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災厄は梅干しに涅槃を見る

 ザキの軍勢が中央府を陥落させてから半年後──シューニャは依然として、ガンダルヴァ国内を徘徊していた。

 朝も夜も関係なく山野を歩き、遠くに見える青い炎に向かって進んでいく。

 廃城を根城にする盗賊たちを斬った。

 洞窟で修行に明け暮れる武芸者を斬った。

 逃げるのを良しとせず、意地で立ち向かってきた兵士を斬った。

 ただ空しく、空気のように流れていく。

 季節は冬となり、北方のテングル山脈から寒気が吹き下ろすようになった頃、シューニャは山道を歩いていた。

 長い放浪で僧衣はぼろきれ同然となり、タジマ刀の柄巻きは崩れ、鞘も塗りが剥げた無惨な有様だった。

 しかし、シューニャ自信は何の変化もない。

 土と埃で肌は薄汚れていても、髭も髪も伸びていない。肉体の時間は、異界からガンダルヴァに落ちてきた瞬間から停止していた。

 シューニャの往く山道に、人の姿はない。

 ザキの手の者たちが事前に避難させているからだ。

 シューニャが人の手に負えない歩く災厄であることは、国中に知れ渡っていた。

 だというのに──山道脇の庵に、男が座っていた。

 シューニャにとって、人間の姿かたちはどうでも良い。

 視覚で見るのではなく、心眼で気配だけを感じているから、男の外見はぼんやりと見えた。

「よう、急いでんのかい?」

 男は、シューニャに気さくに声をかけた。

 傍らに酒瓶と杯を置いている。

 その男が正気なのか狂気なのか、酔っているのか素面なのか、シューニャにはどうでも良かった。

 男には青い炎は見えなかった。

 煩悩の火は一片もなく、ぼんやりとした気配を囲う輪郭が人の形をしている。

「別に……急ぐわけでもない」

 久方ぶりに、人の言葉を話した。

 何を思っているのか、男はシューニャに手招きをした。

「急ぐ旅でないなら、少し休んでいかんかね」

「休む必要など……」

「嵐とて、歩みを止めることもあろうに」

 シューニャの足が、久方ぶりに止まった。

 そして気配ではなく視覚で男の姿を見た。

 男の外見は、若い。二十歳前後か。色の薄い肌、黒い髪、無精ひげ……ガンダルヴァの人間ではなかった。

 人種としての特徴は、シューニャと同じ。

 なにより、体幹を崩さない身のこなしが……自分と同類だと、シューニャに確信させた。

 男に招かれて、シューニャは庵に入った。

 記憶の奥底にある、故郷を思い出す作りだった。

 ガンダルヴァには珍しい板張りの床、土間に置かれた壷から感じる……懐かしいにおい。

 この質素な庵は、いつかの別の自分が旅の最中に宿とした、禅小屋に似ていた。

「酒は飲むのか?」

 男の声が土間からした。

「飲まぬ……」

 ぼそり、と小さく答えた。

 小声だったが、男には聞こえていた。

「下戸なのか?」

「飲む必要がない」

「腹も減らぬか?」

「減らぬ」

 シューニャは人ではない。

 ガンダルヴァに落ちてきてから、水も食糧も一切口にしていない。

 飢えも乾きもなく、肉体は問題なく稼働し、剣技にも乱れは生じない。

 だというのに

「だが食えぬわけではあるまい?」

 男は酒と飯を持ってきた。

 大きな口の酒瓶と、二人分の杯。

 器に盛られた白米と……皿に乗った大きな梅干し。

「梅……」

 シューニャの声に、僅かな驚嘆があった。

 この地に落ちてきてから、初めての感情だった。

 男が持ってきた赤い果実の漬物。一緒に漬けられた香りの強い葉も添えてある。

 それは遠い昔、こことは違うどこかの世界、何人もの自分たちが口にした、故郷の食べ物だ。

「ガンダルヴァでコレを作ってるのは俺だけでな。だから、梅干し坊主と名乗っている」

 おどけた調子で、男はそう名乗った。

 冗談なのか本気なのか……そんなことはシューニャにはどうでも良かった。

 ただ、皿の上の梅干しは、記憶の中のものより……遥かに巨大だった。

 人の拳ほどの大きさがある。

「この国の梅はやたらデカくてなあ……。デカくて大味で、地元の連中は食用に使わない。だが大きい分だけ、梅干しにすればギュっ……と、うま味を濃縮できる、と俺は思った。そして創意工夫を重ね、コレが出来上がった」

 梅干し坊主は、誇らしげに語った。

 口振りからして、梅干し坊主はガンダルヴァの人間でないのは明らかだった。

「おぬしは……」

 シューニャが訊ねるのを遮って、梅干し坊主が機先を制した。

「お前さんと同じ。上から、ここに落ちてきた。人の形をしているが人ではない者よ」

 梅干し坊主は人差し指で天を指し、虚空に線を引いて、指先を床につけた。

「向こうにいた頃は……今のお前のように、剣に執らわれていた。それが生き甲斐だったような気もするし、呪いだったような気もする。満足して死んだような気もするし、後悔したまま死んで妖怪になったような気もする」

 他人事のように言って、梅干し坊主は笑った。

「お前さんとも、会ったことあるかもな?」

 人のよさそうな笑顔に……見覚えはない。

 だが、シューニャの混濁した記憶が渦巻き疼いた。

 むさ苦しい野武士のような男と屋敷で語りあった気がする。悪鬼と化した男と浜辺で斬りあった気がする。勝負を挑んできた男に怯え、我が身かわいさに追い返した気もする。

 そうだ。

 あの男は、二刀を使う……剣の極に至った者。

 時系列も何もかも整合性のない矛盾だらけの記憶に頭痛と眩暈を覚え、シューニャは目を細めた。

「ぐっ……おぬし……?」

「まあ、どうでも良いことだ。もう俺は剣に未練はない。生きていた頃に振って振って振りまくって……振り飽きたわ」

 さっぱり、と梅干し坊主は飯の器を差し出した。

「ここで会ったのも縁よ。さあ、食え! この国の米はパサパサしとるが、梅干しと一緒に食うのもまたオツなものよ!」

 梅干し坊主は、手づかみで飯を食い始めた。

 これはガンダルヴァの習慣である。

 シューニャもそれに倣い、まずは梅干しを掴んだ。

 大きな梅干しに、結晶化した塩が粒々と付着している。

 ひと思いに齧ると、懐かしい塩辛さと酸味が口いっぱいに広がった。

「むぅ……」

「ん? 口に合わんか?」

「いや……とても……染みる」

 あまりにも久方ぶりの食べ物の刺激で、シューニャは味覚を正常に感知できなかった。

 胃袋も突然の固形物投入で正常稼働を要求され、困惑で痙攣していた。

 シューニャは、胃痙攣の痛みに胸を抑える。

「このような……感覚……っ」

「食うことは生きることだ。お前さんはガンダルヴァに来て、初めて人間として生きたってことだろう」

 梅干し坊主は梅干しを齧り、酒を盃に注いだ。

「俺も別に食わなくても構わんのだが……それもつまらんでな。酒も飲む」

 芳醇な甘い香りの漂う、琥珀色の酒だった。

「この酒は梅酒だ。こいつは地元の連中にも好評だよ。味だけでなく薬効もある。弱った胃にも効くぞ」

 そう言って、梅干し坊主は梅酒をシューニャに差し出した。

 シューニャは一口、梅酒を啜った。

「ふう……確かに。少し……楽になった」

 胃が液体を潤滑油にして、胃酸を分泌し始めるのを感じた。

 シューニャは少しずつ飯を食べながら、庵の中を見渡した。

 武を感じさせるものは何もない。

 代わりに目を惹いたのは、壁にかかった一枚の絵。

 それは、梅の木に留まる一羽の鳩の絵だった。

「あの絵は……俺が描いた」

 梅干し坊主は、ぐいと酒を呷った。

「どうも俺は剣に未練はないが絵には未練タラタラなようでな。暇を見ては描いている。ま、ガンダルヴァの連中には墨で描いた絵はイマイチ評判悪いんだがよ。地味だなんだと酷評しやがって……クッソ」

 悔しげな、だが嬉しそうな語り口だった。

 現地人からの評価が芳しくないのは、文化の違いのせいだろう。ガンダルヴァ人は絵も彫刻も神像も赤青金色の極彩色を好む。

「まあ、いつかガンダルヴァ人にも分からせてやるぜ。ワビサビってやつをな~っ!」

 梅干し坊主は剣の代わりに筆を取り、絵でガンダルヴァ人の価値観と勝負しているのかも知れない。

 生者だった頃の業から逃れ、命を奪わぬ試合で人生を謳歌する……そんな生き様が、シューニャには羨ましく思えた。

「おぬしには……この地こそが極楽なのだろうな」

「極楽か地獄かは……自分次第だと思うがな」

 梅干し坊主は梅の種をゴリゴリと歯で弄んでから、皿の上に吐き出した。

 果実部分の巨大さに比べると種は小さく、指先ほどの大きさだった。

 ことん、と音を立てた種が真っ二つに割れた。

「梅の種には毒があるが……時と共に消える。荒ぶる天神も、やがては和やかな恵みの神となる。お前も執着から逃れて、自由に生きられる時がくるのではないかな」

 皿の上の梅の種は、白色の仁が露わになっていた。

 シューニャは忸怩たる思いで、唇を噛んだ。

「剣を振るい、斬れば斬るほど業が深まる。俺がいるのは修羅界だ。戦いだけの、対話のない世界だ。俺はもう……人に戻れないほど斬ってしまった」

「その果てに……極楽はあるのか?」

「あるとすれば……俺の剣への執念が消える時だろう」

 シューニャは自分の梅干しを噛みしめ、実の一片まで舐めとり、残った種も……飲み込んだ。

 選んだ生き方が違う、ということだ。

 梅干し坊主は、侘しく梅酒を啜った。

 かつて同じように剣に執らわれた人生を送った者だから分かる。

 シューニャが剣から解放される時──それは命が終わる時だと。

「いつか……お前を解放する者が現れるだろう。尤も、そりゃ俺じゃないだろうがな」

 現に、シューニャは梅干し坊主からは一切の戦意を感じなかった。

 梅干し坊主が再び剣を握ることはないだろう。

 絵に未練があると言うが、彼の生きざまは全ての束縛から解放された真の自由、真の空、真の涅槃のように思えた。

「そんじゃ……お前に俺から餞別をくれてやる」

 梅干し坊主は立ち上がると、庵の片隅の大きな竹籠を漁った。

 その中から、一着の僧衣を取り出した。

「死に装束がボロ服じゃ格好がつかんだろう? こいつを着るといい」

「その僧衣は……」

 シューニャには、見覚えのある僧衣だった。

 タジマ寺の僧侶たちが来ていた僧衣と同じ意匠だった。

「こいつは、俺がザキに貰ったもんだ」

 梅干し坊主は、ニッと笑った。

 彼もまた異界から落ちてきた存在。ザキに拾われ、彼と心通わし、自分の道を見つけたのだろう。

 シューニャは僧衣を受け取った。

 冷たい布地に、懐かしき友の体温を感じた。

 飯を食い、酒を飲んで、同類との時間は終わった。

 井戸水で体を清め、新たな僧衣に着替え、出立の時がきた。

「馳走になった。良き出会いだった……」

 シューニャは、庵の中の梅干し坊主に深々と頭を下げた。

 その別れ際、梅干し坊主は忘れ物に気付いた。

「そういや、お前の名前を聞いてないな?」

「元の名前は数多の魂と混ざりあって消えてしまった。今の俺はシューニャ……という」

「その名は……ザキがつけてくれたのか?」

「そうだ」

 返すシューニャの声色は、僅かに柔らかい人情が篭っていた。

 ほんの僅かな時間、シューニャは人として生きた。

 そしてまた、剣の亡者に、徘徊する災厄に戻っていった。

 山道を歩き出す。遥か彼方の、煩悩の陽炎を目指して。

 シューニャは背中に梅干し坊主の哀しげな視線を感じながら、二度と振り向くことはなかった。



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