで鉄球を蹴飛ばした。

 鉄の塊が宙に飛び、ごんと大地に落下して、山の斜面を転がり始めた。

 一球だけではない。

 二球、三球、四球、五球と、次々と蹴り出されていく鉄球! 大地をローラーで整地するかのごとく、逃げ場のない鉄球蹂躙面制圧!

 魔物がシューニャを関知できないのなら、鉄球で物理的に押し潰してしまえば良い!

 ──が、

「むほっ」

 観戦するコーチン太守は興奮の鼻息。

 シューニャは迫りくる鉄球を次々と飛び越え、まっすぐに進んでくる。

 第二作戦も失敗だが、太守にとっては悪くない展開だった。

「これはコレで面白きかな♪」

 楽しむ太守とは正反対に、チャヤ婆はブッッと鼻血を吹いた。

「がはァ……!」

「おいおい、大丈夫かチャヤ婆?」

 コーチン太守は老身を案ずる、のではなくチャヤ婆が苦しむ様をも楽しんでいた。

 安全な場所から傷一つ負わず他者の生死を傍観する。これぞ貴人にのみ許された至上の愉悦なりや。

「ん~? まだ戦えるかや~?」

「いっ……命駆けにございますぅぅぅぅぅぅぅッッッ!」

 チャヤ婆には退くという選択肢はない。

 太守の前で大見得を切った面子がある。異国の小娘の前で醜態を晒してたまるかという意地がある。数十年もの魔術師のキャリアを、わけの分からぬ人型の魔物一匹に虚仮にされてたまるかという……矜持がある!

「いざ、最終手だァァァァァァンンンンッッッ!」

 命駆けるという言葉の通り、チャヤ婆は目から血を噴出させた。

 死をかけた念を魔術にこめる。

「あの坊主の魔物に……我が念術をぶつけまする! あやつも魔物ならば頭の中を覗けるはず! 操れずとも精神を破壊してみせまする!」

 それは前代未聞、前人未到の術だった。

「はぁぁぁぁぁぁ……ッッッッ! お前の中を……見せろォォォォォ……ッッッ!」

 チャヤ婆は目を限界まで見開き、心眼にてシューニャを凝視する。

 遠く離れた二人の視線が交錯し、チャヤ婆の念がシューニャの中に侵入。

 複雑な神経の糸をたどり、脳の奥の奥まで心が入って──

「あうっっっ……」

 チャヤ婆は血泡を吹いた。

「こ、こいつ……いったいぃぃぃぃ……?」

 そして、そのまま地面に倒れた。

 コーチン太守は、足元のチャヤ婆を爪先で小突いた。

「おいおい、どうした。負けてしもうたか?」

 敗者の、それも小汚い血まみれの老婆に太守が触れるわけがない。介抱するでもなく、興味本位で声をかけるだけだ。

「あの坊主の中で、お前は何を見たのじゃ?」

「な、何十人、何百人もの……別々の人間の記憶が……混ざって、塊になってる……バケモノォ……!」

 その報告を最後に、チャヤ婆は事切れた。

「ふん、くたばってしもうたか。見苦しい。片づけよ」

 コーチン太守が手で合図をすると、兵たちがチャヤ婆を戸板に乗せて運んでいった。

 太守の興味は既に次の挑戦者に移っていた。

「さて、パイ・フーよ。お前はどんな術を見せてくれる?」

 出番の回ってきたパイ・フーは、嫣然と笑った。

 チャヤ婆の敗死を見てもなお、余裕の表情だった。

「先程申しました通り、ウチの術は魔物使いでございます」

「して、いかなる魔物か?」

「竜にございます」

 パイ・フーが、細指をパチリと鳴らした。

 すると、陣の後方から地響きがした。

 ズン……ズン……と、一定間隔で地面が震え、しだいに本陣に近づいてくる。

「ん~? 竜じゃとぉ~~?」

 コーチン太守が半信半疑で振り返るより早く、兵たちから悲鳴が上がった。

 陣幕に異形なる大きな影が落ちた。

 兵たちは影の正体を見上げ、腰を抜かして尻もちをつく。

 物見櫓ほどの大きさの竜が、二本脚の巨竜が、そこにいた。

 しかも、竜は全身に銀色の鎧を着こんでいる。明らかに人の手が入った魔物だった。

 さしものコーチン太守も、驚きと喜びの混じった歓声を上げた。

「ひょ~~っほほほほほ♪ まさしく竜じゃな♪」

 太守は竜の全身をくまなく観察した。

 直立二足歩行、剣山のように連なる背ビレ、銀色の装甲、長大な尾、大きな咢に、二本の腕……いや前足には力強い三本の爪が備わっている。

 コーチン太守は、竜の姿に北方の古い神話を幻視した。

 珊瑚のごとき背ビレと白磁の鱗を持ち、天地を焼き尽くすという羅刹の神竜王を。

「北方神話に語られる瑚磁羅主の神竜そのものじゃ! お前の国では、こんなものを飼っておるのか?」

「いえ、この竜は我が一族のみが使役できる稀なるもの。遥か太古に地上に君臨した恐るべき竜……その生き残りにございます」

 パイ・フーはしなやかに舞うように、竜へと念を送った。

 竜が──咆えた。

 天地を砕かんばかりの咆哮に、兵たちは耳を抑え、恐れ慄き、草木と陣幕がぶるぶると震えた。

「北方の帝国では、我が一族は妖しき者として迫害されました。我らは、この力を正しく評価してくださる王を求めて、このガンダルヴァの地にやって参りました」

「ほほう、つまり麿に売り込みに来たというワケか」

「ウチなら……太守様を退屈させんと思います」

 パイ・フーは妖艶な笑みを口元に浮かべた。

 異国の白き魔女は、ガンダルヴァの女とは別の魅力に溢れている。

 コーチン藩主は、パイ・フーの全てに夢中になっていた。

「よかろう! パイ・フーよ! そちがあの魔物を倒した暁には、金一万両に加えて我が藩の顧問魔術師として迎えよう! お前だけではない。一族まとめて召し抱えようぞ!」

「ありがたき幸せッ!」

 パイ・フーは満面の笑みで向き直った。

 己が正当に評価されることの歓喜。暗愚な太守を丸め込めた愉悦。これからの自分と一族の明るい未来を想像して、シューニャに向かって竜を操る。

「ゆけ! 地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥ! 我が一族の明日を、お前の雷で拓け!」

 竜の名は、異国の言葉で大地の雷の怒りを意味する。

 名の通り、地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥの背ビレに電光が奔った。余剰な体内電流を放電しているのだ。

 地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥは前項姿勢となり、凄まじい勢いで山を駆け下りていく。

 先程までの鈍重な動きが嘘のようだ。

 地面を削り、土砂を巻き上げ、恐ろしい咆哮を上げてシューニャへ襲い掛かる!

 パイ・フーが目視で直接操作しているからか、あるいはガンダルヴァの魔術とは系統が違うからか、地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥがシューニャを見失うことはなかった。

 その質量は巨象を遥かに超えている。それに疾走の加速が加わり、山をも砕く突進力に人体が抗う術はない。

 全身は銀色の鋼鉄装甲に覆われ、タジマ刀はおろか破城槌すらも跳ね返すだろう。

 正面からぶつかれば、シューニャは成す術なく踏み潰される。

 常人ならば直視すら出来ない、本能を破壊する恐怖そのものが突っ込んでくる!

 だが──シューニャには、人とは違う世界が見えていた。

 原始的巨大殺気は、虚ろな幻像のブロックの塊。

 天地に響き渡る咆哮は、強風のいななき。

 どれも恐るるには足りず。

 否、シューニャには恐怖という人間的な感情など存在しない。

 シューニャが感知する世界では、地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥという幻像に、青い糸が繋がっているように見えた。

 糸を辿れば、小山の上の青い炎が見えた。

 その炎の主が、この良く分からない動物を操っていると理解した。

「ただの傀儡使い……」

 小さな呟きと共に、シューニャは地を蹴って跳躍した。

 そのまま地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥの巨体に激突するところを、全身の力を抜いて──受け流した。

「固きものには、やわらにて相対す……」

 大きさは違っても、シューニャにとっては棒術や槍の石突を逸らすのと変わりはなかった。

 かつての自分“たち”が、そうしたように。

 地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥの装甲に手をつき、足をかけ、さらに跳躍。

 竜を操る、煩悩の糸と交錯した刹那──抜刀。

せつ……!」

 抜き、即、切断。

 人には見えぬ操り糸が、バッサリと断ち切られた。

 青い炎が火の粉と散り、操り糸を失った地雷之怒ティーレイ・チ・ヌゥは転倒した。

 何が起きたのか、山上のコーチン太守とパイ・フーは理解できなかった。

「なっ……? どうなっておる!」

「バカな……斬られた? ウチの念が……?」

 狼狽する二人だったが、兵たちの悲鳴で我に返った。

「うあああああ! こっちに来るぅぅぅぅぅぅぅ!」

 シューニャが本陣に向かってくるのだ。

 走るわけでもなく、一歩ずつ歩いて、じりじりと距離を詰めてくる。

 コーチン藩軍の兵たちはシューニャに敵わないことを知っている。ザキが流した情報と実際に目にした恐怖が合わさり、パニックに陥って逃走を開始した。

 状況が不利と悟ったパイ・フーの判断は早かった。

「やばっ……!」

 もはやコーチン太守に一瞥もくれず、本陣から飛び出して何処かへ走り去っていった。

「おい待てぇ! 待たんか~! 誰でもいい~~っ! 誰でもいいから麿も一緒に連れていかんかぁ~~っ!」

 コーチン太守も兵たちの後を追って、不様に退却した。

 その後もシューニャの歩みは止まらず、コーチン藩都をそのまま突き抜け、海に突き当たると反転。また内陸部へと去っていった。

 コーチン太守は歩く災厄になんの対策も取れず、通り過ぎるまで宮殿の屋根裏に隠れていた。

 醜態を晒した太守の権威は瞬く間に失墜。

 ザキに与する一団の扇動により、太守の専横に不満を抱く議員、過去に些細な発言で更迭された軍人たち、太守の放蕩に不満を募らせていた大衆が一斉に蜂起し、コーチン藩でクーデターが起きた。

 太守は追放され、以後のコーチン藩はザキのアワド藩軍への同調とザキの支持を表明。

 中央政府から離反した。


 ザキの率いるアワド藩軍が六倍の数のナグープル藩軍を寡兵で破った! という名声は情報工作でガンダルヴァ全土に瞬く間に広まり、行く先々で敵軍は戦わずして降伏、もしくは自ら進んでザキの側に寝返った。

「とても敵いませぬゆえ、無益な戦いはしとうありません」

「どうか、我々もザキ先生の軍に加えて頂きたく……」

 中央府から派遣された直轄軍だけは抵抗したが、士気も練度も共に低く、ザキの精鋭部隊に容易く打ち破られた。

 ザキがシューニャの習性を利用し、敵軍の側面や後方に誘導することで重圧をかけ、戦力を分散させる作戦も功を奏した。

「しかし……わしはシューニャを完全に御せるとは思っておらん。自然の全てを思い通りに出来るなぞ、ただの驕りでしかない」

 ザキは慢心せず、常に用心して、高速の騎馬隊を用いてシューニャを慎重に誘導していた。

 ガンダルヴァの藩は辺境ほど中央への忠誠心は薄く、連戦連勝を目にしてにザキに呼応する藩軍が相次いだ。

 かねてよりザキは中央に叛意を持つ辺境の藩に親書を送り、根回しを進めていた。

 コーチン藩のように反乱が起こり、中央政府側から転向する藩もあった。

 こうして、ザキの軍勢は短期間で総数10万を超す大軍に膨れ上がった。

 首都へ通じる街道に差し掛かる頃、ガンダルヴァ南方に位置するマイスール藩の部隊がザキの軍に合流した。

「我が太守の命により加勢する……が、一応は俺の独断ということになっておる。まあ政治とはそんなモンだ。ガハハハ!」

 マイスール藩軍の司令官、髭面のラヘシュ将軍は豪快に笑った。

 戦争の趨勢が決するまで、表向きはこのラヘシュ将軍の独断専行という形を取る。

 ザキが勝てばそれで良し。万一負けても、ラヘシュ将軍一人を切り捨てれば良い。

「しかし、ザキよ。お前は20年前から変わらんな? 全く老けとらん」

「お前はすっかりオッサンじゃのう、ラヘシュ」

 マイスール藩軍のラヘシュ将軍は、中央府にいた頃のザキと同期だった。

 確かに髭面で貫録のあるラヘシュ将軍と違って、ザキは若者のような身なりだった。

「わしはずっと隠者の生活をしておったからな。俗世と関わらず、酒も飲まんからロクに老けとらんのじゃろう」

「仙人気取りか? 羨ましい奴!」

「わしは貧乏人の上、独身じゃぞ? 隣の芝が青く見えとるだけじゃ」

 ザキは冗談交じりに、同期との再会と社交辞令の会話を済ませた。

「ザキ先生、ご報告が……」

 先行させていた斥候が帰ってきた。

 報告によれば、この先の街道と平原一帯に魔力地雷が敷設されているという。

「フム、愚鈍な中央の連中にしては思い切ったことをするのう」

 ザキは表情を変えずに地図と向き合った。

「ま、中央にもマシな人材はおるということじゃ」

 斥候が確認した敷設地点だけでも三百個を超えており、このまま軍団を通過させるのは不可能だった。

「こんなモノをいちいち除去していては一ヶ月はかかるのう。迂回するにしても山岳部をぐるりと回らなければならん。今のわが軍の大部隊を移動させるには時間がかかり過ぎる」

「軍が大きくなれば、それに比例して糧食や水が必要になります。時間をかければ士気と規律にも影響が……」

 サハジ副官は輜重隊の荷馬車に目をやった。

 物資の輸送は牛馬に頼ることから、これらの餌も必要となる。険しい山岳部の移動は悪手が過ぎる。それが敵の狙いというわけだ。

「ま、これも予想の内じゃて」

 ザキは事前に対策を用意していた。

 何体かの荷馬車には、未加工の魔消石が積まれていた。

「わしはコレを投石器でブン投げて、魔力地雷を誘爆させるつもりじゃ。放出された魔力は空っぽの魔消石に吸い込まれ、地雷原には穴が空く──が」

 ザキはサハジ副官に振り返った。

「おぬしなら、どうする?」

「えっ?」

 不意に難題をふっかけられて、サハジ副官は「うーん」と腕を組んで考えた。

「……マイスール藩軍」

 サハジ副官がぼそり、と呟いた。

「マイスール藩軍はヒカソウ部隊を持っています。ヒカソウに紐で魔消石を括り付ければ、投石機より遠くに飛ばせます」

「ウム。良き兵法じゃ」

 ヒカソウとは、北方の大国からもたらされた火薬式の飛翔武器のことだ。音と見た目が派手だが、弓矢や投石器より射程が長い。

「それと、このような者がおります」

 サハジ副官が手を上げると、一人の女が兵に連れられてやってきた。

 長い黒髪、黒い衣をまとった、異国の女だった。

 気だるげ、というより眠たそうな顔をしているが、単にそういう顔の作りなのだろう。

「わたくし~、ヘイ・シーグイと申します~」

 ヘイ・シーグイと名乗った女は膝をつき、うやうやしくザキに頭を下げた。

 語尾が伸びる妙な訛りは、外国人ゆえだろうか。

 この見慣れぬ女について、サハジ副官が説明を始めた。

「この者、我が軍に仕官を求めて参りました。北方より絹の砂漠を越えてきたと申す者。怪しげゆえ、とりあえずは留め置きましたが……」

「使えそうか?」

 ザキがヘイ・シーグイとサハジ副官を交互に見やる。

 敵方の間者の可能性もあるが、敢えてサハジ副官が処刑も拘束もせずに保留としたのには、相応の理由があるはずだ。

 サハジ副官は自信ありげに、ニタリと笑った。

「この者、魔物使いでございます」

「ほう? して、いかなる魔物じゃ? ヘイとやら?」

 ザキに話を振られて、ヘイ・シーグイが顔を上げた。

「はい~、わたくしの魔物とは~、羅刹亀ルオ・シャーグィという、おっきなおきっな亀でして~」

「カメェ~~?」

「はい~。動きはゆっくりですけど~~、とってもとっても頑丈なんです~~」

 亀、と言われてもザキは平和的な動物しか思い浮かばない。

 砂場をのそのそと動き回るリクガメや、水場で甲羅干しをする小さな亀の群れを連想した。

 ヘイ・シーグィのゆったりとした喋り方も、なんとなく亀のイメージが重なって見える。

「で、どんな亀なのじゃ。見せてみよ」

「はい、では~~。おーーーい、ルオしゃ~~ん!」

 まるでペットでも呼ぶように、戦場の緊張が一気に脱力する声だった。

 だが、一向に件の亀は現れない。

 どこか遠くから地鳴りが聞こえるだけだ。

「なんじゃ、来ないではないか」

「はい~~、なにせ亀さんですから~~」

 ヘイ・シーグィが言い訳をする間も、地鳴りが断続的に聞こえてくる。

 もしや──と思い、ザキは荷馬車の向こう側を見やった。

 地平線の向こうから、小山がゆっくりと近づいてくる。

 目を凝らすと、それが巨大な亀の魔物だと分かった。

「ほう、アレかぁ~~!」

「はぃ~~、アレですぅ~~」

 ザキは納得と共に、ヘイ・シーグイへの警戒を解いた。

 あんなノロマな魔物では戦闘には使えない。会戦への投入はおろか、ザキの暗殺など到底不可能だ。

 ヘイ・シーグイは、申し訳なさそうに頭を下げた。

「こんな感じなので~~、北方では仕事がなかったんです~~。なんでもいたしますから~~、どうかザキ先生の軍で~~、私とあの子を雇ってくださいませ~~」

 言っている内容といい、懇願する様子といい、あのノロマな魔物を見れば嘘とは思えない。

 それすらも演技という可能性もあるが──

「して、サハジよ。お前はアレとコレに使い道があると?」

 ザキの含んだ物言い。

 サハジは師の言わんとする全てを理解して頷いた。

「はい。戦とは、正面切って戦う兵士だけでは成立しませぬ。この者は土木作業……すなわち工兵として雇用できると思っております」

「よかろう。全て、お前に任す」

 サハジ副官の答は満足のいくものだった。

 ザキはサハジ副官の判断力と将器を鍛錬するために、敢えて作戦を一任したのだった。

 ヘイ・シーグイなる者についても、実際の行動で身の証を立てよ、と採用を決定した。

 すぐさま、サハジ副官の指導でマイスール藩軍のヒカソウ部隊が射撃準備にかかった。

「攻城用ヒカソウの尾の部分に縄で魔消石を括り付けるのです! そう、何個も! 葡萄のように!しからば石は尾のように地雷に次々と接触する。名付けてコレ、導爆索と云う!」

 サハジ副官は張り切っていた。

 暫くして、導爆索の試作品が完成した。

 巨大な発射機に、安定翼のついた長さ5米もの攻城用のヒカソウが備え付けられ、長い導火線が後方まで伸びていた。

 マイスール藩軍のラヘシュ将軍みずから、新兵器試射の指揮を執った。

「発火、はじめーーーっ!」

 ラヘシュ将軍の声と共に、兵が松明で導火線に点火。

 火が推進用の火薬に達するや、ヒカソウが尾から火花を吹いた。

 激しい火花を散らし、鳥の鳴き声に似た大きな音を鳴らしながら、ヒカソウは空中へと飛翔。

 尾部についた導爆索が地表に断続的に接触し、その度に地中に敷設された魔力地雷が発火した。

 魔力地雷に封じ込められた雷がピカッと一瞬だけ閃光を放ち、魔消石に全てのエネルギーを吸収されて消えていく。そんな点滅が何十回と続いて、ヒカソウは地面に墜落した。

「お? 成功……したのか?」

 ラヘシュ将軍は、要領を得ずに首を傾げた。

 こんな支援兵器は史上初めてなのだ。手応えを感じないのも無理はない。

「ご心配なく。大成功ですよ、ラヘシュ将軍」

 サハジ副官は満足げな顔で遠眼鏡を覗いた。

 遠眼鏡の先には、魔力を吸収して赤熱化した魔消石が転がっていた。

 それから導爆索は現地で直ちに量産配備された。

 ヘイ・シーグイの羅刹亀ルオ・シャーグィなる大亀の魔物には、長い鉄棒の先に棍棒をローラーのように取りつけた器具が装備された。

 見慣れぬ器具に、ヘイ・シーグィは首を傾げた。

「なんですか、これ~~?」

「地雷除去用の即席装備だ。あの亀の長所を活かす。歩かせてみせよ」

 サハジ副官の命令で、羅刹亀ルオ・シャーグィは地雷原の中を歩き始めた。

 導爆索で除去し切れなかった魔力地雷がローラーに接触し、雷鳴と共に爆散。

 しかし雷と爆風はローラーによって地中に押し込められ、地味な破裂音を上げただけに留まった。

 多少の破片と雷火が飛び散ったが、羅刹亀ルオ・シャーグィの厚い皮膚と甲羅に阻まれた。

「わぁ~~、すごい……。あの子が、ちゃあんと、お役に立ってる……!」

 ヘイ・シーグィは感激の涙を流していた。

 自分と相棒が、こうして正当に評価されるのは初めての経験だったのだろう。

 こうして進路上の地雷原は一日で除去され──

 翌朝に、ガンダルヴァ中央府への進軍が再開された。

 魔力地雷が最後の抵抗だったのか、もはや妨害らしい妨害はなかった。

 文字通り無人の野を走破したザキの軍勢は、二日後に中央府の首都を包囲した。

 かつての大藩都だった中央府は、長大で分厚い城壁に囲まれた、難攻不落の大都市だった。

 当初、中央政府軍は籠城の構えを見せたが──

「議事堂にヒカソウを二、三発撃ち込んでやれ」

 とザキの命令に従い、実際にヒカソウを発射。

 内部の工作員から着弾確認の狼煙が上がった三時間後──辺りが暗くなった頃に、議会は停戦交渉の使者を送ってきた。

「ザキ殿に中央議会からの書簡をお届けに参りました!」

 ザキは本陣で使者を出迎え、相手方の停戦条件の文書を開いた。

「フーーン……」

 ザキはひどく呆れた顔で文書を端から端まで読んで、横のサハジ副官に渡した。

 サハジ副官が文書に目を通すと──

「ええと……各藩への税の三年間の減免。ザキ殿を中央政府軍長官として迎え、軍の五年間の首都駐留を認める。引き換えに中央議会議員の責任は不問とし、財産と議員資格の保証を……」

 確かに呆れ果てた内容であり、サハジ副官は途中で読むのを辞めた。

 ザキは怒りもせず、ただ残念そうな顔をして

「返答は明日までお待ち頂きたい。どうぞ、お帰りはあちら」

「はっ! 良き返答をお待ちしております!」

 使者を早々に帰した。

「アレが使者とはのう……」

 ザキは大いに呆れていた。

「わしの顔色一つ気にせず、食い下がることもせなんだ。ただ上から言われた通りに手紙を届けただけ。郵便の飛脚か何か、アレは?」

 中央政府と軍の質の低下を如実に表している。

「あの分だと書簡の内容も知らないのでしょう。交渉すらしないというのは……ちょっと驚きですねえ」

 サハジ副官は商人の出だ。商談、交渉に関しては下手な軍人、政治家よりも場数を踏んでいる。

「自分たちの要求をそのまま相手が飲んでくれると思っている。我々を対等に見ていない証拠ですよ。自分たちは貴人だから、平民出身のザキ先生は頭を下げて当然。我々の末席に加えてやるのだから、ありがたく思えと……」

「まったくもって論外じゃな」

 ザキは右手を振って、松明の方向に向けた。

 サハジ副官はすぐに意図を察して、中央議会からの文書を焼き捨てた。

 とっくに答など決まっている。

「ま、明日まで待てと言ったのは……わしなりの時間稼ぎじゃな」

 中央府を無血開城して陥落させるための。

「実はわしも相手方に手紙を送っておる。中央政府軍のクリシュナ将軍にじゃ」

 クリシュナ将軍といえば、敵軍の実質的な最高司令官だ。

 サハジ副官も良く知っている。

「クリシュナ将軍といえば、300年前から代々遣える名門軍人の家系ではないですか。説得できるのですか?」

「肩書きだけ見れば確かに忠義と家柄でガチガチの武人じゃろうな? 確かに、あの将軍は今どき珍しい武辺者じゃ。昔、あの方が議会守備隊の総隊長だった頃、下っ端で働いていたからよう分かる。ま、話したことはないが……」

「では、どうやって説き伏せるのです?」

「あの方は……家柄という呪いにかかっておる。だから、こんな腐れた中央政府の将軍などやっておるのじゃ。背負うものが大きければ、足元を小突くだけで倒れる」

 翌日早暁、ザキは回答を出すべく軍勢を率いて本陣を出た。

 城門前には、中央政府軍が陣取っていた。

「ふーん……?」

 ザキは遠眼鏡で、一里ほど離れた中央政府軍を眺めた。

 戦闘の布陣ではない。

 その証拠に、クリシュナ将軍が先頭にいる。

 いかにも剛健な精鋭の騎兵部隊の中央にいる、豪奢な金色の鎧を着た立派な髭の軍人がクリシュナ将軍だ。

「あの方も老けたのう……」

 ザキは遠眼鏡でクリシュナ将軍の顔を見て嘆息した。

 前に顔を拝んだのは二十年も前のことだ。今のクリシュナ将軍は五十歳半ばを越している。

 髭にも白髪が混じり、顔には年輪のような皺が深々と刻まれていた。

「老いとは……人を弱気にするものじゃ」

「はい?」

 横のサハジ副官が首を傾げた。

 サハジ副官はまだ二十代の青年だ。分からないのも仕方がない。

「お主もいずれ分かる」

「はあ……?」

 当惑するサハジ副官のことは置いて、ザキは右手を上げて合図を出した。

「白旗!」

 戦いの意思はないことを示すために、白旗が掲げられた。

 それに応じて、クリシュナ将軍の部隊からも白旗が上がった。

 ザキとクリシュナ将軍の双方が、少数の護衛と共に歩み寄る。

 ある程度の距離で、ザキは馬を降りた。

 手には回答文書を収めた書簡が握られていた。

 クリシュナ将軍もまた、馬を降りた。

 護衛の兵たちが付き従おうとするも、将軍に手で制止された。

 不要である、と。

 両軍の大将が直に会するという歴史的な光景に、双方の兵たちは静まり返った。

 朝の空気が、緊張に張り詰める。

 もしザキのクリシュナ将軍への懐柔工作が失敗していれば、乱戦の火蓋が切って落とされる。

 ここに至らば勝ちは揺るがないだろうが、相手は精鋭。無駄な血が流れるのは避けられない。

「ザキ先生……どうか!」

 サハジ副官は、成功を神と師に祈った。

 そして……ザキはクリシュナ将軍と再会した。

「お久しぶりです、クリシュナ将軍。といっても、一兵卒のことなど憶えていませんかな?」

 ザキは戦場の緊張を解すように微笑みを浮かべた。

 それに合わせて、クリシュナ将軍の表情も綻んだ。

「議会守備隊に半年で辞めた士官がいたと聞いたことはある。それが君だったとはな」

「議員どもの尻拭いの暴動鎮圧はウンザリでしたので」

「人として……正しい選択だな。羨ましい限りだ」

「しかし兵としては落伍者です。それが巡り巡って、こんな形で帰ってまいりました」

 ザキは書簡を開けると、かつての上官と同じ高さの目線で回答文書を差し出した。

 クリシュナ将軍は、無言で文書に目を通した。

 暫しの沈黙。

 両軍が固唾を飲んで見守る中……将軍の右手が上がった。

「開門せよ!」

 兵たちには僅かな動揺もなかった。

 全てがクリシュナ将軍の子飼いの部隊である。命令を忠実に実行し、首都の城門がするすると上がっていく。

 クリシュナ将軍は馬に乗り、高々と剣を掲げた。

「これより、我が軍はザキ殿に合流し! 腐敗した議会を制圧する! 義は我らにあり!」

 クリシュナ将軍が叫ぶと、部隊もそれに呼応して雄叫びを上げた。

「オオオーーーーッ!」

 将軍が寝返ることは、兵たちも内心察していたのだろう。

 そのままザキの軍勢と共に城壁内部へと雪崩れ込んでいく。

 兵たちの流れの中で、乗馬したザキの横にサハジ副官が馬をつけてきた。

「先生!いったい、どうやってクリシュナ将軍を説得したのですか?」

「なあに、簡単なことじゃ。戦争の後も身分と財産と家族の命を保障してやったのじゃ」

「えっ、それじゃ議会の連中と同じでは……」

「我が弟子よ、憶えておくと良い。俗世に浸かるほど人は呪縛に執らわれる。名を欲し、富を欲し、子孫を欲する者ほど現世利益には抗えぬ。そんな人間に自由など存在せぬ。煩悩の炎の中で踊る、哀れな人形に過ぎぬのじゃと」

 ザキは……クリシュナ将軍の心の弱さを切り崩したのだ。

 いかな武辺者とはいえ、先祖代々積み重ねた全てを失う恐怖には勝てなかったのだ。

「それにな……人は歳を取ると弱くなるのじゃよ」

「体が……ですか?」

「体が弱り、心も弱る。自分の人生が有限であることを知り、今まで自分が何をやれたか、何を残せるか……そう思うと不安になるのじゃよ。どんな英雄でも暴君でも……業からは逃げられん!」

 ザキは吐き捨てるように言って、馬を走らせた。

 サハジ副官は慌ててザキを追い、馬を横につけた。

「ザキ先生も弱気になるんですか?」

「わしは違う!」

「どうして?」

「守るものが……ないからじゃ!」

 ザキは眉間に皺を寄せていた。

 怒りのようであり、悲しみのようであり、ただ戦いの前に昂っているようにも見えた。

 師の言葉にどんな意味と感情が込められていたのか、この時のサハジ副官には分からなかった。


 首都を守る最終戦力に裏切られた議会に抵抗する力は残されていなかった。

 数時間後には、ザキの軍は議事堂を制圧。

 しかし、既に主要議員たちの姿はなかった。

「それで良い。手筈通りに、な」

 ザキは冷たい表情で手を振って、指示を出した。

 敢えて首都の包囲に隙間を作り、そこを議員たちの脱出ルートに選ばせたのだ。

 財産を持ち出す時間もなく、ほとんど身一つで逃げ出した議員らと、その家族が平原を越えて岩山に入ったとき、ザキが事前に配置していた伏兵の部隊に包囲された。

 中央政府から過酷な徴税を受けていた藩軍や、政府の失策で職を失った者、貴族ずれ議員の親族に家族を殺された者、そういった深い恨みを持つ者ばかりで編成された部隊だった。

 罠にはまった議員と僅かな手勢は全方位から徹底的な集中攻撃を受け、壊滅。

 ザキの作戦通り、ごく僅かな議員だけを捕虜とした。

「ま、戦後処理の手間を省いたというワケじゃ」

 制圧した政府軍の指揮所で、ザキは作戦完了の報告を受けた。

 その司令官として冷徹な一面に、サハジ副官は恐怖した。

「降伏も許さず……ですか」

「連中が今までやってきたことの因果応報じゃの。それに、この状況でわしらに投降せずにコッソリ逃げ出すような連中じゃ。真っ黒くろで、マトモに裁判してたら何年も拘留するハメになる。それこそ無駄というものじゃ」

 実際、貴族化した中央議員らの門閥の処分は裁判だけでも膨大な時間がかかる。

 まともに裁判をするとして、拘留、告発するための犯罪の捜査、証拠集め、弁護人の手配から始まり、全ての裁判が終わるまでに一体何年かかるだろうか。

 民衆に政府の腐敗を示し、怒りの熱を保ったまま新政府を打ち立てるなら、分かり易い悪は早々に処刑するにこしたことはない。

 時間をかければ民衆の怒りも関心も薄れ、裁判自体が政治的意味を失う。

 中央府占領後の戦後処理も、ザキの指示通りに進んだ。

 貴族化していた議員たちの生き残りには、表向き温情をかけて流刑とした。

 だが島流しの行先は、中央府に特に搾取されていた僻地の藩だった。

「財産は全て没収。身一つでの島流し。だが行く先の住民は全て中央議員らに怨みを持っておる。ま……どんな結果になるかは自明じゃの」

 公にはザキの寛大な処置が宣伝され、実情は現地民に処刑を任せるという、残酷な采配だった。

 ザキの執務室で事務補佐を行っていたサハジ副官は表情を曇らせた。

「先生……何もここまですることは!」

「我が弟子よ、心せよ。綺麗ごとだけで仕置はできぬ。根切りにせねば、連中はいつか再び国を蝕む。家柄を盾に被害者面をして同情を集め、また議員になるかも知れぬ」

「可能性の問題では……ないですか!」

「その可能性を摘み、国家を安泰に導くのがまつりごとである。慈愛だけで国は統治できぬ。病の源は小さい内に、迅速に切り取るのじゃ」

 ザキが酷薄な面をも露わにするのは、己の全てを教授したいという、弟子を思ってのことでもあった。

「サハジよ……。人間はな、家柄という分かり易い権威に弱いのじゃ。大衆は家柄に投票し、商人は家柄を信用の根拠として投資する。それを100年以上も続けた結果……ガンダルヴァ中央政府は腐敗した」

「人物や実績ではなく、家柄という情報を信じた結果が腐敗……。だから貴族化した議員たちを根切りにして、家柄を断った。先生はそう仰りたいのですか?」

「我がガンダルヴァの民に共和制は……早すぎたのかも知れんな」

 サハジ副官は、納得し切れない感情を押し殺して黙り込んだ。

 ザキは、彼が何を考えているかは察しがつく。

 ガンダルヴァ人の精神が幼いというなら、政府が変わったところで急成長するわけでもない。

 いずれ同じことの繰り返しになる。つまりザキがやったのは、新政府の足場を固めるだけの生贄の儀式で、根本的には無意味な殺戮ということになる。

 では、どうすれば良いのか?

 ザキとサハジ副官が議論して、なにかしらの答に到達できたとしても……それを無学なガンダルヴァの民に理解させる術などあるのか。

 ガンダルヴァ人の半数は学校に行ったこともなければ、未だ文字すら読めないというのに。

(だから……戦などやりたくないのだ)

 ザキは辟易していた。

 戦えば戦うほど、人間同士の不理解と不寛容を思い知り、厭世の感は強まるばかりだった。

 国を統治する勝者としての責任は……今後二年間、ザキを中央府に縛りつけることになる。


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