将は迷い鳥に運命を悟る
ガンダルヴァ中央府に新政府が樹立して、一年が経った。
腐敗した旧政府が打倒されたとはいえ、前政権に与していた藩は少なくない。
それらの藩の太守は大半が旧政府議員の親戚筋であり、降伏しても裁判は免れないので、徹底抗戦の構えを取っている。
ガンダルヴァ国内を完全に平定するまでは戦時体制であり、選挙は延期された状態にある。
ザキは臨時政府軍の司令長官に据えられたが、実態は政権のトップも同然だった。
旧体制から寝返った議員や太守を抑えつつ、政権運営の右も左も分からない商人組合との折衝を行えるのは、強い軍権と太い人脈を持つザキしかいなかったのだ。
自分たちの権益を広げようとする太守たちと、下卑た商人癖の抜けきらない閣僚たちを牽制し、それでいて敵愾心を煽らずに穏便に話し合いを調停するのは──凄まじいストレスだった。
「いっそのこと、ザキ先生が王になってしまわれては?」
何かある度にサハジ副官が冗談めかして、そんなことを言うと
「はぁ~~……それは軍事独裁と言うのじゃよ」
ザキは深く深く溜息を吐くのだった。
「人は根本的に俗物なのだ。それが気にくわないからと全員の首を刎ねて言うことを聞かせる……それは短絡的なのだ。知恵ある人の行いではない。」
中央府庁舎内にあるザキの執務室には、乱雑に無数の本や資料が重なっていた。
サハジ副官は新しく持ってきた資料を適当な床に置くと、ザキの講義めいた説教に反論した。
「私には、太守たちに知恵があるとは思えません。ガンダルヴァ人の悪しき部分の象徴ですよ、彼らは」
「だからといって『強き者に従え』と獣の論理で彼奴らを制しても、それは時代を巻き戻すことじゃ。わしに愚痴るか、心の中で思うだけにしとくんじゃな」
ザキは椅子の背もたれに体重をかけた。
高価な椅子の厚い革が、ギュム……と音を立ててザキの疲労した筋肉を受け止めた。
そして、机に上にあった一冊の古びた本を開いた。
「必要以上に欲し、他者に怒り、無知の知すら分からぬ愚かしさを三毒という。これを説き、人に良き道を示したのは……五百年前に異界より、最初にこの地に落ちてきたシャーキャという聖人だと伝えられておる」
ザキの開いた本には、蛇、鳥、豚が互いの尾を噛んで円環を成す三毒の図が描かれていた。
「この本はシャーキャの説法や思想をまとめたものじゃ」
「煩悩を制し、涅槃に至る……というのは、タジマ様の思想にも通じますね」
「うむ。異界から落ちてきた者たちは、どこか共通した思想を持っておる。中でもシャーキャの説法が最もシンプルで分かり易い。恐らく、思想の源流に近い御人だったのじゃろうな」
「そのシャーキャという方は、どうなったのですか?」
「世を厭うてメール山に入って、二度と下りてこなかったそうじゃ。まあ、当時のガンダルヴァ人の性質は三毒そのものじゃったからな。分からん話でもない」
シャーキャなる聖人に多大な共感を覚えつつ、ザキは思う。
案外、彼は生前に煩悩に満ちた世界を救済したことがあって、死後にまた地獄のようなガンダルヴァに来てしまい、うんざりして俗世を去ったのではないか──と。
「ま、二度も腐れた世界を救うなんて冗談じゃないからのう」
「はい?」
「いや、なんでもない」
ザキは適当にサハジ副官を誤魔化して、本を閉じた。
「サハジよ、お前はガンダルヴァの現状に憤っているな」
今更な指摘だ。
憤ったからこそ、サハジ副官はザキに弟子入りし、兵法を学び、反乱に参加したのだ。
しかし、その憤りは旧政府を打倒しても収まらない。
サハジ副官は、複雑な面持ちで目を逸らした。
「ガンダルヴァ人は……無知で欲深い愚かな人間です。戦いに勝っても、また新たな俗物が世を支配するだけではないですか」
「お前が怒るのは……希望を抱いておるからじゃの」
「希望?」
「自分の人生に、世界に、未来に希望を抱いておる。本当に絶望した人間は、お前のような顔はしない。全てを諦め、全てを呪い、怨嗟を篭めて冷ややかに笑うだけじゃ」
ザキは口角を僅かに上げて、凍りついた笑みを浮かべた。
「わしのように……な」
それを見て、サハジ副官は背筋に悪寒を覚えた。
師の笑みの薄皮の下に隠れた、世界と人間に対する果てしない憎悪と失望、そして諦観を覗いてしまった……そんな気がした。
「先生……?」
「ぶっちゃけた話な、わしは心の底では世界の全てを憎んでおる。わしは若い頃にクソ議員の下で働くのがイヤになって中央の軍を辞めた。田舎に帰ってからは惨めなモンじゃよ。『期待ハズレだった』と父にも妹にも好き勝手に罵られた。地元の連中からも見下されて、職にも就けず結婚もパァになった。わしを否定した世界なぞ……好きになるワケなかろうが! それで何もかもにウンザリして……隠者になった」
「でも……我々に兵法を教えてくれたではないですか!」
「お前らがあまりにも素人だったからのう。それで世話してやったが……ちょっと盗賊をブッ殺しただけで掌を水車みたいにクルクルクルクル回転させる商人どもには反吐が出たわ」
吐き捨てるように言って、ザキは引き出しから何枚もの手紙を出した。
半分は封が切られ、半分は未開封だった。
「地元の連中、知らん親戚、顔も忘れたガキの頃の友達、二十年前に婚約していた幼馴染、親父と妹、その他諸々からの手紙じゃ。『お前ならやると思ってた』云々の前置き『あの頃のお前は~』どうこうのしょーもない思い出話、それから本題の『金貸してくれ』『うちに仕事を回してくれ』どうのこうのと……。わしが出世した途端にコレだ! 胸糞悪いわっ!」
手紙の半数が未開封なのは、どうせ同じ内容なので開ける必要がないからだ。
「こんなことになると分かっていたから……わしは隠者でいたかったのじゃ」
「私にも……実家から手紙が届きました。同じような……」
「そしてお前は憤った。だが、わしはただ、ただ絶望する。意地汚い人間に。頼みもしない栄光を押し売りした、この世界に」
ザキは額を抑えて、肺腑の奥深くから冷たい溜息を吐き出した。
人並みの幸せを求め、人生に希望を抱いていた若い頃ならいざ知らず。
人の三毒を思い知り、全てに絶望し、若さを失い、子も成せずに朽ちていくだけの年寄りになってから、人生に成功して何になるのか。
いや、世間から見れば成功者だろうが、実際は多大な責任と期待を押し付けられた神輿だ。
──俺から希望を奪っていったくせに、今さらこんなものを押し付けるな!
ザキは心の底から、運命を呪った。
「ふ……なんなら、わしはシューニャが世界の何もかも滅ぼしてくれるのを望んでおる。それこそが真の解放じゃ。解脱じゃ。どうにでもなれば良い……というのが本音じゃな?」
「なら、どうして……先生は今でもこんな調べものをしているのですか」
サハジ副官が持ってきた資料も、足元に積まれた本も、全ては異界からの落下者に関するものだ。
ただの知的好奇心でここまで熱心に資料を集めるだろうか。
サハジ副官は、ザキの本心は上辺の愚痴言葉ではなく、行動に表れていると思っていた。
「先生は……シューニャを止めるために過去の資料から真実を探っておられるのではないですか」
「フン、違うわ。見くびるでない」
ザキは鼻で笑った。
「わしはな、二度と異界とガンダルヴァが繋がらんようにするために、調べ物をしとるんじゃよ」
師が予想より遥かにスケールの大きい仕事を想定していたので、サハジ副官は目を丸くした。
驚きと喜びを以て。
そんな弟子の感情を鬱陶しく思い、ザキはまた厭そうな顔をした。
「お前……わしが世界を救おうとしてるとか、壮大な勘違いをしとるな?」
「違うのですか?」
「わしは、面倒事の元を断ちたいだけじゃ。今後もあんなのが次々と落っこちてきたら、落ち着いて隠居もできんじゃろうがっ」
独善は真意か照れ隠しか、いずれにせよザキは集めた資料を基にして別紙に情報をまとめていた。
ザキは引き出しから、木のペグで留められた紙の束を取り出した。
「さっきも言うたが、最初に異界からヒトの形をしたモノがメール山に落ちてきたのは五百年前じゃ。それ以前には確認されとらん」
「五百年前に何かがあった……と?」
「それはまだ分からん。そして五百年前から、我が国はたびたび異界の者たちの影響を受けている。たとえば三百年前のタジマ様はガンダルヴァ統一のキッカケを作った。我が国はガナ・サンガという寡頭制によって支配されてきたが、百年前に市民の選挙で議員を選ぶ民主共和制を導入した。これも異界の者の影響という説がある」
一見、別の世界からの来訪者が優れた思想、技術を移入することでガンダルヴァが発展しているように見えるが──
「これは……わしらの世界が本来辿るべき発展の順序を掻き乱しておる」
ザキは苦々しい表情で否定した。
「文明汚染とでもいうべきか。異界の異物どもが死んだ後に未練を持ちこんで、わしらの世界を掻き乱しておるのじゃ」
「しかし、国と国も文化や技術を移入して発展するものです。それが別の世界でも発生した、ということでは?」
対して、サハジ副官は肯定的に考えた。
ガンダルヴァも過去に幾度となく隣国の侵入を受け、国土が占領されたこともある。
屈辱と敗北の歴史であるが……文明が混ざり合い、新たな文化が生まれた一面もある。
「渡り鳥が孤島に種を持ちこむ例もあると聞きます」
「それは自然の理じゃの。だが──」
再び、ザキは紙を年代のページに戻した。
「異界からの侵入が……人為的なものだったら?」
「えっ?」
「誰かが召喚しているとか言っているワケではない。五百年前に、メール山に人間が何か手を加えて、自然が歪められて、こんな現象が起きるようになったとしたら……」
ザキは、椅子の背もたれから体を起こした。
静かな執務室に、乾いた吐息が響く。
「全ては人災……ということじゃ」
異界からの外来種が、世界の理を歪めているとしたら──
サハジ副官は悪寒を覚えた。
自分たちが腰に下げる大小のタジマ刀や、それを扱う剣術や作法。人の三毒を忌み嫌う思想。そして当たり前のように享受している共和制といった政治体制までもが、異界に文明を汚染された結果だとしたら。
いや──汚染されたことすらも自覚できずに、得体の知れない者たちに文明を凌辱されていたと思うと、これほど悍ましいものはない。
「渡り鳥……いや、迷い鳥が持ちこんだ植物が、元の草木を覆い尽くす……ということですか」
人に直接害なすシューニャだけではない。異界の者は全てが等しく、この世界には異物なのだろう。
サハジが異界の者たちを迷い鳥に喩えたのは、言い得て妙だとザキは感じた。
「迷い鳥か……。わしの役目は、新しい政府が独り立ちするまでの世話焼き。それと……鳥たちを在るべき場所に還してやることなんじゃろうな」
死者の未練が還る場所は、一つしかない。
寂しげに目を細めるザキの胸中を思うと、サハジ副官はそれ以上、何も言えなかった。
師は──平穏のために、凄まじい難行苦行に挑んでいるのだと




