若者よ大海に溺れるなかれ
クリシュナ将軍との密談から暫くして、ザキは病気療養を理由に長期休暇を取った。
その間の司令代行としてサハジ副官を指名し、議会にも承認された。
サハジ副官は、就任の挨拶としてクリシュナ将軍の屋敷を訪れた。
形式的な挨拶と、ザキから引き継いだ陰謀の打ち合わせを終えると、サハジ副官は屋敷内の塔に足を向けた。
塔の入り口の番兵には顔が効く。
クリシュナ将軍の許しを得て、もう何度も来ているからだ。
この塔は元々は見張り用だったが、長い年月の内に使用目的も移り変わり、その都度に改築され、今は風景を眺める展望用に落ち着いている。
クリシュナ将軍の前の代では諸藩から招いた客をここでもてなし、高みから下界を見下ろす悪趣味な宴会を催したそうだ。
一応の居住空間としては整っているので、貴人の幽閉には最適だった。
「失礼いたします」
サハジ副官は塔の最上階の扉の前で、部屋の中に声をかけた。
心なしか、声に淡い期待が込められていた。
「どうぞ、お入りになって」
室内から、更に浮ついた女の声が返ってきた。
このやり取りも何度目だろうか。
サハジ副官は勢い良く扉を開けて、跳ねるような足取りで部屋に入った。
扉を開けた瞬間、甘い花の香りが溢れ出す。
室内は幽閉という薄暗い言葉が似つかわしくない、明るく、清潔な内装だ。
幽閉されている貴人もまた、輝くほどに美しい女性だった。
「もうっ! 懲りずにまた来たんですのね、ザキの飼い犬っ♪」
クリシュナ将軍の息女、アビシャだった。
アビシャは貶しているのか冗談なのか、嬉しそうな妙な言葉でサハジ副官を出迎えた。
彼女はザキの暗殺未遂と陰謀の一端を盗聴した件で、父であるクリシュナ将軍によって幽閉される身となった。
その後、サハジ副官は説得も兼ねて暇を見ては訪れ、アビシャとの対話を重ねた。
当初は敵意を剥き出しにして、ザキとサハジ副官を口汚く罵るばかりのアビシャだったが──
「サハジっ! サハジサハジサハジっ! あなたって、本ッ当に冴えない男ね! これだから平民ってイヤ! わたくしに会いにくるんだから、もっとキラキラした服を着てきなさいよ♪」
アビシャはサハジ副官に抱きついて、くねくねと体を擦りつけた。
それは、人懐っこい犬が大好きな人間にじゃれつく姿に似ていた。
今やアビシャのサハジ副官に対する敵意は軟化どころか好意に反転し、この有様だった。
対するサハジ副官も、アビシャへの感情は同様にひっくり返っていた。
「私は表向き、お父上に会いにきてるんですから。そんな派手な服を着て来たら奇異の目で見られてしまいますよ」
「じゃあ、わたくしの部屋に来る前に着替えてきなさいっ!」
「あなたと会うのに……自分を偽ろうとは思いません」
サハジ副官の口調は優しい。
アビシャの好意に応えて、柔肌をそっと抱きしめた。
当初は──アビシャを説き伏せるのが目的だった。
しかし、こういう場合は小賢しく謀略を用いるより、まず真心を以て相対すべきだ──とザキに教えられている。
嘘偽りを以て人心を弄ぶ者は業を積み重ね、いずれ破滅するのが歴史の常である。
なので、サハジ副官は言葉を選びつつも本音でアビシャに接した。
そうして何度も何度も対話を繰り返した結果──今では彼女の愚かしさも軽薄さも含めて、愛おしく思っていた。
今日もまた、口づけを交わす。
アビシャの柔らかい唇が触れ、甘い吐息が体内に吹き込まれる。
これで何度目の口づけなのか、もう忘れてしまった。
「んっ……好き、好きっ! サハジ……すきぃ……」
「私も……アビシャ殿のことが……」
素直に好意を吐露しようとして、サハジ副官は声に詰まった。
女に溺れる自分の有様をザキに見られたら──と想像してしまった。
叱られるだろうか、呆れられるだろうか、それとも「まあ、それも良いじゃろう」と納得してもらえるだろうか、と。
気がつけば、腕の中のアビシャが見上げていた。
「なんですの? ちゃんと言ってくださいっ!」
「ああ、はい。言います、言いますよ」
「口で言わなければ気持ちは伝わらないんです! 兵法に通じていると言う割に、こういうことは……」
「仰る通りです。愛しています、アビシャ殿……」
愛を伝えて、また口づけを交わす。
軽い口喧嘩をするほど気持ちが昂るのが男と女だと、サハジ副官はアビシャを通じて学んだ。
ザキが兵法の師なら、アビシャは恋愛の師だ。
かつては軽蔑していた彼女に対して、今では深い愛情と尊敬を抱いていた。
今やアビシャとは無垢なる愛情で通じ合っているのだが──
「ねぇ、サハジぃ……。ザキのこと殺してくださいません?」
遠慮なく、こんなことをおねだりしてくるようになった。
「あいつを殺してぇ……サハジが地位を奪うの! それで私と結婚すれば、何もかも幸せ!」
「ははは……それは無理です」
無論、断固として拒否である。冗談でも拒否である。
アビシャはサハジ副官とは相思相愛だが、依然としてザキのことは蛇蝎のごとく嫌っている。
愛を燃え上がらせる悪女の演技なのか、はたまた本心なのか、アビシャは悪戯っぽく笑った。
「もうっ! じゃあ、もっと、もーーっとサハジをわたくしの虜にして、籠絡して……わたくしの言いなりにしてあげますわ!」
「ははは……私はもうとっくに、アビシャ殿の虜ですよ」
サハジ副官は、アビシャに対して嘘は言わない。
女に溺れているのではなく、泳いでいるつもりだった。
この温かく心地良い、女という海を。
油断すれば足を掴まれ、深みに飲まれかねない……女という海を。
暫しの逢瀬を楽しみ、泳ぎ疲れ……つかの間の別れの時が訪れた。
「少し遠くに参りますので……暫くはお会いできません」
サハジ副官は、遠回しに遠征を仄めかした。
嘘は言っていない。だが真実をありのまま口にすることは出来ない。
万一、アビシャがここを抜け出して、再び気の迷いを起こさない保障はないのだ。
アビシャはそれとなく察して、寂しげに目を伏せた。
「わたくし……今でも全てに納得したわけではありません。でも、あなたの武運を祈る気持ちは……真実ですわ」
アビシャは手を組んで神に祈った。
その姿に、サハジ副官は神話の女神を見た。
「美しい……」
サハジ副官は聞こえないほどの小さな呟きと、溜息をこぼした。
愛しいアビシャのためにも、戦いに勝利したい。彼女に相応しい男になって帰ってきたいという……執着が生じてしまった。
だが、同時に師の言葉を思い出した。
──守る者を持った人間は弱くなる。
家族を愛したゆえに降伏を選んだクリシュナ将軍のように。
サハジ副官は己の中の愛を押し殺した。
感情を気取られないように頭を下げ、アビシャに一礼して退室した。
塔の階段を降りながら、サハジ副官は自分に言い聞かせるように呟いた。
「ザキ先生の代理として軍を率いる……その覚悟、我が身を以て示さねばなりません」
この瞬間からサハジ副官は、万の兵たちの生死を背負い、戦に臨む将の顔立ちに成った。




